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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝2)ベライエフとリスト

123456附(資料一覧)

初演は大成功だったとはいえ、グラズノフの交響曲第1番は未熟さが残っています。
どちらかというと南方スラヴ系の暖かいメロディに満ちていて、その点では充分に魅力的ではあるものの、たとえば第1楽章は、その最初の舞曲的主題が堅苦しいソナタ形式の中で執拗に繰り返されること、オーケストレーションが地味であることなどにより、グラズノフがイメージ作家としてはまだまだ貧弱であるという印象が、どうしてもぬぐえません(同型のリズムを持つドヴォルジャークの「スラブ舞曲」と聞き比べてみて下さい)。
師のリムスキー=コルサコフも、この頃までの作品では、後年の「シェエラザード」ほど華やかな音色で作品を飾ってはいませんから、やむをえないことだったかとも思います(75)。
しかし、初演がリムスキー=コルサコフ以外の、グラズノフについて全く予備知識のない人の指揮によってなされていたら、いや、後年「指揮ベタ」と陰口されたグラズノフ自身が指揮したりしていたなら、作品の単調さが強調されて、到底成功は望めなかったのではないでしょうか。
当時のロシア一般人には、大作曲家として既に名を成していたチャイコフスキーは西欧かぶれで宮廷寄りの保守派に見えていた節がありますし、「五人組」は解体寸前だったもののロシア・ナショナリズムの音楽的な体現として共感する民衆も多かったと推測されます。こうした聴衆の心理、少年作曲家によるナショナリズム色の濃い作品の衝撃的な登場、といった要因が、グラズノフのデビューを華々しいものにしたのでしょう。

・・・実際にはチャイコフスキーと「五人組」の関係は一般の理解よりはずっと良好で、チャイコフスキーが幻想序曲「ロメオとジュリエット」を作曲したとき、バラキレフが大いに肩入れしたこともあったくらいです。
「このような標題音楽を生み出せるあなたは、すばらしい!」
それまでいわゆる絶対音楽的作品ばかり書いていたチャイコフスキーに対し、「五人組」は「標題音楽こそ望ましい」という方針を貫く傾向が強く、双方の距離もこの方針の違いによって隔てられていたのですから、「ロミオとジュリエット」は格好の接近材料になった、という次第です。
以後、チャイコフスキーは「テンペスト」や「フランチェスカ・ダ・リミニ」などの標題的傑作を生み出しましたが、後者は「五人組」の気に入らず、距離はそれ以上なかなか縮まりませんでした。(13)
それでも、リムスキー=コルサコフが対位法の学習につきチャイコフスキーの助言を請うたことがあるのは、前述した通りです。チャイコフスキーと「五人組」には相反する流儀があったことは間違いありませんが、いずれも心底ではロシアの大地、ロシアの精神を共有していたことを、ここで一応記憶に留めておくべきでしょう。まもなく、グラズノフはチャイコフスキーからも大きな影響を受けることになるからです。

グラズノフの交響曲第1番が同じ指揮者の手によって2回目に演奏されたとき、客席に一人の商人の姿がありました。終演後、楽屋を訪れたこの業者は、リムスキー=コルサコフに自己紹介しました。「ミトロヤン・ベライエフ(ベリャーエフ)と申します。ロシアの音楽作品を西欧に広めるため、あなたやグラズノフ君の楽譜をどんどん出版していきたいと考えておるんです。いかがなもんでしょうか」ベライエフとリムスキー=コルサコフ、グラズノフの深い関係が、このとき始まったのでした。

市場を下調べする意図があったのでしょう、ベライエフは1884年春、ヨーロッパに旅立ちました。旅行に際し、ベライエフはグラズノフをいっしょに連れて行きました。グラズノフを同行させたベライエフの最大の目的は、この天才少年をワイマールのフランツ・リストに会わせ、少年の交響曲に太鼓判を押してもらうことでした。

ロシアから西欧への大旅行はまだ困難の多い時代だったでしょうが、当時ロシアは1857年クリミア戦争に敗北してから、経済や産業の振興に国を挙げて腐心しており、鉄道網も70年代にはかなり整備されたようですから、少年には幾分でも楽しい旅だったのではなかろうか、と想像してみたいところです。

リストは若手音楽家にやさしく暖かい助言を与えてくれ、支援の手まで差し伸べてくれる貴重な人格でした。そのため彼を慕って訪ねてくる信奉者が絶えず、「ワイマール詣で」という言葉が出来たほどなのは、周知の通りです。
リストに好感を持たない人々からは、彼の若手へのお節介は「名誉欲」からくるものだ、と非難されましたし、彼の作風も
「表面的なヴィルトゥオジテばかりを要求する、浅薄な内容のものばかりだ」
と酷評されました。
若い頃、貧しいピアニスト時代を送り、貴族階級に差別的扱いを受けることを甘んじて受けざるを得なかったリストには、確かに自らが「高貴」でありたい、という強い欲求があったことは否めません。
だからといって彼は娘婿ワーグナーのような政治的野心を持ち合わせた人ではありませんでした。よく言われる「ワーグナー一派の首領的存在」という評価も、厳密に言えば当たっていません。
弟子ビューローと結婚していた娘のコジマがワーグナーの元に走ったとき、リストは怒って以後5年間ワーグナーと絶縁しましたし、それ以前にも何度か二人の関係は悪化したりしています。そのくせ、音楽家ワーグナーの大きな才能を、彼は人間関係の善悪を超えて高く評価し続け、絶縁状態の間も密かにワーグナーの楽劇上演を聴きに出かけたりしていました。
一方、リストは彼に好感を持つことのなかったブラームスへも、讃美を惜しむことはありませんでした。
おのれの魂の「高貴さ」を貫くために、個性豊かな音楽を自己の価値観から否定してはならない、素晴らしいものは素晴らしいと公平に評価すべきである、という信念を、リストは生涯貫いたのであり、若手に対する懐の広さ・深さも、彼にとっては信念の表明の一環に過ぎなかったと言えます。
この年73歳、衰弱の目立ち始めたリストは、周囲への寛容な態度とは裏腹に、これまでの自らの作品が「正当に」評価されることはとうに諦め、孤独な心境に浸っていました。熱心なカトリック信仰から誠意を込めて5年前に作曲した「十字架の道行き」(独唱および合唱)は出版を拒否され、以来、心に深い傷さえ負っていました。(「十字架の道行き」は、当時としてはワーグナーよりも前衛的な無調部分をもち、今日では斬新な作品として再評価を受けつつあります。また、ワーグナーとコジマ夫妻には冷たい評価を受けたものの、3部構成からなる大作オラトリオ「キリスト」は、私は名作だと思います。)
かつてのショパンのような、相互に理解しあい、彼と我との違いを冷静に受け止めあい、演奏会で心から応援しあうことの出来るようなライヴァルも友も、リストは既に、ほとんど失っていたのです。
そんな失意を表面に現わすことなく、リストははるばるやって来たグラズノフの訪問を優しく受け入れ、ベライエフの期待通りに少年の交響曲を高く評価したばかりか、5月にワイマールで行われた「全ドイツ音楽協会演奏会」で紹介の労さえとってくれ、グラズノフの名を一挙に広めるのに大きな役割を果たしたのです。(12,58)
大先輩たち「五人組」が以前から尊敬していたリストに認められたことで、以後グラズノフの作品・作風にはしばしば明確に、このワイマールの大音楽家の影響が色濃く見られるようになっていきます。

ただし、バラキレフやボロディン、リムスキー=コルサコフもそうであったように、受け継がれたのは器楽作品の「標題的な」・あるいは「技術的な」側面に限られています。リストが私的に最も尊重した宗教曲の精神は、リストの最も熱烈な讃美者であったはずの「ロシア五人組」にも秘されたまま、リストの死と共にこの世からは浄化されてしまったのです。

しかも、「五人組」が標榜した「標題音楽」は、リストが理想とした「標題音楽」とは発想にズレがありました。リストのいう「標題音楽」は、「標題によって聴衆に音楽を易しく聴ける指針を与えはするが、最終的には音楽そのものとして、標題とは独立した存在意義を保てなければならない」という高い理想を標榜したものでした。(11)
が、一般人は「標題音楽=ストーリー性を持ったキャラクタリスティックな、すなわち具象的な音楽」という受け止め方をしており(そうした理解は、かつてリストをも感動させたベルリオーズの幻想交響曲が主にもたらしたものです)、「五人組」の「標題音楽」に対する姿勢も一般人同様、リストの精神とはだいぶ開きがありました。そのことに、彼らは生涯は気づくことがありませんでした。付言すれば、チャイコフスキーはリストとは必ずしもしっくり行かなかったものの、「標題音楽」に対する考え方はリストと共通しています。リストとの大きな違いは、チャイコフスキーの理想はあくまで「絶対音楽」に初めから重きをおいていた、という点です(13)。
彼の音楽に対するこの姿勢は、その死後、急速に「五人組」の末裔たちにも浸透していきます。皮肉にも、「五人組」最大の後継者であったグラズノフが、チャイコフスキー的音楽観を代表する次世代へと、最も大きく変貌していくのです(第3交響曲以降)。これにはグラズノフがまだ若々しい脳を持っている間に、リストとチャイコフスキーのいずれにも直接会い、二人の大作曲家から吸収したものが誰よりも多くあった幸運が決め手となったのでしょう。(チャイコフスキーとの出会いは次節で述べます。)

リストの激励も大きな成果でしたけれども、ベライエフとの旅行でフランスからスペインまで足を伸ばし、見聞を広めたことも、年少の作曲家には大きな財産となったことでしょう。作品としては3年後、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20の第2曲、「スペインのセレナード」に、見聞の経験が結実しています。(64)
また、1902年の4曲からなる管弦楽組曲「中世より」作品79の終曲「十字軍騎士」にも、37歳になってなお、少年時の彼の心に深く刻まれたスペインの印象がはっきり顔を出しています。(52)
ベライエフの方も、自分の行なおうとしている商売が各地で成功するだろうという感触を得たのか、帰国するとさっそく、リムスキー=コルサコフ他の著名なロシアの作曲家の作品を出版し始めました。出版された楽譜の中には、グラズノフの「交響曲第1番」も含まれていたのは当然のことです。(101)

外国から戻るとかえって愛国心を煽られたのか、翌85年グラズノフは交響詩『ステンカ・ラージン』作品13を作り上げています。日本でも有名なロシア民謡「ヴォルガの舟歌」をベースに、17世紀に起こったコサック反乱の首謀者、ラージンの悲劇的な勇姿を描いた作品です。反帝政的な内容にも関わらず、ラージンを描写することは、何故かロシアでは許容されていました。とはいえ、グラズノフがこうしたテーマを取り上げている点に、バラキレフ流の「汎スラヴ主義」がこの若者の骨の髄にまでしみ込んでいることが伺われます。そういう伝説があるのか、史実があったのかどうか知りませんが、交響詩では、ラージンはペルシャの美しい姫を人質としており、ロシア皇帝軍に囲まれて敗色が濃くなったとき、この姫をヴォルガの流れに突き落とした、というストーリーが描かれています。ストーリー性が創作を楽にしたのか、初期では最も伸び伸びした佳作の一つに仕上がっています。(51)

続く86年にはリスト風の色が強い交響曲第2番作品16を仕上げましたが、献呈するはずだった相手、つい一昨年出会って強い印象を受けたばかりの、かのリスト本人がはからずも7月31日に逝去したため、「リストの思い出に」捧げられることとなりました。作品は冗長な印象を免れませんが(作って見ないと分からないことですけれど、そう批評しつつ私などとてもここまで作曲する力はありません。ですから、こういう評価をすることには後ろめたさを感じます)、第1番に比べるとテーマの変形も自在になり、オーケストレーションは遥かに色彩感を増しています。作曲者としては、自分の成長を恩人リストに見せ、恩人が華やかに微笑んでくれるのを祈りつつ、創作に力を入れていたに違いありません。グラズノフの失望は、いかばかりだったでしょうか。(59)

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