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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝1)出生・成長・デビュー

123456附(資料一覧)

「グラズノフ社」といえば、晩期帝政ロシアでは結構有名で大きな出版社兼書店だったはずです。19世紀の誰かの人物伝を読んだとき、「グラズノフ」という出版業者名に何度か出会った記憶があり、ロシアに縁が深かった人物、特に音楽家ならベートーヴェンかな、と当たりをつけて資料を探しなおしましたが、残念ながら今回は見出すことが出来ませんでした。音楽関係ではなかったかも知れません。(どこかで見つけた方、ご存知の方がいらしたら、教えて下さい。)とにかく、ペテルブルクにあったこの羽振りのいい出版社が作曲家グラズノフの生家だということは、彼の順調な経歴や生き方、作風を大きく決定付けていると思われます。

アレクサンドル・グラズノフ、愛称サーシャは、1865年7月29日(新暦では8月10日)、「グラズノフ出版社」の長子として生まれました。父親について詳しいことは調べられませんでしたが、母親イェレーナ・パヴローヴナはペテルブルク音楽院の卒業生で、ピアノを巧みに弾きました。また、グラズノフ家の富裕さのおかげでしょう、家庭に日夜さまざまな素人音楽家を集めては、あきれるほど多くのアンサンブルを繰り返していました。「『サーシャは「文化の掃き溜め」の中で成長したようなものだ』、とストラヴィンスキーなら皮肉っぽく言ったろう」と評する解説者もいるほどです。(51,52)

そんな幼少期、いつのころからか、サーシャは夜中に一人こっそり起き上がって、その日聴いた音楽を思い出しては楽譜に書き留める習慣を身に付けました。「どんな細かいところまでも、思い出して書き留めた」と、彼は後年回想しています。

サーシャの才能に気づいた母親は、自ら息子にピアノを教えていました。母親が己れのレベルを超えてしまった彼に正規のピアノ教師をつけたのは、サーシャ9歳のときのことです。教師の名はイェレンコフスキー。伝記の明らかでない人物ですが、以後ペテルスブルクを何らかの事情で去るまでの5年間、イェレンコフスキーは優秀な弟子に対し適切な方法で指導に臨みました。指導法は、どうも、ピアニストとしての育成を目指したものではなかったようです。音階や三重トリラーといった技術的課題を与えるのではなく、モーツァルトやベートーヴェンの古典作品を次から次に教え込む、というやり方でした。(51)
イェレンコフスキーの指導を受けた最後の年から、サーシャはピアノ曲の作曲を始めています。サーシャの兄弟姉妹は何人いたか分かりません。何人いたか分からないその弟・妹たちは、サーシャが音楽教育を受けているあいだは、誰もその傍に行くのを禁じられたということです。すなわち、サーシャは、温室状態の中で英才教育を受けたのです。

1879年、イエレンコフスキーがペテルブルクを離れると、母イェレーナは息子をバラキレフのもとへ連れて行きました。「力強い仲間」、すなわち「ロシア五人組」の主宰者である彼は、帝立ペテルブルク音楽院の権威に対抗して62年に「無料音楽院」を設立するなど、アカデミズムに対し尋常ならざる対抗意識を持っていた人物です。帝立音楽院出身の母が、なぜわざわざ、それに対立していたバラキレフに息子を引き合わせたのか興味深いところですが、本当の事情はわかりません。彼女の日常のアンサンブル仲間の影響でもあったのでしょうか。サーシャに会ったバラキレフは、少年の並々ならぬ才能に目を見張りました。すぐに、この少年を自分たち「五人組」の後継作曲家として育成することに意を決したようです。

バラキレフはこのとき42歳。才能を認めた相手には即座に「交響曲を作りなさい」と勧めてしまうほど意気軒昂な人でしたが、一方で自分にも仲間にも、一度書いたものでも何度も改良していかなければならない、という厳しい創作態度を望むあまり、本人自身が最初の交響曲を完成したのは遥か後の1897年となりましたし、仲間も、交響曲やオペラのを仕上げるのには大変苦慮しました。「五人組」の中でそれまでに交響曲を2曲以上仕上げ得たのは、最若年のリムスキー=コルサコフ(79年には35歳)と最年長のボロディン(同46歳)だけです。ムソルグスキーとキュイは、とうとう一作の交響曲も残すことは出来ませんでした。バラキレフ自身も、ほんの数えるほどの交響詩以外は、ピアノ曲、歌曲を中心とした作品を発表するに留まっていました。(75)
サーシャの創作能力に注目したバラキレフは、まだ幼い相手に対する自身の指導方針は厳しすぎるとでも思ったのでしょうか、あるいは既に管弦楽法の素晴らしさでは定評を得ていたリムスキー=コルサコフのほうが天才少年の指導者として向いていると判断したからでしょうか、「五人組」最若年の、仲間内でリムニャーニンと呼んでいたリムスキー=コルサコフの手に、サーシャを委ねることを決めました。

先立つ1871年、リムニャーニンは、ペテルブルク音楽院に新風を巻き込もうと図った新院長アザンチェフスキーから、教授として招聘されました。作曲家として既に定評を得ていたとはいえ、それまで我流でしか創作していなかった、かつ当時はまだ現役の海軍大尉として勤務していたリムニャーニンは、迷いました。音楽院の教授になることは、アカデミズムと一線を画してきた「五人組」の仲間と精神を裏切るのではなかろうか、という苦悩も大きかったのではないかと思われます。迷った末バラキレフに相談したところ、「アカデミーの牙城に乗り込んで、真のロシア国民音楽を想像するんだ!」とかえって励まされ、結局彼は招聘に応じることとなりました。以後、正規の音楽理論を身につけていた訳ではなかったリムニャーニンは、苦労して独学を重ね、75年にはチャイコフスキーに書簡で対位法勉強の成果を見てもらうなどしつつ、学生に知識不足を見て取られたことが一度もない名教授ぶりを示しました。(13,75)

努力家のリムニャーニンは、サーシャの師としては非常に適切な人材だったといえます。サーシャ少年は彼から、和声法、対位法、管弦楽法の指導を受けました。指導を始めたリムニャーニンは、天才としか思えない少年の吸収力に、ただ驚くばかりでした。「温室育ち」の幼く柔らかい脳は、しばしば高い吸収力を示すものですし、実例も豊富にあります(音楽ではメンデルスゾーン、思想家ではパスカルなど)。けれども、リムニャーニンがこういうケースに遭遇したのは全く初めてでしたし、それだけに驚嘆の思いも強かったのでしょう。彼はこう叫んでいます。
「サーシャは一日毎になどというものではない、刻一刻、成長するんだ!」

リムニャーニンは1年半たつとサーシャに宣言しました。「もう教えることは無い。君と僕とはもう師弟じゃない、友達同志だよ。」

リムニャーニンの好意的な宣言にも関わらず、サーシャは81年までは習作を続け、アドヴァイスをもらう、という姿勢を保ちました。1878年から81年にかけて習作期のサーシャが創作したと分かっている作品数は26、うち大半がピアノ曲(ソナタは3曲)ですが、歌曲数曲、弦楽四重奏のための「5つの小品」などもあります。(101)

81年3月、「五人組」の中でひときわ異彩を放っていたムソルグスキーが死去しました。42歳の誕生日を迎えて数日たったばかり。アルコール中毒が募り、廃人同様になっての惨めな死でした。欠員が生じた「五人組」構成員が持った危機感からでしょうか、サーシャは周りの激励を受け、前年の夏から構想を練っていた最初の交響曲に本腰を入れました。構想は80年夏、リトアニアにある避暑地、スラヴの人々の間では名高いドルゼニキというところで練り始められました。音楽の精神はバラキレフの汎スラヴ主義に強く影響を受け、最終的には主にポーランド民謡を素材にした、親しみやすく平易なものに仕上がりました。(58)
(何と言うポーランド民謡なんでしょう? これは分かりませんでした。)
先取りしておくならば、汎スラヴ、であるからには、スラヴ系民族の素材で、かつロシアそのものではない材料こそが説得力を持つのだ、という、周囲の大人のおせっかいもあっただろうことは、先々のロシア革命当時のサーシャの立居振舞を検討する時、重要なポイントになるでしょう。

サーシャの交響曲第1番ホ長調は、1882年3月17日(新暦29日)、ペテルブルクに於いてバラキレフが主催した音楽会で、リムスキー=コルサコフの指揮により初演され、万雷の拍手をもって聴衆に迎えられました。
鳴り止まない拍手に応えて壇上に上がり、緊張した面持ちで、ぎこちなくお辞儀ををした創作の主を見て、聴衆は仰天しました。これほど整然と出来上がった交響曲の創造者が、なんと、学生服姿だったのです。まだ高校生に成りたての、頬に幼い赤みを残した十六歳の少年なのです。
上演の前には、聴衆には、そのことは全く知らされていなかったのでした。
拍手はなおいっそう大きくなりました。
「ペテルブルク市民は、この光景を永久に忘れないはずだ」
誰かがそう呟きました。
事実、後年やはり天才ショスタコーヴィチが十代のうちに第1交響曲で華々しいデビューを飾ったとき、多くのペテルブルク市民が、四十数年前にサーシャ少年がステージ上でぎこちなく挨拶した姿を、懐かしく思い出したのでした。(17)

少年サーシャは、作曲家アレクサンドル・コンスタンチノフヴィチ・グラズノフとして、このように希望に満ちたスタートを切ったのです。

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