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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝4)「ライモンダ」・「四季」

123456附(資料一覧)

グラズノフが楽壇に登場した1880年代から90年代にかけては、帝政ロシアは経済的に大きな転換期を迎えていました。クリミア戦争の敗北後、農奴解放を始めとした一連の経済政策改革、特にヴィッテ蔵相の登場による工業化の振興は、鉄鋼業・綿製品などの軽工業に大幅な好影響を与え、石油はベルギーやフランスの外国資本の協力を得て、一時的にはロシアは世界最大の産油国になるなど、全般に景気はかなり上向きに推移しました。一方、農業も化学肥料の積極利用や賃労働者による生産方式を取り入れるなどし、ドイツを相手に穀物が輸出できるようになるほど生産力を上げました。このことも含め社会階層の構造は「生産は賃労働者によって担われる」という具合に、急激な変換を遂げることとなりました。西欧に1世紀遅れで、政府主導型ではありましたが、ようやく産業革命が進展しはじめたのです。これによってもたらされた「身分・階層の差に伴う所得の歪み」が、まさか近い将来、血なまぐさい社会革命まで引き起こすとは、当時どれだけの人が予想していたでしょう。

それは措いて、リムスキー=コルサコフやグラズノフの人気、華やかな音への色彩変化が、経済の興隆と比例して高まっていくことには注目しておくべきでしょう。「華やかな音」はチャイコフスキー(というよりはむしろ、ペテルブルク・モスクワ両音楽院の創設と経営に功績のあった、ルビンシュタイン兄弟)に代表されるアカデミズム、ひいては上流階級の独占物でした。それが、産業の興隆による中産階級の富民が増加したことにより、本来「民族性・汎スラブ主義」の荒々しさを標榜してきた「五人組」の流れを汲む音楽家たちにも「華麗な響き」指向を拡大していく結果となったものと思われます。中産階級が劇場の客となる割合は、この頃全欧で急激に増加した模様で、同じ頃のイタリアの戯画に、「スカラ座を訪れるお上りさん」の場面があったりします。ロシアでも、同様の光景が多く見られるようになってきていたのではないでしょうか。

ここに、「アカデミズム」と「五人組派」の境界は自然消滅し、融合しあうことになりました。融合をもたらしたのが本当に彼自身なのかどうかは別として、たまたまそういう時期に創作の最盛期を迎えたグラズノフは、今日にいたるまで「ロシアの伝統と西欧の音楽を初めて統合し、新世界を切り開いた」と評価されることになりました。・・・でありながら、今日彼の作品がロシア国外で大きく取り上げられることが稀なのは何故なのでしょう。この疑問を解くには、もう少し先のロシア社会情勢、ロシア音楽界の変化を見ていかなければなりませんが、今は最も脂の乗りきった活動を繰り広げる彼の姿を見ていくことにしましょう。

グラズノフ少年を伴った旅で、先に市場の前途の明るさを見てとった楽譜出版商ベライエフは、1885年、ライプツィヒに「ロシア音楽出版所」を開設し、リムスキー=コルサコフの協力で多くのロシア人の作品を流通させることに成功しました。さらにベライエフは翌86年、「ロシア交響楽演奏会」を発足させ、リムスキー=コルサコフを主席指揮者(〜90年)に据えて、ロシア音楽の普及に努めました。翌年10月22日、グラズノフもその指揮者としてデビューし、88年にはフランスへ演奏旅行を行ないました。確証はありませんが、オペラを諦めた彼は、チャイコフスキーのバレエ作品に魅せられ、自分の本格的劇場デビューは「バレー音楽」で、という潜在意識を強く持っていた気がします。先にあげた「東洋的な狂詩曲」などは、明らかに舞曲的感覚が前面に打ち出されています。フランス公演で、彼は、「バレエならイケる!」との思いを一層強くする、何らかの機会を得て帰ったのではなかろうか・・・伝統的にバレーの本場であるパリを思い描き、グラズノフ訪問時はロシアに比べるとフランス自前のバレエ音楽の傑作があまり出ていなかった情勢を考えると、「自分にもこの世界でなら名を成すチャンスがある」と彼が自信を持ち始めたきっかけになる「出会い」があったはずなのではないか・・・そんな推測をしたい欲求に駆られます。これについて何の痕跡も見いだすことが出来ないのは残念です。

これ以降、グラズノフの作曲技法は格段に向上し、傑作を集中的に生み出すことになりますが、同時に作品の献呈相手選びには、外交政治的な態度が見え見えになってきます。90年発表の第3番から3年後の作品である交響曲第4番編ホ長調作品48はアントン・ルビンシュタインに、さらに2年後の交響曲第5番変ロ長調作品55はタネーエフに送られています。いずれも93年のチャイコフスキーの死後に残されたアカデミー派の大物でした。ルビンシュテインは生前のチャイコフスキーを見いだした人物ですから言わずもがなですが、タネーエフは作曲の師チャイコフスキーに対し
「あなたはバレエ音楽を交響曲に変えてしまった(註:誉めているのではなく、逆です)」
と憤慨した硬派中の硬派で、しかもバラキレフに輪をかけて自分にも厳しい人間でした。
そのタネーエフが、自己の厳しい審査眼を経て唯一出版した交響曲(第4番に当たりますが、タネーエフ自身は「これが私の第1交響曲だ」と言っていたそうです)の初演を1898年グラズノフの指揮に委ねたところをみると、彼はグラズノフの献呈作品である第5交響曲には素直に心服したのでしょう。(ちなみに、ずっと後の1979年、指揮者ムラヴィンスキーが、最期の来日公演で敬意を込めてグラズノフの第5交響曲を演奏しています。(53))
それぞれの交響曲が、献呈相手の気に合うよう慎重に作りこまれていることに注目しておく必要があるでしょう。第4番は緩徐楽章を終楽章の序奏にまで縮小し、3楽章形式の緊密な構成にしています。また、第2・第3がともすれば接続曲風に聞えていたのに対し、テーマの極端な変形を避けて、全体の統一感が失われないよう留意されています。第5番は雄大な第1楽章で始まりますが、中間のスケルツォと緩徐楽章はコンパクトにして冗長さを回避し、終楽章はタネーエフ好みの荒々しい音響を交えて気風のいい結末を迎えるよう設計されています。(雄渾な印象から、第5交響曲はグラズノフの「エロイカ」と呼ばれています。
ついでながら、タネーエフはスクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフの恩師となった人です。)こうした配慮は、この外交政略を成功に導いただけでなく、グラズノフの作曲技術をさらに高める上でも大いに役立ち、2年後からのバレエ作品での大成功につながっていきます。

「五人組」を支援してきた批評家スターソフには、70歳の誕生日と活動50周年を記念して、94年に「管弦楽のための荘厳な行列」作品50を献呈しています。より古いつきあいのスターソフに、交響曲に比べ遙かに小規模な作品しか捧げていないのは、「イーゴリ公」のグラズノフ補作部分に対しスターソフが低い評価しか下していなかったことに対する恨みがこもっているのでしょうか。交響曲がそれぞれ30分ないし40分を演奏に要するのに対し、作品50の演奏時間はたったの7分ですから。

以上のような大作・小作品の献呈対策の他に目立つのは、上演のあてがある訳でもないのに、グラズノフが盛んに「バレエ音楽」や「舞曲」の類いを作っていることです。ワルツは、92年と93年にピアノ作品として3曲、93年と94年に「演奏会用」と称して、2曲作っています。管弦楽の「演奏会用ワルツ」第1番作品47、第2番作品51は、グラズノフ作品の中では、今日でも割合ひろく採り上げられるプログラムになっています。これらのワルツの献呈相手は、母親を始めとし、どちらかというと身近な人々でした。バレエ曲は、まず93年にピアノ曲「バレエ用のエア」を、94年に管弦楽「バレーの風景」作品52(未聴)を作りました。後者には、献呈相手がいません。年代からいって、バレエ音楽作者として、93年に死去したチャイコフスキーの後釜を狙う宣伝効果を狙った創作だったのではないか、と勘ぐりたいタイミングです。事実、大作曲家を失ったペテルブルク劇場、なかんずくフランス出身の名振付師プティパ(1822〜1910、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」や「くるみ割り人形」にも深く関与した)は、新しいバレエ音楽の担い手を欲していました。そうした情勢を念頭に置いた「宣伝?」が功を奏し、プティパはグラズノフに白羽の矢を立てたのです。

グラズノフは彼なりの「3大バレエ」をペテルブルク劇場に提供することになりました。

まず、1897年には「ライモンダ」。13世紀ハンガリーの十字軍遠征を巡る物語が台本として用いられましたが、ストーリーは最初の2幕でしか意味を持ちません。第1幕は十字軍遠征に出かける婚約者の出発を悲しむ姫ライモンダの予言的な夢を中心に、第2幕はサラセン人の横恋慕に悩むライモンダのもとへ帰ってきた婚約者がサラセン人を倒すまでについて描写し、第3幕ではめでたく結ばれた二人の前で、華麗で多様な舞踏が展開します。現在でもクラシック・バレエのメインプログラムで採り上げられ、踊られている点、グラズノフの名前を今に残すことに最大の貢献をなした作品のひとつとなりました。(66・組曲62)

翌年の第2作は「お嬢さん女中」という作品で、ワトー風の情緒を狙ったもののようですが、こちらは今に至るまで生き残ることは出来なかったようです(未見)。

第3作は1899年の「四季」(54)。今日ではバレエとしてよりも管弦楽作品として演奏される機会の方が圧倒的に多いそうですが、確かに、冬〜春〜夏〜豊作の秋、と推移する明るくて表情豊かな音楽は、振り付けられた舞台で見るよりは聴衆として創造の情景にふけるほうが、より楽しめる作りになっているのかも知れません。現在、グラズノフ作品のCDで一番多く発行されているのは、この「四季」です。しかし、バレエ音楽だということにこだわるならば、「四季」は20世紀になって盛んになったプロットレス・バレエ(文学的な筋書きを持たないもの・・・ストラヴィンスキーの「春の祭典」やラヴェルの「ボレロ」が、従来、先駆けと言われています)の、音楽史・バレエ史上、記念すべき最初の作品だということは、今ではすっかり忘れられていることにもなります。(振り付けられた映像や実演の情報は、現時点で私は見つけていません。もしあったらお知らせ下さいね。興味津々です。)ともあれ、3分の2の確率だったものの、これによりグラズノフは劇場音楽でも「大家」としての名声を勝ち取ることができ、やっと心から満足を得たはずです。

どの本に有ったのか、不注意で見失ってしまいましたが、「交響曲は10年に1回演奏されるかどうかも分からない。オペラならすぐ金になる!」と、ある人が述べたことが記されていました。オペラやバレエはまだ娯楽の最高の華でしたし、オペラないしは宗教劇・バレエ曲を1曲も書かずに成功をとげた音楽家は、ヨーロッパ広しといえども、ほんの僅かに過ぎなかったはずです。調べた限りでは、19世紀の有名作曲家で該当するのはショパンとブラームスだけです。

グラズノフは、肥満した風貌と「交響曲の大家」という印象から「ロシアのブラームス」と呼ばれるようになっています。いつごろからそう呼ばれるようになったのかは分かりません。
しかし、少なくとも、バレエで成功を成し遂げた時点でグラズノフはブラームスと全く異なる路線を歩いていることが明らかになった、と言っていいでしょう。
かつ、当時のロシアでは、まだブラームスはあまり有名ではなかったそうですから、早い時期から「ロシアのブラームス」などというあだ名を頂戴していたとしたら、本人に対しては多少侮辱的な感じもしていたかも知れません(もっとも、ブラームスの音楽を彼が全く知らずにいたのだったら、ではありますが)。
「ロシアのブラームス」というのが後から与えられたレッテルだとしても、それによってグラズノフが現在被っている「名声上の」被害は甚大なものがあります。彼の音楽は今日ブラームスの作品の遙か下位に位置していると見なされていますし、実際、楽想の豊かさや構成の力強さではブラームスには及びもつかないかも知れません。
しかしながら、それは単に技量の問題ではなく、風土から来る性格の違いにも由来するのであって、よくよく耳を傾けると、とくに充実期のグラズノフ作品は、チャイコフスキー流の「接続曲的・旋律変奏手法的」技法を忠実に受け継いだ書法をとっていることが分かります。ブラームスとグラズノフでは、作曲に対する姿勢も大きく異なっています。
管弦楽作品の数だけ比較しても、グラズノフが80余りも残したのに対し、ブラームスは協奏曲に「ドイツ・レクイエム」と「アルト・ラプソディ」を含めても15曲残したに過ぎません。管弦楽が前者には気軽な楽器であったのに対し、後者には特別なものだったのでしょう。
グラズノフのピアノ作品は聴いていないので確言はしかねますが、ブラームスにおいてはピアノこそ色彩の原点であり、それにより強調を加える必要が有る場合のみ、彼は管弦楽を用いたのだと思います。
グラズノフは、ピアニストとしては自立できるほどの色彩感覚は持っていなかったのではないでしょうか。それゆえ、彼のパレットには最初から、濃い顔料にも似た管弦楽の色彩を揃えておく必要があったものと思われます。
本質の異なるこんな二人を同じ土俵に立たせること自体が、グラズノフの個性への間違った理解の元になっているだけでなく、グラズノフの守ったロシアの伝統こそが・・・グラズノフ自身は戸惑い、極端な場合は嫌悪することになるのですが・・・ラフマニノフの最初の交響曲や、ロシア・アバンギャルドの音楽での先駆けをなした一人であるプロコフィエフの諸作品の作曲技法に、グラズノフ本人の予想を超えて拡大され受け継がれていく、その源流となったことを見失わせる結果にもなっている気がしてなりません。・・・ちょっと、私的見解を綴り過ぎました。。。

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