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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝5)ラフマニノフ・ペテルブルク音楽院・革命

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ラフマニノフとグラズノフの最初の出会いは、悲喜劇的でした。グラズノフにとっては喜劇、しかし、ラフマニノフにとっては数年間立ち直れない程の強烈な悲劇でした。

ラフマニノフの師タネーエフが、優秀なピアニストで期待の新進作曲家である弟子の記念すべき第1交響曲の初演を、ベライエフの主催する「ロシア交響楽演奏会」に強烈に売り込んだのが、事の起こりでした。
音楽界事情は、[五人組」沈静化の後にはモスクワの方が先を進んでいたふしが有りますけれど、なんといっても帝政ロシアの首都はペテルブルクです。師タネーエフは、有望な弟子が首都でも大きく認められることにこだわったのでしょうか、郵送したスコアに対するベライエフの反応が好意的ではなかったにも関わらず、執拗に売り込みを繰り返し、ようやく1897年3月15日の「ロシア交響楽演奏会」の演目として採り上げる了解を取り付けたのでした。その指揮には、グラズノフがあたることになりました。
悪いことに、この演奏会のもう一つの演目は、グラズノフ自身が最近完成した交響曲第6番(62)でした。第4・第5の2作で自信を深めた会心の作品で、深い悲劇的な音響に始まり、歓喜の終楽章のうちに終わるという、理想主義者にはピッタリお気に入り間違いなし、という、当時の聴衆にとっては隙のない印象を与えるだろう秀作でした。
別に新進の若手をライヴァル視するつもりはなかったようですが、ラフマニノフが本番前々日に練習を聴くと、グラズノフ自身の作品に比べ、彼の交響曲の演奏は支離滅裂で、話にならないほどの失望感を与えられました。怒りを抑えながらそれを伝えると、グラズノフは
「私はみんな上手く運ぶと思いますよ」
と穏やかに答えたそうです。(14)
本番は、ラフマニノフの不安が的中し、やはり全く「上手く運」びませんでした。演奏会では先にグラズノフの第6が奏でられ、やんやの拍手を浴びたのですから、ことはいっそう悲惨でした。グラズノフにとって、自分の作品に比べると、ラフマニノフの交響曲のスコアは、はじめから複雑に過ぎたのです。作曲者自身にも理解できないほどの不協和音がつづけざまに、ホールの壁も崩れんばかりに発射されては炸裂し、なんとかコントロールを取り戻そうと汗だくになったグラズノフの指揮棒は、騒音弾の連発を抑制するにはかえって逆効果、という有り様で、髪を振り乱して最後の棒を彼が降ろした時に、ようやくホールは焼け跡のように空虚な沈黙を取り戻したのです。
席にいたスターソフは
「これはさっぱりわからん!」
と首をかしげ、冷淡な批判屋のキュイは薄笑いを浮かべていたということです。
翌日、新聞に掲載された批評記事も非常に悪意のこもったものだったようです。(14)

少しあと、グラズノフは、自分の理解不足について反省はせず、演奏会のオーケストラの無神経がラフマニノフ作品の初演を失敗に終わらせたのだ、作品自体は決して失敗作ではない、と強調しておおやけに弁護しましたが、そんなことでは癒せないほど、ラフマニノフの受けた傷は大きく深いものでした。
以後4年の長きにわたり、1901年に有名なピアノ協奏曲第2番を作曲、1903年に自らの手で演奏するまで、ラフマニノフは自己の作曲能力にも世間の無理解にも失望し、ほんの私的な歌曲・合唱曲・ピアノ作品を4つまとめた程度の活動をしただけでした。ラフマニノフは死ぬまで第1交響曲の自筆スコアを公表しませんでしたし、現在でも見つかっていません。死の翌年1944年に、音楽学者のオソフスキーという人がレニングラード音楽院にあるベライエフ関係のライブラリから初演時のパート譜を見つけ出し、それをもとに復元したスコアによって、この曲はやっと再び日の目を見たのでした。(77)
それを聴くと、第2ピアノ協奏曲や第2交響曲等の諸作品に比べ、第1交響曲は何と前衛的な作品だったのだろう、と強く感じます。

グラズノフの方は、ラフマニノフの第1初演の翌年、その師タネーエフの第4交響曲も初演の指揮を引き受け、こちらは見事に成功させています。(83)
ラフマニノフの第1は、師の交響曲と、出だしだけはよく似ています。いや、師の方が、弟子に似た出だしを書いた、というほうが、時系列的には正しいのです。出だしの後からは、けれども大きく異なります。タネーエフの作品はグラズノフの曲が現代の私達にしばしば平板に聞こえるのに対し、充分立体性を訴える力を備えています。さすが、スクリャービンやプロコフィエフを育て上げ得た実力者だ、と思わされます。それでも、「安定した構造の中に」立体を閉じこめている点で、内容としてはグラズノフの理解力の先を越すようなイジワルはしていません。ラフマニノフの発想は、師に比べると、グラズノフを遙かに当惑させたのではないでしょうか。全楽章、どのひとつをとっても、リズムや感情がひとところに留まることは(言い過ぎかも知れませんが)一瞬たりとも存在せず、どこをどう統率すればオーケストラが作曲者の狙い通り響くのか・・・建築屋風に言うなら「この設計図じゃ、分かりゃあしねエ・・・まあ、柱からでも立ててみるベえか!」という具合に取り組んでみるしか手が無かった、というのが実情だったのではないでしょうか。

それにしても、第1交響曲がこの時万が一成功していたら、ラフマニノフはスクリャービンやプロコフィエフに近い「前衛作曲家」になっていたかもしれません。本人は「あのとき、私の新しい芽は摘み取られた」と終生語っていた模様ですが、この失敗が彼の甘美な作風への転向をもたらしたのだ、と考えると、初演で曲を理解できなかったグラズノフに、私達は感謝したほうがよさそうです。・・・まあ、むずかしいところですね。

ラフマニノフを失意のどん底に突き落とした2年後の1899年、グラズノフはバレエ音楽「四季」で大成功をおさめ、パリ万博でも自作の第2交響曲や交響詩「ステンカ・ラージン」を指揮するなどして絶頂期を迎え、年末にはついにペテルブルク音楽院の教授に就任しました。この2年間に手をかけた大作は「ライモンダ」と「四季」、それにあえて加えるなら弦楽四重奏曲第5番くらいです。
革命前は多作家だった、という印象が強調されがちな彼ですが、ここで参考までに交響曲に限って作曲年次の間隔を見ておきますと、第1(1881)、第2(1885)、第3(1890)、第4(1893)、第5(1895)、第6(1896)、第7(1902)、第8(1906)となっていて、平均約3年半の間隔になっており、これだけで断言するのは気が早いとしても、決して一般の印象ほど早書きタイプの人ではなかったことが伺われます。
管弦楽作品数が80程度もある、という、手がけたジャンルの特異性が、彼を「皮相な早書き屋」と現代人に思わせてしまう大きな要因になっているのかも知れません。
音楽院教授就任後のグラズノフは徐々に作品数が減っていくようにも言われており、これも動乱の1905年(ロシア革命の前触れとなった戦艦ポチョムキンの事件や血の日曜日事件が起きた年)以降、意欲の減退が目立つようになった、と、先の森田氏なども、事典類でも強調されていますが、小曲類には数の面での減少傾向は確かに伺われるものの、交響曲に変わるジャンルとして協奏曲を中心とした大作について見ておくなら、1904年:ヴァイオリン協奏曲(58)(1906年:第8交響曲)(63)1911年:ピアノ協奏曲第1番(56、第2番も)1913年:劇音楽「ユダヤの王」(55)1917年:ピアノ協奏曲第2番・・・この年、ロシア革命(10月革命が決定打)1921年:弦楽四重奏曲第6番(未見)1930年:弦楽四重奏曲第7番(未見)、チェロと管弦楽のためのコンチェルト・バラータ(64)1932年:サクソフォーン四重奏曲(57)1933年:アルトサクソフォーンと弦楽合奏のための協奏曲(65)という具合で、革命後は後に述べるような音楽院院長としての努力、再び故郷に帰ることのなかった海外旅行への出発、などの苦しい環境も影響して間隔がひろがっては行くものの、この作品履歴を見る限り、私としては「第8交響曲以後、彼の創作力は減退した」という、事典(1)や森田氏の発言(24、ただし「交響曲」IIの巻)には賛成しかねます。
とくに、革命直後亡命を決意したラフマニノフが「故郷を捨てたのだから」と9年間作曲をしようともしなかったのとは異なり、28年に亡命の意図も明確にしないまま死の年の3年前まで諦めず続けた創作への愛着の深さ、結果として生まれた作品の安定した出来具合には、ラフマニノフに対するものとは違った意味での感銘を受けざるを得ません。ちょっと先走った話を綴ってしまいました。以上の考証にも関わらず、小作品が主ですが、音楽院教授就任後のグラズノフの創作ペースは急にではありませんけれど、やはり多忙になってきたのでしょう、徐々に減少していったのは事実です。そうしたなかでも、最初の大きな革命騒ぎが起こった1905年以前に、2つの大曲を仕上げています。
1902年の第7交響曲(59)は「田園」と呼ばれていますが、これはもっぱら第1楽章がベートーヴェンの第6にかなり似ていることに由来しているものと思われます。1904年に出来た「ヴァイオリン協奏曲」は、小振りながら、彼の作品の中では最も音楽の緊張度の高い名作です。
1904年、日露戦争で国内事情も不安定になったこともあってか、ロシア初の音楽家組合「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」が出来上がりました。1901年の不作をきっかけに、まずは重税にあえぐ農民たちが運動を起こし、それに端を発して不況が広まる中、労働者も生活条件も悪化、テロ事件も頻発するようになっており、時の首相プレーヴェは、なにかにつけ民衆を弾圧する政策を採り続けていました。「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」も、そうした世情を反映して生まれた団体と見てよいでしょう。同年7月、プレーヴェは暗殺されましたが、そんなことで世の中が良い方向へ向かうほど事態は安易ではありませんでした。景気は全くもちなおしませんでした。翌05年1月9日(新暦22日)日曜日、ツァーリ(ロシア皇帝)に窮状打開を訴えるため冬宮の前にしずしずと集まったペテルブルクの労働者とその家族約10万人に向かい、宮殿警護の軍隊が突然発砲するという、いわゆる「血の日曜日事件」が起こりました。社会的不満がいくらたまっていても、このときまでロシア民衆は、ギリシャ正教の伝統により、皇帝を「メシアの化身、親愛なる父」と崇めることをやめていませんでした。(ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」や「ホヴァンシチナ」などをご覧になってみて下さい。)その「父」の冷酷な処置(実際には皇帝の許可も得ず軍隊が勝手に発砲したのでしたが)に、民衆の皇室に対する信頼も地に落ち、12年後の革命でロマノフ朝が悲惨な終焉を迎える上で、この事件は大きな意味を持つことになります。(20)音楽界も、「血の日曜日事件」に対し、2月3日に抗議声明を発表、タネーエフ、ラフマニノフ、シャリアピンなどが声明に署名し、リムスキー=コルサコフもこれに賛同しました。結果として、タネーエフはモスクワ音楽院を解雇され、ペテルブルク音楽院の院長だったリムスキー=コルサコフも、タネーエフの解雇よりずっと早い時期に、追放の憂き目に遭いました。(18)

モスクワではそれきりタネーエフを弁護する動きは何も現れず仕舞でした。ルビンシュテインの後釜に座っていた院長のサフォーノフは評判の悪い人物でしたが、彼がタネーエフ弁護の動きを封じたのです。タネーエフは秋に音楽院を去り、以後むしろ悠々自適の生活を送ることになりました。タネーエフへの不当な処置に対し唯一抗議行動らしい行動をしたのはラフマニノフだけでした。彼の人気は当時ウナギ登りでしたが、モスクワに縁の深い組合からの出演要請にわざと厳つい渋面を作って断りの態度をあらわにしたりしました。1907年、ラフマニノフはコンテストでスクリャービンの「法悦の詩」を抑え優勝を勝ち取った傑作、交響曲第2番を、さっそく師タネーエフに献呈しています。(14)対照的に、ペテルブルクではリムスキー=コルサコフ解雇にあたって弟子のグラズノフやリャドフが強烈に抗議し共に辞職、音楽院は半年間閉鎖される、というほどに騒ぎが拡大しました。(18)

血の日曜日事件に端を発した革命騒ぎは、ポーツマス条約の締結によって日露戦争に決着を付けペテルブルクに戻ってきたヴィッテが皇帝ニコライ2世に提言した「選挙に基づく立法議会の開設」・「人民の基本的公民権の認知」を骨子とした『十月詔書』の発布により、一応の収拾を見ることになりました。ニコライ2世は当初、軍事独裁と立憲制の二者択一迫られた時、軍事独裁を選択しようとし、親族ニコライ大公が「それならこの場で自殺する」とピストルをとり出して脅かしをかけたことで、しぶしぶ立憲制を選んだとのことです。この皇帝の心理が、1906年にストルイピンを首相に起用し、再び恐怖政治に走らせ、自らの首を絞めていく結果に繋がっていくのです。(26)それはそれとして、ペテルブルク音楽院も、グラズノフが院長就任を受けることで閉鎖という事態から脱却し、再び活動をはじめることになりました。1905年という年は、グラズノフに私的にも事件がありました。グラズノフ性病説を上げたあと、「彼は一度も結婚せず、生涯を母親とともに送った。」(17,P334)とあるのが『ショスタコーヴィチの証言』の怪しいところで、同書のなかでのショスタコーヴィチはグラズノフの家にしょっちゅう出入りしていた、というのですからなおさらこの本はおかしい、というのが、この年の事件で判明します。ショスタコーヴィチは1906年生まれ、グラズノフの弟子になったのは1919年であることを、念頭に置いて下さい。

1905年にグラズノフに起こった事件とは、彼に娘が出来たことです。いつからかは分かりませんが、グラズノフはオルガ・ニコラエーヴナ・ガヴリロフという23歳年下の女性と同棲していました。そのオルガが出産したのです。娘はエレーナと名付けられました。グラズノフとオルガはその後もしばらく結婚を隠していましたが、1922年、プスコフ教会で正式に式を挙げ、28年から始まる海外逃避行は妻、娘と3人連れでした。

1906年の第8交響曲のあと、08年にはベートーヴェンの「運命の動機」をパクった「運命の歌」(といっても人声による歌は入っていない)作品84を作曲(68)、同年には、06年に亡くなったサフォーノフとこの年逝去したばかりのリムスキー=コルサコフを偲んで作った2つのプレリュード作品85(68)を発表しました。その上で1910年に第9番目の交響曲に取りかかりましたが、第1楽章をスケッチしただけで作曲をやめ、二度と再開することはありませんでした。(60)
「第九は人生最後の交響曲になる」
という、ブルックナーやマーラーの間で流行ったジンクスを担いでやめた、ということになっています。
恩人の相次ぐ死、5歳になったばかりの娘の行く末の為にも生きたい、という欲求がそうさせた、ということもあるかもしれません。そうでなくても、彼自身、周囲の音楽が変わり始め、もはや自分の様式ではついていけないのではないか、という諦めにも似た心情が、これ以上の交響曲作曲を空しく思わせたとも思えます。
このスケッチはグラズノフはロシアを出る1928年、リムスキー=コルサコフの女婿シテインベルクに預けられ、死後の1948年、ユーディンという人物によってオーケストレーションされました。
第8までの完成された交響曲は、悲しい旋律でも絶対に悲劇は保たれない、どこか幸せな感情をを残して終わる、という特徴をもっています。一番悲劇的に始まる第6も、第1楽章でさえ「悲劇」を保ちきれない・・・それが心優しいグラズノフの作曲姿勢であり、反面、交響曲のドラマとしての魅力のなさにも繋がってしまっていました。
それが、たった1楽章残された第9交響曲は、徹頭徹尾悲劇的です。世間の悲惨な姿が、彼の内面に大きな変化をもたらし、子供の誕生と成長が、精神に転機をもたらしたのでは、と私には思えてなりません。

ロシア革命の1917年までに作られた2つのピアノ協奏曲も、以前の楽天的な雰囲気から遠ざかっています。形式面でも、過去の作品で採ってきた古典様式を離れました。(56)
これらふたつ・・・曲想の非楽天化と形式の自由化、がこの時期以降の彼の作品に見られる特徴的な傾向となっていきます。ピアノ協奏曲第1番ヘ短調の第2楽章はテーマと9つの変奏から成り立っており、第6演奏までが緩徐楽章の、第7変奏以降がフィナーレの役割を果たしています。ピアノ協奏曲第2番は、3楽章編成ながら、リストの第2ピアノ協奏曲に倣って、連続的な、テンポやムードが絶えず流動する作品となっています(12)。

第1次世界大戦勃発の前年にあたる1913年、グラズノフは初めて劇音楽を作曲しました。詩人ロマノフがイエス・キリストのユダヤ入城、ピラトの兵卒に茨の冠をかぶらされて「ユダヤの王」とあざけられたエピソード(「マタイ福音書第27章、マルコ福音書第15章、ルカ福音書第23章、ヨハネ福音書第18・19章)に取材して創作した4幕の劇に、導入曲と付随音楽10曲(うち合唱を伴うもの5曲)を付けたのです。(55)
この「ユダヤの王」作品95は、ギリシャ正教の合唱の雰囲気をそのまま活かした厳粛な雰囲気を徹底して持っている点、同じ作曲者が11年前に作った組曲「中世より」作品79(第2曲に「怒りの日」が現れる以外、中世らしい曲想、色彩は全くない)と比較すると、創作の精神に大きな変化がもたらされていることをひしひしと感じさせてくれます。

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