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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝3)チャイコフスキー・「イーゴリ公」・交響的絵画

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「五人組」に育てられていたペテルブルクの若手音楽家たちがチャイコフスキーと初めて会ったのは、グラズノフがベライエフとの旅行から帰った1884年秋のこと(13)とも、旅行前の1月14日のこと(52)ともあり、どちらが正確かは確認できません。が、バラキレフの家で「決められた時間に集合し(13)」て来訪を待ったのは、間違いないようです。
「興奮してチャイコフスキーの到着を待ち始めたが、彼がわたしたちとは違う陣営の人であるため、どういう立場をとったらいいかと相談しあい、非常に控え目にしているのがよかろうということになった。」(グラズノフの回想、13に記載)
緊張は、チャイコフスキーが着き、2年前に彼がバラキレフの勧めで書き始めた標題交響曲「マンフレッド」がいかに自分を夢中にさせているか、でありながらどれだけ作曲に苦労しているかを話題にし(おそらくはそれに対しキュイや評論家スターソフ・・・85年の「マンフレッド」完成の折りに最も熱烈に作品を支持した人たち・・・が激励する一幕があったりして)瞬く間にほどけました。
作風から想像される「張りつめた人格」とは違い、チャイコフスキーが冗談好きで気さくなお喋り屋さんだったことも、一同の空気を解きほぐすのに大きな効果がありました。
話が興に乗ってくると、チャイコフスキーはペテルブルクの若手作曲家たちに、それぞれの作品をピアノで弾いてくれるよう所望しました。演奏されたのはグラズノフの作品でした。交響曲第1番のスケルツォと、「叙情的な詩」作品12(管弦楽初演は4年後の88年)で、チャイコフスキーはそれらを2回ずつ弾くよう望み、かなり熱中して聴いた、とその場にいたスターソフが10月29日付の肉親宛書簡で回想しています。(52)
グラズノフも、1855年生まれの兄弟子リャドフ(1914年死)も、このときすっかりチャイコフスキーに魅せられてしまいました。
「リャドフの表現によれば、偉大な作曲家と知りあったことは、わたしたち一同にとって何かめでたい出来事のようだった。」(13)

リムスキー=コルサコフだけが、モスクワの大作曲家に魅せられていく自分の弟子たちを目の当たりにし、心中穏やかならぬものがありました。(13。「回想録」にその思いを連綿と綴っているそうですが、今回目に出来ませんでした。)
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。そして、諺にもあるように、禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」(17)
『ショスタコーヴィチの証言』二(中公文庫145頁以下)にあるこうした記述は表面的に過ぎ、リムスキー=コルサコフの嫉妬心だけを異様に強調したものであって、彼の心の本質に触れているとは言い難いところがあります。
自身が尊敬し続けてきた大先輩が、自分の育てた若い有望な弟子、グラズノフとリャドフの心を一瞬に連れ去ってしまった、という思いは、嫉妬ばかりか虚脱感をも胸に抱かせるには確かに充分です。
他にも、当時「チャイコフスキーは活動の拠点をモスクワからペテルブルクに移す」という噂があり、もしコルサコフが名誉心の人だけであったなら、これは歓迎すべからざる話だったであろうとも推察されます。結局、チャイコフスキーのモスクワ離れは実行されませんでした。
したがって、先に引用した
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。」
という言葉は全く偽りであることが分かります。次の
「禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」
も、リムニャーニンの努力家ぶりを全く無視した、侮蔑的な表現です。実際この出会い以後リムニャーニンの新創作が減少していることは事実です。

彼は、何をしていたか。自分を離れていくかに見える有能な弟子の食い止め策に走ったのか。

そうではありません。・・・若いときのオーケストラ作品を、ことごとく手直ししていたのです。

30歳前に完成してしまった3曲の交響曲は地味な響きしかしないものでしたが(75の第2番が旧版のままの演奏ですので、手直し前後の音色を知るのに役立ちます)、それを含め、チャイコフスキーが賞賛してくれていた音画「サトコ」作品5なども、より良い、華やいだ響きにするにはどうしたらいいかを必死に検討し、自分自身を「改善」することに何よりも重きを置いていたのです。これは、「改作」を迫られるとすぐ悲観的で投げやりになったチャイコフスキーではとても考えられない、海軍勤務と「五人組」的訓練とで養われたリムニャーニンの強い精神力の現れではないか、と、私は感じます。(75)成果は、別にチャイコフスキーの死後初めて現れた訳ではありません。名作「スペイン奇想曲」は87年、「シェエラザード」は88年の作品です。オペラでも、全曲を耳にする機会は得ていませんが、1890年に完成した「ムラダ」は一部の器楽曲を聴いただけで素晴らしさを堪能させてくれるものです。

リムニャーニンの自己発展に大きな役割を果たした事件は、チャイコフスキーと「五人組」後継若手の会見だけではありませんでした。87年2月、「五人組」最年長で、本業の医化学でも世界的な業績を果たしていた仲間、ボロディンが急逝したのです。生前、ボロディンは、長年かかってオペラ「イーゴリ公」の構想と作曲にとりかかっていましたが、思うように行かずたびたび投げ出そうとしていました。有名な「韃靼人の踊り(最近はより正しく「ポロヴェツ人の踊り」と称され出しています)も、リムニャーニンに叱られ、手伝ってもらいながらいやいや仕上げ、79年に単独で初演されたものでした。
そもそも、もとになった「イーゴリ公軍記」は伝来に不思議な経緯を持つ古典です。第一に、18世紀末まで写本が修道院にひっそりと眠っており、誰もその存在を知りませんでした。第二に、学者が出版した直後、ナポレオンのモスクワ遠征の最中に、見つかった原写本は焼失してしまいました。同じころ筆写された複製本はエカテリーナ女帝に献呈されていましたが、それも長い間行方不明になっており、1864年になって偶然再発見されたのです。こうしたいきさつもあって、ボロディンがこれを題材に選んだ1866年、「イーゴリ公」はまさに話題の文学でした。(21)
しかしながら、「イーゴリ公」という素材そのものは、ドラマとしての起伏作りが難しく、取り組みにくいものでした。ボロディンがなかなか先へ進めなかったのも仕方のないことです。
「私には生きているうちにオペラなんか完成出来やしないよ。リムニャーニン、サーシャ、私が死んだらあとは君たち二人に頼むしかないな」
生前、ボロディンは諦めたように言っていました。(52)
それでもこんな突然に亡くなるとは、あたりの誰も想像しておらず、医化学界も音楽界も悲嘆に暮れることになりました。死んだボロディンの家には、半分出来上がったものからごみ箱に捨てられたメモまで、と「イーゴリ公」に関するらしい譜面が文字通り散乱していました。散乱していること自体、ボロディンの「イーゴリ公」を進められない苛立ちと、なお諦めきれない執念を物語っていました。
「なんとかするしかないな、サーシャ」
交響曲第1番を完成したとき、未だ幼い自分を「太陽の子!」と誉め称えてくれたボロディンが自分にも「イーゴリ公」の完成を託していたことを回想し、サーシャ・グラズノフはリムニャーニンと共同でその完成に尽力することに、いまさら異は唱える訳にはいきませんでした。サーシャもまた、リムニャーニン同様、ボロディンを好きだったのです。それが証拠に、サーシャは「イーゴリ公」の他、ボロディンの交響曲第3番の遺稿の整理と編曲も手がけましたし、ピアノ曲「小組曲」も89年にオーケストレーションしています。(81)
リムニャーニンが「イーゴリ公」の補作で自分の方向性を再発見するという大きな収穫を得たのに対し、のちにグラズノフが批評家アサフィエフに尋ねられたときの答えぶりをみると、「イーゴリ公」の仕事はサーシャにとっては必ずしも快いものではなかったようです。
補作に際しての分担は、リムニャーニンが1・2・4幕、サーシャが第3幕と、全く出来上がっていない序曲、というものでした。「サーシャ、君は記憶力抜群だから、ボロディンが弾いていた序曲をよく覚えているだろう」「ええ、それはそうですけれど・・・」ボロディンが弾いて聴かせてくれた序曲の案は、弾くたびに内容がバラバラで、音楽の落ち着き先も決まらず中途半端に演奏を終えてしまったものばかりでした。しかも、まともな楽譜がひとつも残っていません。詳しくはCDやスコアの解説に載っていますので、ご興味のある方はそちらをご参照下さい。とにかく、序曲を構成する作業はサーシャを相当苦しめたようです。メモを漁り、ゴミ箱も漁り、薄れかけている記憶も必死で蘇らせ、それでもどうしても駄目な大部分は、結局自分で作曲せざるを得なかったのです。しかも、「自分で作曲した」部分はほんの少数だ、ということを、「イーゴリ公」の初演に際しては強調していなければなりませんでした。でないと仕上がった歌劇の価値を落とすことになるから、という配慮があったのかと思われます。それでも、苦労してまとめた「序曲」は、歌劇の他の部分とは違い、随分低い評価しか得られませんでした。(80,82)
かなりのちに、「序曲は、だって? そうだ、私が作曲した、ということだ・・・仕方がなかったんだよ!」アサフィエフの執拗な質問に、グラズノフはウンザリした声でそう答えたそうです。一方で、こんな話もあります。批評家の大先輩スターソフがアサフィエフにピアノで「イーゴリ公」を弾いて聴かせてくれるよう頼むときは、ひとこと付け加えるのを忘れなかったというのです。「序曲と第3幕は、省いてくれ」これらはグラズノフが補作を担当した部分です(全音版スコアの森田稔氏による解説。)。

たしかに、「イーゴリ公」を通して聴くとき、序曲の各部分は間違いなく劇中の要素を使っているのですが、以降に始まる音楽と、どこか調和しない響きを持つことは否めません。これはひとえに、グラズノフがチャイコフスキー的な書法に傾倒し始め、チャイコフスキー的な響きを求めることに熱を上げていたことによるもののようです。「五人組」の粗野さとチャイコフスキーの優雅さは、改善された彼らの人間関係とは別に、本来調和しないものでした。ところが、「イーゴリ公」序曲は、どこかチャイコフスキー的な響きがします。スターソフは、そのことを敏感に感じ取っていたのでしょう。だからといって第3幕まで「省いてくれ」というのは、酷に過ぎることでした。こちらではグラズノフもチャイコフスキー的要素が入りこまないよう、かなり気を使っていたことが伺われるのですから。(80。この映像は音楽の省略が多いのが残念ですが。)
「イーゴリ公」の仕事で受けた心の傷が深かったからでしょう、グラズノフは生涯1つもオペラを作曲しませんでした。グラズノフの色彩変化の発端は、84年の出会いの時、チャイコフスキーが彼の「叙情的な詩」を気に入ってくれたことにあったのではないかと思います。この作品は、「五人組」の流れを引く人間の作品にしては文字通り「叙情的」に過ぎ、繊細な美しさを持っていました。グラズノフは、普段の仲間とは違い、自分の「繊細さ」にチャイコフスキーが目をつけてくれたことが、かなり嬉しかったのではないでしょうか。「イーゴリ公」の補作にとりかかっていた87年から89年の間、一方でグラズノフが熱中していたのは、「幻想曲」と肩書きを付けたり、あまり標題的でない性格を持ったりした管弦楽作品の創造でした。(52,67)前者には、管弦楽による幻想曲「森」作品19、管弦楽による幻想曲「海」作品28後者には、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20、「東洋的な狂詩曲」作品29があります。

この中で、「森」は交響曲第1番完成直後から5年をかけて構想され、仕上げられた作品です。
「夜の暗い森の中で木々はこの世のものとも思えない姿に変貌している。聴いたこともないような不思議な響きが聞こえてくる。私は音の方へと近づいていく。音も私に近づいてくる。それはニンフたちの憂いに満ちた歌だったのだ。そこへ恐ろしい巨人がずっしりとした足取りでやってきて、歩く先にあるもの全てを破壊し尽くす。その後を、目に見えない誰かが急いで修復する。夜は瞬く間に開け始め、ニンフの歌はこだまとなって消えていき、やがて鳥たちが喜ばしくさえずり始める。」(52)
こうした叙情詩的な光景は、ムソルグスキー以外の「五人組」にはかつて思い浮かぶこともままならなかったものでした。発想が早い時期のものだけに、それでも音楽にはまだ強い「チャイコフスキー色」はありません。そのうえ、むしろ「チャイコフスキー色」に染まって以降のグラズノフ作品よりも豊かなものさえ持っています。

「海」は、同名のドビュッシーの作品と組み合わせたCDも輸入盤に見かけましたが、これはこれでチャイコフスキーに染まりきれない半端さを感じさせる作品です。まして、ドビュッシーとはとても比較できません。この「海」は、88年、ドイツの歌劇団が初めてロシアでワーグナーを演奏したことに大きな感化を受けた曲で、リムスキー=コルサコフが
「あまりにワーグナー臭すぎないかい?」
と感想を述べたとか。
そのせいか、「ワーグナーの思い出」に献呈されています。
波や凪の描写そのものは面白く、聴衆にもだいぶ受けたようです。しかしやはり、リムスキ=コルサコフが「シェエラザード」で自己革新を果たしたのに比べると、グラズノフとしては独自色をどう打ち出すのか迷ったまま仕上げしまったのではないか、という印象が否めません。チャイコフスキーとワーグナーという絵の具パレット二つを混同して用いてしまい、結果的にグレーに濁った海しか描けなかった、という感じです。
グラズノフの街ペテルブルクは、海に近いとはいうものの、東京でいえば西新宿から眺める程度にしか海そのものを体感できず、その点、実際に海上をよく知っていたリムスキー=コルサコフの足下にも及ばなかったのは、やむを得ないことでしょう。(フランスのロマン主義絵画では海はしばしば暗い色調で、しかも海岸に寄せる波を重点的に描いています。グラズノフの「海」の音も、それらの絵画と似た色彩を感じさせます。「シェエラザード」やドビュッシーの「海」にあるような「光」・「きらめき」がないのです。)

非標題的な2作品は、前向きな発展を感じさせる佳品です。協奏曲でもないのに管弦楽にチェロ独奏を伴わせるのは、グラズノフが終生愛した方法のひとつです(作品20)。また、「東洋的な狂詩曲」は、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の境地に比べれば小振りですが、グラズノフとしての「イーゴリ公」取り組みの成果が結晶した佳品です。したがって、音色のきらびやかさとリズムの多様性には「イーゴリ公」に類似した点が多くあります(リムスキー=コルサコフ似、という見解がCDの宣伝コメントにありましたが、そうではないと思います)。一見従来の「五人組」の衣装を纏いながらも、全体は、オペラには仕立てられないとはいえ、バレエなら通用する、という具合のストーリー性を持っていて、チャイコフスキーへの傾倒をそれとなく示している点は見逃せません。

これら一連の作品のあとに発表した交響曲第3番二長調作品33は、とうとうチャイコフスキーに献呈し、グラズノフは彼への敬意をあらわにしたのでした。内容が、交響曲よりはむしろバレエ曲の影響を受けている点に、このあと急速にバレエに関心を深めていく彼の方向性が予見されます。第1楽章のアタマに「ローエングリン」的な、また中間部後半に「トリスタン」風の表現がちらりと顔を見せるのも、時期的にみて興味を惹かれます。ただ、第2交響曲で始まった長大化傾向は3番でも強まっており、最初の2楽章はまだ耐えられるものの、第3楽章以降は「もうよして!」と言いたくなります。本人もそうした欠点は意識していたのでしょう、第4交響曲以降は集中度の高い仕上げに努力するようになります。

第3交響曲のチャイコフスキーへの献呈よって、リムスキー=コルサコフとの関係にどんな影響があったか、詳細は明らかではありません。いずれにせよ、リムニャーンとサーシャの良好な関係は、表面的にはリムニャーニンが死ぬまで保たれましたから、細かいことはこれ以上詮索しなくてもいいでしょう。リムスキー=コルサコフは、新境地を開いた『シェエラザード』を「交響的絵画」と呼び、それまでの「交響詩」とは違う、という意気込みを明らかにしました。グラズノフは、それまで自分の「幻想曲」をよりふさわしく呼ぶにはどうしたらいいのか、自力で見つけることが出来ずにいました。リムスキー=コルサコフの「交響的絵画」という呼称は、迷っていたグラズノフにもよっぽどしっくりきたと見え、作品30の『クレムリン』、作品34の『春』(未見)では、リムスキー=コルサコフに倣って、これらをやはり「交響的絵画」と肩書きづけしています。

1890年作曲の『クレムリン』はひとつ10分ほどの3曲からなり、それぞれ「国民祭」・「寺院にて」・「歓呼と貴族たちの入城」というタイトルを持ち、これまでの彼には見られなかったほど豊かなオーケストレーションを施し、「東洋的な狂詩曲」をまた一段超えた境地を伺わせてくれます。とくに2曲目の「寺院(修道院)にて」での、鳴り響く鐘の音の描写は、ムソルグスキー的な和声の厚さを、ラヴェルまでもう一歩、とまで思えるほど巧みな楽器配置で表現しており、『四季』で絶頂を迎えるグラズノフの管弦楽法の熟達度を先取りして聴かせてくれます。反面、帝政を謳歌するタイトルに象徴されるように、彼の「保守的」な発想が伺われるところに、1917年のロシア革命後グラズノフを待ち受けていた忍耐の日々が予言されてもいるようです。『クレムリン』は、しかし、チャイコフスキー的な哀愁」をひとつも感じさせない楽天的な音楽で、周囲からは案外のんきな性格に見えたたらしいグラズノフの人柄をも彷彿とさせてくれます。

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