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2007年4月24日 (火)

屍を停めざる大海・・・

かたちは「宗教を語る」ようにみえながらも、根っこでは違う・・・そんなお話をしてみたいと、ふと思いました。

信じる心、というものは、俄に培われるものではないのでしょう。
幼い時から生まれ育ったそのそばで、たとえば祖母が経文を唱えていた、母がいつも十字を切っていた・・・最初はそんな、代々つながる母なるものから受け継ぐのかも知れません。
乳離れを始め、本当は陰で親がえさを与えてくれているのだとは重々知りながら、自分の足で歩きたい、と考え出すと、こんどは祖母の経文、母の十字とは違う、自分なりに信じられるものは何か、という模索が始まります。

が、本当の自分なりになれるのは、よほどの人格者でない限り、「死」の訪れる、その瞬間でしかない。
そんな気がしてきました。
神が見える、仏が見える、超越者が見える・・・それもまた「死」の瞬間、そのときしかない。
ところが一方、矛盾するのですが、本当の自分も、神仏や超越者も、何もかも見えなくなるのもまた、「死」の瞬間なのではないか?

では、「死」とは何か?
肉体が動作をやめることが死なのか?
肉体は動いていても、精神が動作をやめれば、それが既に「死」なのか?

あてもなく書店をうろついていて、ふと目に止まった『臨済録』に手が出、開いているうちに、そんなことを考え出してしまいました。

現代語訳の部分を電車で一気に全巻読みました。
印象は強烈ではあったものの、どの話一つとっても、全く理解できませんでした。
とはいえ、いま、原文(漢文)のまま一つを引用します。訳語によらず、あとでじっくり考えてみるためのメモとして載せておきたいからです。

 大徳、錯って用心すること莫かれ。大海の屍を停めざるが如し。
 ひたすら担却して点火に走らんと擬(ほっ)す。
 自ら見障を起こして、以て心を礙(さ)う。
 日上に雲無ければ、天に麗いて普く照らす。
 眼中に翳無ければ、空裏に花無し。(岩波文庫本:145頁)

禅の名僧の言葉でありながら、聖書で神がヨブに語りかける言葉と、これはなんと似通っていることか!

さらに、臨済の言葉ではなく、解説に引かれた百丈和尚の表明。

 本来、自知自覚の是れ、自己仏なることを認めず。
 如今の鑑覚は是れ自己仏なると説くは、是れ初善なるのみ。

自分自身の中には、そもそも仏性なるものも・・・また神性にせよ悪魔にせよ、もろもろの高尚なもの、低俗なもの、等々(これを言葉にする事自体が既に愚かしいようです)はありもせず、ないわけでもない・・・禅宗の特徴に見える、あるいは古代インドやギリシアに始まる懐疑論にも伺われるようなあいまいさを持った表明だ、と、一見そのように読めなくもないのですが、こんな読みは誤っている。今の自分に分かるのは、まだそこまでです。。。
(23:55、24:22付記)

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