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2007年5月21日 (月)

曲解音楽史12:初期キリスト教の聖歌について

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽   5)トランス   6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国
    10)古代ギリシア11)古代ローマ


これまで古代の四大文明圏からその周辺地域、ギリシア・ローマまで、西暦紀元前後の音楽がどのようなものだったかを(いちおうは最小限の資料を目・耳にし)「邪推」してきました。
ここで「初期キリスト教の聖歌について」というタイトルをもってきますと、従来の路線をそれる印象をお与えになってしまうかもしれません。
「あれ? 特定の曲種にだけ的を絞っていくの?」
・・・いいえ!
「じゃあ、なんでこんなタイトルにしたの?」
3つ、理由があります。
第1に、西暦紀元後の数百年については、世界の音楽がどういう状況下にあったか、私のような素人には伺うための資料が非常に限られてしまいます。特に、俗楽の分野となると、ほとんどお手上げ状態です。
第2に、俗楽が把握できないなら宗教音楽で、と考えてみますと、AD7世紀頃まで栄えていたゾロアスター教やマニ教(紀元3世紀に誕生)の音楽の特質や地域的な広がりを線的あるいは平面的にとらえるだけの材料を揃えられません。
で、「第3の男」(あ、古すぎ!)じゃない、第3の理由ということになるわけです。
キリスト教の聖歌に的を絞ると、素人にははなはだ都合がいいことが分かったのです。
キリスト教は、長い命脈を保った上に文明の継承者にも恵まれたローマ帝国と密接に関わっていたために、また帝国の版図が過去のどんな国家よりも広い範囲にわたっていたために、そして最後にはキリスト教がこのローマ帝国の「国教」となったおかげで・・・当時そのままに接することはもちろん不可能ですけれど・・・「初期キリスト教の聖歌」を一瞥するだけで、少なくとも西はガリアから東はシリアまでの、きわめて「グローバル」な音楽が把握出来るのです。
次節・次々節で説明を加えますが、
「じゃあ、どれだけグローバルなの?」
を確かめて頂くべく、最初に3種の聖歌を聴いておいて頂きましょう。

1. (東シリア教会)
2. (コプト教会)〜ちと長いです!女性も参加していることにご傾聴下さい!
3. (カロリング朝に伝わったローマ聖歌)



キリスト教は、ユダヤの国家崩壊と軌を一にして、信仰者がローマ帝国版図内の各地に活動拠点を移すことにより、旧オリエント世界へと急速に拡散していきます。しかも、その教義は少なくとも拡散した地点では他民族間へも着実に浸透もしていきました。同じ事態は当然ユダヤ教にも敷衍してよいはずですが、こちらはキリスト教徒は対照的に、他民族までを包含した形跡は全くありません。私はユダヤ教について全く知りませんので(タルムードの解説書を読んでも、理解力不足で内容がつかみきれません)、その理由を明らかにすることは出来ませんが、布教態度が保守的だったか柔軟だったか、に大きな差があったのではなかろうかと推測しておきます。
キリスト教は新興宗教ゆえの教義の非固定が幸いしたのか、「異邦人」をも許容しましたし、普及のためには古代オリエント各地で伝統化していた儀礼や礼拝習慣をも巧みに利用しました。その典型的な例の一つは「クリスマス」であり(これについては手軽な解説書が入手しやすいと思います)、一つはキリストとオルフェウスの同一視でした。後者の同一視は、まず、旧約聖書の「詩篇」が<ダヴィデが竪琴を持って歌った>ものを多く含むことから、竪琴というイメージでダヴィデとオルフェウスと結びつくことから始まりました。そしてキリストはダヴィデの正当な後継であり、神の子としてダヴィデを超えるものでもある、と理解されていましたから、同一視は日ならずしてキリストとオルフェウスのそれへと転化していきます。これにより、キリスト教は最小限でも古代ギリシア・ローマの宗教と姻戚関係を確立していったのでした。
依存する国家を失っていたキリスト教徒たちが移住した地域は、東はシリアから西はイベリア半島・ガリア地方にわたりました。それは上のような経緯で古代オリエントの文明と密着し、4世紀初頭には、拡散から拡大・浸透へと質的に変化し、4世紀前半コンスタンティヌス帝により国教化されたことで、大きくは3カ所、アンティオキア・ビザンチウム・カイロなどに強力な司教座を保持する結果となりました。
ただし、国教化される以前に採ってきた布教の柔軟な方法論は、お互いに離れた拠点がそれぞれ異なる教義を奉じるという事態を招き、教義統一のため、あるいは各自の教義の保持のための公会議が数多く催されたり、ローマ皇帝の干渉があったり、ケンケンガクガクな状況を招くことともなりました。
しかし、いくら公会議や皇帝の干渉があっても最終的には教義統一にはとうとう成功しませんでした。このことは何も「プロテスタント」の登場を待つまでもなく、現在に至るまで尾を引いており、典型としては西欧圏を中心としたカトリックと東欧中心のギリシア正教の相違に大きな痕跡を見ることが出来ます。
さらには、前節で聴いて頂いた通り、シリア教会・コプト教会・ガリア系教会に受け継がれている聖歌およびその唱法の違いも、およそ紀元6〜7世紀に起因するものと想像されます。
(以上はジャン・ダニエルーらによる「キリスト教史」[平凡社ライブラリー]の、独断と偏見に基づく、かなり大雑把な要約です。正確を期すためには、どうぞ、ダニエルーたちの著作に目を通してご覧になって下さいネ。)
以上の実態をふまえ、次項では最初に聴いて頂いた3つの聖歌のキャラクターがいかにグローバルか・・・いや、逆ですね、いかに地域ごとに事情を異にしているかを観察しましょう。


第2節に基づき、第1節でお聴き頂いた3種の聖歌について、それぞれ内容を確認しましょう。

1.東シリア教会
パンフレットに原詩の記載がありませんので特定出来ませんが、アラム語、らしいです。詩は初期キリスト教最大の聖歌作者として有名なエフレム(306〜373)です。唱法が「アラブ的・イスラム的」、であるからには後年イスラム文化による影響を受けて歌い方も変わったのだろう、とお感じになる向きもあるかもしれません。しかしながら、類似した旋律線は3番目に上げたカロリング朝へ伝承されたローマ聖歌の中にもありますから、事実は反対で、「イスラムの歌い方のほうが初期キリスト教の唱法の影響を受けた」と見なすほうが自然ですし、時系列で見ても合理的かな、と思います。ただし、3番目のほうでご説明します通り、唱法は西ローマ系のものではなく、おそらくはビザンチンの伝統を受け継いだのでしょう。

2.コプト教会
東シリアの唱法がイスラム文化の影響によったのではない、との傍証ともなるのが、コプト教会の聖歌の唱法です。聴きようによっては、日本の仏教の読経に近いものをお感じにはなりませんか? そうでもないですか? ウーン。。。とりあえずは、エジプトが今はイスラム圏であることも思い起こしておいて下さい。すると、コプト教会のキリスト教聖歌の歌い方が、いかに「コーランの唱え方」と違っているかをお分かり頂けるかと思います。・・・あ、コーランの唱え方については、いずれ触れようと思っています。音楽は打楽器の伴奏を伴うものを選んでみました。というのも、古記録(の抜粋の翻訳)やアウグスティヌス「告白」(の翻訳!)によれば、聖職者の発する禁令にも関わらず、初期の聖歌は竪琴をはじめとする様々な楽器をならしながら歌われたことが明らかになっているからです。竪琴伴奏の例を見つけられなかったのは残念ですが。
詩の言語は分かりません。古代を通じ、キリスト教の公用語はギリシア語からラテン語へと転じていったことが分かっています(前回、古代ローマの音楽のサンプルに掲げた聖歌の歌詞はギリシア語です)が、コプト教会は、そんな中で、あくまでコプト語(古代エジプト語の直系の子孫)にこだわり続けていたことも分かっています。・・・ここで聴く聖歌もコプト語だったらうれしいな!

3.カロリング朝に伝わったローマ聖歌
中世への過渡期にローマからカロリング朝へと受け継がれた聖歌については、マルセル・ペレスという人が精力的に研究・復元演奏をし、私の見つけた限りでは1986、91、96年に録音を発表しています。これらのなかには、1で聴かれるような旋律線を持つものと、後年明らかにグレゴリオ聖歌へと変貌していく旋律線を持つものが混在しています。後者がグレゴリオ聖歌へとつながっていくからには、こちらの方が西方世界にはなじみの深い唱法だったことを伺わせ、そこから推定すると、前者はビザンチンを中心とした東方教会に由来するものだ、と考えるのが妥当ではないか、と思われます。・・・これが、1の東シリア教会の唱法についての補足説明です。
さて、選んだ歌では聖歌の旋律の下で、低い声がずっと引き延ばされています。これは後年発想が逆転し、ゴシック期には下声部に聖歌の旋律が長く引き延ばされて配置され、上声部は聖歌を唐草模様のように飾り立てることになります。で、従来は、そうしたゴシック期の歌い方(オルガヌム)が、ポリフォニーの最初期作例だと一般人には説明されてきました。
ですが、カロリング朝に引き継がれたより古い聖歌が既にこのような唱法を採用していたのが事実だったとしたら(そしておそらく、ペレス氏は記譜されていないものを補足したりはしていない、と信頼してよいでしょうから)、ポリフォニーは中世期になって聖歌に取り入れられた、とする「常識」はしっかり見直しをしておく必要もあるし、ポリフォニー成立に関する資料もきちんと当たり直す必要があるでしょう。
かつ、ポリフォニーが西方世界で早期に浸透していたとしたら、その起源は少なくともローマには求め得るかと思われますし、さらにはローマに敵対して滅びたカルタゴの音楽に、既にポリフォニーが採用されていた可能性だって決して低くはないでしょう。すなわち、ポリフォニーの起源は、ピグミー族のポリフォニーを度外視し得たとしてもなお、本当はアフリカに有った、なんていう可能性もゼロではないのです。
・・・まあ、これは、まだ私の頭の中の、ファンタジーの世界では有りますが。

今回はこんなところで。

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コメント

初めまして。東方教会聖歌、特にロシア正教の19世紀から革命前夜、もしくは革命中地下で守られた聖歌について研究しているものです。本日貴兄のサイトに出会い、一気に1稿から12稿まで読ませていただきました。博識にして肩をはらず、貴重な資料を効果的に並べられ、ひたすら感服いたした次第です。
さて、私の近代ロシア聖歌研究は、11世紀の教会分裂(シスマ)にいきあたり、さらにその分裂の原点とも考えられる古代ギリシャにおけるピュタゴラス派とアリストクセノス派の対立、という問題に行き当たりました。アリストクセノスに関しては、日本の学者の間でも特にテトラコードに関心をもつ方の間のみでしられているようですが、東海大学の山本建郎先生が「アリストクセノス、『ハルモニア原論』の研究」という貴重な出版があります(すでにお読みでしたらごめんなさい!)。東海大学出版の目録の紹介でも「アリストクセノスは如何にしてピュタゴラスを超越したか。」と銘打っていますが、私も同感です。そしてこの論争が、日本の西洋音楽についての貴重な視点を与えるのみならず、東方のみならず、東洋音楽と西洋音楽の関係を考える上でも重要だと考えており、是非、貴兄のご意見をうかがいたいと願う次第です。
これからの執筆にも期待しております。小生自身はIT革命に見事に乗り遅れたIT弱者で、現在必死でPCに挑みつつホームページやブログなりを開設しようとしているものです。ネット上とは言え、どうか末永いご交誼をお願いする次第です。失礼がありましたらお許しください。Machey拝

投稿: Machey | 2010年1月22日 (金) 23時11分

Macheyさま

ご丁寧なコメントありがとうございます。
すぐに表示されない設定としているため表示が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
私は一介の素人でして、むずかしいことが分かりませんので「曲解」と冠を付けていますが、東方教会の聖歌に付いても納得のいく文献にはなかなか巡り会えず、ご相談相手もいらして下さったら心強いと思っております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

いまは近代に至っているため、いったんそれ以前のことは棚上げ状態ですが、こちらに総合目次を作ってございます。

是非アドヴァイスを頂ければ幸いに存じます。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-1afd.html

取り急ぎ御礼まで。

投稿: ken | 2010年1月22日 (金) 23時51分

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