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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝6)前衛と伝統・流浪・死

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1916年、ロシア帝室を牛耳っていた怪僧ラスプーチンが暗殺され、17年の2月革命でニコライ2世が退位、弟のミハイル大公が譲位を拒否したため、ここに帝政ロシアは崩壊しました。以後、革命運動は盛り上がる一方でしたが、食糧事情をはじめとしてロシア経済は停滞し、金銭的にひっ迫する市民も増加するばかりでした。

この頃のペテルブルク音楽院院長グラズノフの逸話は、彼の暖かい人間性を語っています。指揮者ムラヴィンスキー(1923年音楽院入学)は、最後の来日公演でグラズノフの第5交響曲を演奏するにあたり、日本人スタッフに
「グラズノフは、とても優しい人でした。大きな体をして、いつもにこにこしていた人です。そして、家庭が貧しくて、充分な教育が受けられない子どもなどがいると、そういう子どもの世話などを本当によく見ていました。そのグラズノフに、私は、どれだけ勇気づけられたか分かりません」
と語ったそうです。(53、西岡昌紀氏記事。同志の著書「ムラヴィンスキー 楽屋の素顔」リヴェルタ出版刊 にも記載)
1915年、12歳のナタン・ミルシュテインがグラズノフのヴァイオリン協奏曲を作曲者本人の指揮で弾いた時、リハーサルで曲の出だしをいくらか自己流に弾いたので、グラズノフがナタンに語りかけました。「私の書いたとおりに弾くのはいやかい?」リハーサルが終わると、今度はナタンにこういいました。「とにかく、君の好きなように弾きなさい。」(15)

この、心優しいグラズノフから最大の恩を受けたのは、ショスタコーヴィチです。
1919年、ピアニスト兼指揮者のシロティという人物に「音楽的才能がない」と診断されたショスタコーヴィチは、それを可哀想に思った両親がグラズノフに何とか引き合わせたことで道が開けたのです。ショスタコーヴィチに面接し、自作を弾かせたグラズノフは、シロティとは全く逆に13歳の彼の才能を「モーツァルトにも引けを取らない」と絶賛し、音楽院に入学させてくれました。ショスタコーヴィチ家は物資にも事欠いていましたが、グラズノフの経済的援助で、本人は音楽の勉強に専心することさえ出来ました。ショスタコーヴィチの作曲の師は、リムスキー=コルサコフの女婿、シテインベルクでした。この人は、コルサコフに才能を見込まれ、望まれて娘の婿になった人です。作風はしかし、義父に比べると穏健かも知れません。(85,86)
彼の指導のもと、ショスタコーヴィチは1925年、交響曲第1番を作曲しました。最初の2楽章には満足してくれたものの、シテインベルクは第3楽章、終楽章が気に入らず、特に終楽章については「テンポの面で演奏不能」とまで言い、それまでも良好とはいいかねた師弟関係に、表面的には現れなかったものの、これがもとでいっそう大きなひびが入ってしまったようです。師の懸念にも関わらず、翌26年、ショスタコーヴィチは交響曲第1番の初演にこぎつけ、大成功をおさめます。20歳の彼の成功を、グラズノフは16歳の時の自分の成功した姿に重ね合わせて見ていたといわれています。(16,79)

ただ、ショスタコーヴィチの作風は、この時早くも、グラズノフやシテインベルクの保守的なロマン派風の表現から外れ始めていました。「ショスタコーヴィチの証言」では、そのことがグラズノフには不満だった、といったようなことが書かれていますが、これは確かめる資料が他に見当たりません。
プロコフィエフ、となると、こちらはもう、その音楽をグラズノフが非常に毛嫌いしていたことがいろいろな記事に出ています。これも「ショスタコーヴィチの証言」に、グラズノフがプロコフィエフの「スキタイ組曲」演奏中、席を立って会場から出ていってしまった、という話が少々戯画的に誇張されて語られています。
いずれにせよ、前後のグラズノフ自身の作風から見て、革命以後急速に流行し出した「前衛的音楽」を彼が認めていなかったことは確かではないかと考えられます。のちに「ロシア・アバンギャルド」と名付けられ、大きな文化的トピックとして学者たちに扱われるようになる一連の芸術活動の、音楽面で筆頭に挙げられる名前は「プロコフィエフ」であり、彼にひそかに心酔していたショスタコーヴィチも、アバンギャルドの代表的詩人マヤコフスキーや演出家メイエルホリドと交流を深め、単一楽章形式の交響曲第2番・第3番では革命に熱狂する民衆を讃美する過激な表現を行なうに至ったのです。
狂っていくかに見える祖国の文化活動に愛想をつかし、政治的にも経済的にも有利な立場を追われつつあった芸術家たちは、20年ごろから西欧やアメリカに亡命し始めます。それが伝統派に限らないところが、面白いところです。音楽家では、ラフマニノフは早くも17年末にロシアを離れました。ラフマニノフを尊敬していたメートネルは21年にベルリンへ向け出国、パリを経て、最後はアメリカに移住しました。肝心のアバンギャルドの旗手と見られていたプロコフィエフも、18年には亡命しています。ストラヴィンスキーは、もともとフランスに本拠を置くロシアバレエ団と共に活動しており、故国に戻らなかっただけです。

幸いにして(?)、17年革命の前に亡くなった作曲家の代表は、まず、グラズノフの兄弟子リャドフ(1855〜1914)。大作こそなく、管弦楽作品は全て集めてもCD1枚に入ってしまう(交響詩3曲、8曲の民謡集1、小品8曲。演奏時間最長10分程度)ほどですが、民話に素材を求めた愛らしさはグラズノフにはないウィットに満ちています。日本では聴く機会が少ないのが残念です。(84)
また、生きていればアヴァンギャルドの教祖的存在になったであろうスクリャービン(1875〜1915)。鍵盤を押すと虹の七色がスクリーンに投射される<色光ピアノ>なるものまで作成し、この光に舞踊・香りも添えて二千人もの参加者によって演奏される『神秘』を企画しましたが、完成を果たせず唇のガンでなくなりました。

ソヴィエト連邦でしたたかに生き残ったのは、リャドフの弟子、ミャスコフスキー。生前は連邦の作品の出版国営化を任され、交響曲全27曲を作曲して(87)盛んに演奏されたそうですが、今はほとんど忘れられた存在になっています(1881〜1950)。門下にハチャトリアンやカバレフスキーがいます。

グラズノフは、というと、1928年まで、祖国に留まりました。自分の生徒たちを守るのに、必死だったのでしょうか。第2次世界大戦のドイツの行為で影が薄くなってしまっていますが、ヨーロッパ各国はもともとユダヤ人を通常の自国民とは差別する習慣が根強くあり、革命の前と後とを問わず、この点ロシアも共通でした。ミルシュテインの回想に、彼がユダヤ人であったゆえに、警察に問題視された際の事件が語られています。ミルシュテインは音楽院の生徒であったため、本来ユダヤ人に課せられる制限から自由であるはずなのに、警察が執拗に目をつけていたらしいことが読み取れますが、困り切ったミルシュテインを救ってくれたのがグラズノフでした。時の内務副大臣に電話一本で掛けあい、今後ミルシュテイン一家が安心できるよう取り計らってくれたのです。(15)
これは特別な例かも知れませんが、グラズノフは自分の地位を活かし、影に日なたに、彼の周囲の人たちを守ろうと必死に働いていたのではないかと思います。そんなグラズノフも、とうとう疲れたのでしょう、ロシアを永遠に離れる日を迎えます。
1920年代は、ロシアと西欧の行き来はまだ比較的自由でした。27年ごろからスターリンが大きく台頭してくると、しかし、その自由が急速に失われていき、34年に彼が完全に政権を掌握すると、交流はほとんど困難になりました。国内でも27年までに富裕な農民は次々と財産を没収され、工業労働者は無理な生産計画にのっとって過剰な労働を強いられるようになっていました。それまで「理想」に燃えた新機軸による活動をしてきた、革命の最も熱烈な支持者であるはずのアヴァンギャルド芸術家たちへの締めつけも、急速に強まりました。大ざっぱな言い方ですみませんが、政府は政府の規定する「模範的な芸術理念」にそった創作・表現活動を行なうことを芸術家たちに強制し出し、そこから外れるものは批判し、場合によっては粛清する、という強硬な態度に出始めたのです。詩人マヤコフスキーは30年にピストル自殺(偽装であって実は殺された、との説もあります)、メイエルホリドの劇場も36年に強制閉鎖され、40年にはメイエルホリド自身逮捕されてゆくえが分からなくなります(のちに、銃殺に書せられていたことが判明)。
ショスタコーヴィチの様々な受難については、彼の伝記をご覧下さい。

犠牲が出だすのは30年代に入ってからですから、グラズノフの出国は危うい、絶妙なタイミングでした。28年当時は、音楽界を含め、芸術界はまだ決して先行きに不安感を抱いていた訳ではありません。しかし、何かが、グラズノフに「もう限界だ」とささやきかけたのでしょう。ウィーンで行われるシューベルト没後百年記念コンクールに審査員として招かれたグラズノフは、6月15日、妻と娘を連れ、ロシアを出国しました。亡命する気まではなかった、とも言われていますが、そうだとすると以後の活動ぶりについて説明がつきません。(24)そのままプラハ、ワイマール、バルセロナ、マドリード、と2年間にわたって各地で自作中心に管弦楽を指揮して回り、1930年、パリに仮の住まいを定めました。(24,101)
パリを拠点に1932年まで、グラズノフはイギリスやアメリカで指揮活動を行いましたが、最後の4年間は健康を害し、病床に伏していたとのことです。(病名は調べきれませんでした)。
死を前にしたグラズノフについて、あと2つだけ、謎(というほどではないかもしれませんが)があります。
ひとつは、「指揮ベタ」疑惑。もう一つは、「アル中」疑惑です。
最初の「指揮ベタ」疑惑から。
まだロシア国内で活動している時のことです。ラフマニノフの交響曲第1番初演を巡っての事件は5節目に記したとおりですが、シャリアピンとの間にも次のようなエピソードがあります。グラズノフの指揮でシャリアピンが「ボリス・ゴドゥノフ」を歌っている時のこと、歌手のテンションアップに一行構わずテンポを上げようとしない指揮者に、シャリアピンはとうとう我慢できず、低い声でこう唸ったそうです。「サーシャ、もっと速くしろ!」ミルシュテインと大の仲良しだったホロヴィッツも、グラズノフの指揮でラフマニノフの協奏曲第3番を弾いていた時、緩慢さに耐えられず、どんどん勝手にテンポアップした、ということです。(15)
こんな具合で、人柄そのままに、人のペースに関係なく、およそのんびりした振り方ばかりしていたグラズノフが、西欧移住後、どの程度の評判を勝ち得ていたものか・・・残念なことに、評論の類いを見つけることが出来ませんでした。

パリ移住後も変わらなかったのんびりぶりは、同じミルシュテインの回想の中に、ラフマニノフが31年に行なったリサイタルの際の思い出として出てきます。このリサイタルで、ラフマニノフはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」のプレリュードを自ら編曲し(78)、演奏したのですが、ミルシュテインにその批評をしてくれるよう頼んでいました。演奏直後、ミルシュテインは度胸を決め、ある個所についてバッハらしくない響きがした、とラフマニノフに告げに行き、演奏後の興奮さめやらぬラフマニノフに雷を落とされ、しょんぼりともどりました。その後はラフマニノフと顔を合せるのも恐ろしく、それでもラフマニノフ夫人の依頼でリサイタルのあとのパーティーにこわごわ出席しました。パーティーの席上、ミルシュテインが心配していたとおり、ラフマニノフは同席していたグラズノフに、ミルシュテインがこう批評してくれたけれどどう思うかね、という問いを発しました。「見たところ、グラズノフは演奏会の間そんなに厳密には聴いていないようだった。というよりグラズノフはこれまでもそのような聴き方はしていなかった。」(15)

こんなグラズノフが、1930年に「チェロ独奏と管弦楽のためのコンチェルト・バラータ」作品108をカザルスに献呈しています(64)。ソロを受け持ったであろうカザルスが、演奏会でグラズノフの指揮をどう感じたか、発言をやはり私は見いだせませんでした・・・

難しいのは、「アル中疑惑」です。
ラフマニノフの交響曲第1番初演が大失敗に終わった時、彼は妻に「グラズノフは酔っぱらっていたのよ」と慰められた、という話が、私の買ったCDの英語解説に出ていましたが、この時ラフマニノフはまだ結婚していないので、話は事実ではありません。しかし、グラズノフの酒好きぶりは、割合早い頃から評判になっていたのかも知れません。
例によって「ショスタコーヴィチの証言」には、グラズノフが音楽院で生徒に授業をしている間も隠れて酒を飲んでいた、というゴシップが載っています。しかも、その酒はショスタコーヴィチの父から貰っていた、というのです。(ショスタコーヴィチの父は22年に亡くなっています。仮にグラズノフにお酒を届け得たとしても、3年間だけだったことになります。)
「グラズノフは単に酒を飲むのが好きだったのではなく、絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられていたのだ。/このような不幸な体質をもっている人もいるものである。」(17)
グラズノフと同じデブである私は、デブが「絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられ」ることをとてもよく理解できます。大人ですから我慢できますが、息子はそれこそいつも水分の採り過ぎで・・・こんな文句に出会うと「余計なお世話ヤ!」と、つい怒鳴りたくなります。・・・失礼しました。実際に授業中にグラズノフが飲んでいたのは、コロン水だ、という話もあります。(18)
いちおう、こっちの方が正しいのではないか、と私は思っています。アルコールばかり取っていては、いっそう咽喉が渇きますから。
ただ、グラズノフの酒好き、簡単に酔っぱらうさまは真実で、ミルシュテインのアンコールの伴奏をベロンベロンに酔っぱらって引き受けた様子や(15,p73)、たったワイン2,3杯ですっかり陽気になり、それでも言葉を選びながら、チャイコフスキーの「悲愴」初演の時の印象を語ったということ(15、p89)が、暖かく回想されています。
一般に、この頃の音楽家は酒を飲むのが非常な楽しみだったようで、ラフマニノフにも寝酒の習慣がありました(14)。
カザルスはサラサーテに会った時、彼からすすめられたブランデーを断ると、彼に
「なんだって? 君は芸術家志望だったね、それでも酒をやらない? うん、そりゃあ、どだい無理な話だよ」
と言われたそうです(19)。
グラズノフの酒好きは、以上から見ると、別に彼だけとりたてて騒がれなければならないような汚点ではないと感じられます。
気になるのは、H.G.ウェルズが書いている「自叙伝の試み」に、ウェルズがグラズノフとあった時、「彼はかなり酔っていたふうだった、アルコール中毒に見えた」と書いてあるとかないとかいう話が「2ちゃんねる」の掲示板に載っていたことです。で、必死でウェルズのその本を探しましたが、見つけるだけの時間がありませんでした(手がかりがありそうだったら教えて下さい。翻訳は出ていない模様です)。ウェルズと面会したグラズノフが、ウェルズにロシア情勢についてあれこれ情報をねだった、という、その時の話らしく、それが祖国を離れた寂しさに由来するものだったとしたら、アルコール中毒になっていても無理もない話として許されるだろう、とは思います。ただ、グラズノフの死因が突き止められなかっただけに、この話が彼の死と何らかの接点を持っているのではないか、と思うと、どうしても本当のところが知りたく思われます。

彼の最後から2,3番目の作品は、いずれもサックスの為のものです。作品番号はいずれも109、と、重複しており、何らかの錯誤があるようです。ひとつは、サクソフォン四重奏曲。パリで活動していたミュールという演奏者のサックスアンサンブルがアレンジものばかりをレパートリーにしているのを残念がり、このアンサンブルにオリジナル作品を提供する意図から作曲されました。第2楽章の変奏曲が、緩徐楽章から推移してそのままスケルツォになる、という、ピアノ協奏曲以降の自由な形式感覚で作られています。(57)
もう一つは、弦楽オーケストラを伴奏にしたアルトサクソフォン協奏曲(65)。20分ほどの単一楽章形式の曲ですが、グラズノフらしい明るい楽想の中にも、独奏楽器の音色がもたらす寂寞感が漂い、作曲者の命がだんだんに透き通って来た様子が見えるようです。一番最後の作品はオルガン用の幻想曲(未見)で、1935年作、と作品表には出ています(101,103)。作品番号は110です。

1933年に病床に伏してからのグラズノフについての具体的な記述が一切見いだせなかったのが、私の最大の心残りです。

1936年3月21日、グラズノフはパリで亡くなりました。71歳まであと5ヶ月でした。遺骨は1972年になってようやく、故郷ペテルブルク(当時はレニングラード)に帰ることが出来ました。娘のエレーナは、その後ピアニストになりました。(101)

ラフマニノフの伝記には、ラフマニノフの死の場面に、
「忘れられたものだけが死んだのだ」
という言葉を配しています。しかし、ラフマニノフは、名曲「ピアノ協奏曲第2番」ひとつしか知らない人の記憶にもその名は生き残っています。

グラズノフについては、どうでしょうか。。。いまのところ彼は、忘れられたに等しい存在であることは否定できないでしょう。

しかし、どうぞ、いちど彼の「ヴァイオリン協奏曲」をお聴きになってみて下さい。

彼もまた、<心の宝石>を私たち後代に生きるもののために残してくれた、大切な人だったことが、きっとお感じ頂けるものと思います。

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