« ものさし | トップページ | 幻想 »

2007年4月 7日 (土)

『象さんの子守歌』:井上直幸

611死を目の前に、人はどんなものを残せるでしょうか?

幼児時代の私を可愛がってくれたオバサンは、3人いたお子さんのうち娘と次男を早くに失い、信心深くなっていました。不幸の後も、仏さんそのままの優しい人柄でした。老いて足は衰えましたが、健康も何とか保って生き続けていました。そんなオバサンが、でも、どういう理由からか、臨終のときには
「早く死なせてくれ、早く死なせてくれ」
と連呼したそうです。何故だったのか。分かりません。

肉体の生命力が、死を停めた有名な例は、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」だろうかと思います。これは、彼の精神を蘇らせたという意味では素晴らしい<事件>ではありました。が、文面そのものは、読み様によっては自己への苦渋と嫌悪に満ちたもの、かつ、肉親への愛憎もむき出しであって、はなから「死」を迎えるための遺書では無かった、と見るべきでしょう。

モーツァルトは遺作として「レクイエム」を残しました。いまでも「死」を考え、(キリスト教用語ではないので不適切ではありますが)供養を願う人びとに広く訴えかける、偉大な遺作です。けれどこれも、生への執着を如何に絶つか、という難題と葛藤を繰り広げるからこそ説得力を持つのです。
R.シュトラウスの有名な作品は、人間が「死」によってもたらしてもらえるものに対する期待をそのままタイトルともし、音楽の内容ともしています。「死と浄化(変容)」。・・・ですが、これは別段、作者自身が死に瀕した際の作品ではありません。R.シュトラウスの音楽上の死は奇しくもやはり「メタモルフォーゼン(変容)」のタイトルを持ちますが、これはベートーヴェンのエロイカの葬送行進曲を引用して、悲しみのうちに幕を閉じます。
同じくベートーヴェンの「月光」ソナタの主題を、こちらは空虚に引用して曲を終えるのが、ショスタコーヴィチの実質的な遺言的作品であるヴィオラソナタであることも、よく知られています。

昨年暮れ、家内の死の直前、私がようやく探し当てたCDが1枚、あります。
ピアニスト、井上直幸さんが、やはり「死」を目前に控え、自分の「死」を見つめながら残した録音です。
見つけてすぐ、自分の家内の死にあってしまったため、私には今日までこのCDの封を切る力がありませんでした。いや、今日も、決してあった訳ではありませんでした。

聴き終えた今、開封して本当によかった、と、しんみり思っております。

「象さんの子守歌」カメラータトウキョウCMCD-25010 (2,625円)

という、このCDが残されたいきさつは、ライナーノートにも勿論載っていますが、以前ご紹介した井阪紘著「一枚のディスクに」にも記されているところです。井阪さんは、このCDのプロデュースを、井上さんから引き受けた人物でもあります。
引用します。

彼から、三月中旬に「会いたいんだ。もう幾許もない人生かもしれないが、最後に遺したい仕事があるんだ。相談にのってよ!」
(中略)
「ボクは何とかもう一度力を振りしぼって、ボクの音楽のメッセージを遺したいんだ。もうすぐ一切になる孫が、こんなになってもボクのピアノを一生懸命聴いてくれるんだよ。それに勇気を授けられたのかな、そんなCDを一枚自宅のピアノで録りたいんだ。(略)」

こうしたきっかけから録音され、出来上がったCDの選曲内容は、以下の通りです。
どれも、今まで聴いたどんな名演奏の数々よりも澄み切って聞こえたのは、私自身の今の精神状態の所為なのかどうか・・・
あとで家内の仏前に供えます。

(曲目)
モーツァルト:メヌエットK.1・K.2、K.5、アレグロK.3
同:「ロンドン音楽帳」よりK.15a,K.15b,K.15d,K.15hh,K.15ii,プレスト変ロ長調K.15ll
J.S.バッハ:「アンナ・マグダレーナの音楽帳第2巻」より3曲およびエマヌエルバッハのメヌエット
シューベルト:「初めてのワルツ集」D.365より1,2,3,15,16番(井上氏編)
同:エコセーズD.511、「8つのエコセーズ」D.977より第8番
シューマン:「子供のためのアルバム」作品68より10曲(「楽しき農夫」を含む)
ドビュッシー:「子供の領分」より「象さんの子守歌」

2003年3月23、31日録音。井上氏逝去は同年4月22日。享年63歳。

|

« ものさし | トップページ | 幻想 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/6010270

この記事へのトラックバック一覧です: 『象さんの子守歌』:井上直幸:

« ものさし | トップページ | 幻想 »