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2007年3月31日 (土)

ルネ・フレミング 魂の声

著者自身は有名なソプラノ歌手ですが、本書は歌う人に限らず、クラシックの演奏者ならプロもアマチュアも大いに参考にすることが出来ますし、クラシックのビジネス上の課題に興味津々なかたにも素晴らしい解答を与えてくれます。
引用したい箇所は多々あり、とりわけ彼女が一流のオペラ歌手として是非とも必要となる、リラックスした高音の発声をどんなステップを経て獲得したか、については読むべき箇所が沢山あります。
が、今は以下の一言にのみ引いておくにとどめましょう。

解釈は、楽譜に書かれた音と音のあいだに読みとれるものがあるからこそ存在する。

構成は次の通りです。

1)家族
2)教育
3)修行時代
4)よき助言者たち
5)成功
6)頑張る
7)ビジネス
8)歌い続ける
9)イメージ
10)演奏
11)役作り
12)舞台裏から
13)コーダ

春秋社2006年

魂の声 プリマドンナができるまで Book 魂の声 プリマドンナができるまで

著者:ルネ フレミング
販売元:春秋社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2007年3月25日 (日)

モーツァルト:アントレッター・セレナード

1773年でつっかえていて済みません。
この年は、作品一つ一つを見て行くと、モーツァルトにとって本当に大きな人生の転機だった、と強く感じます。だからといって以前より取り上げかたがていねいになっている訳でもないところが申し訳ないのですが、今回のセレナードと、あとは2つの協奏曲、その他の作品、と、残り都合3回はこの年の作品についてメモさせて下さい。



通称「アントレッター・セレナーデ」と呼ばれるK.185は、じつに変わった作品です。
自筆稿はK.189の行進曲とともに1冊に綴じられていて、現在は個人蔵となっているそうです。したがって、K.189の行進曲で楽士が入場し、演奏したのでしょう。
NMA掲載の写真を見ると、自筆稿上でもK.189は MARCHE、K.185はSERENATAと記されています。ただし、誰の筆跡かは私ごときには分かりませんが、少なくともこれらはK.189で Mozartという作者名を署名している人物とは違う人の手になるように見えます。K.189の作者名、テンポを記入したのは父のレオポルトだそうですから、これらはレオポルトの書いたものなのですね。
が、モーツァルト親子自身は、この作品について書簡中では「フィナルムジーク」と呼んでいます。
ウィーン旅行中の7月21日、および8月12日のレオポルトから妻に当てた書簡中に現れる「フィナルムジーク」が、この作品の事だと言われています。
それぞれ、書簡の原文を引きます。

(7月21日書簡48-51行、ウムラオト、エスツェットは書き換えました。)
--- und heute nachmittag waren wir auch bey H: v Mayr mit freude und Hoeflichzeit aufgenommen.Ich muss schlyssen, dann es ist zeit noch ein Paar Zeihlen an den jungen Andretter schreiben und den Anfang der Final Musik zu schicken.

(8月12日書簡44-45行)
--- wir sind froh, dass die finalmusik gut von statten gegangen, der Wolfg: wird sich bei H:Meissner schon bedancken, unterdessen empf: wir uns.

さて、この作品、どこが変わっているか、というと、その編成と構成です。

序奏の行進曲(K.189)はフルート2、ホルン2、トランペット2に弦楽ですが、ヴィオラが含まれていません。
セレナード本体の方(2つのメヌエットを持ちます)は、基本はフルートがオーボエに置き換わっています。かつ、ヴィオラが含まれています。7つある楽章で、ただし、オーボエは第4楽章の第1メヌエット、第5楽章の二つの楽章で、フルートに持ち替えられます。これで、フルートの方の謎は解けるかも知れません。すなわち、フルート奏者とオーボエ奏者は兼任だった、というわけです。
次に、行進曲には無いのにセレナード本体ではしばしば二部に分かれてまで活躍するヴィオラですが、これはNMAでのレポートによりますと、行進曲の方ではヴィオラ弾きたちは低音(チェロ、バス)の部をオクターヴ上で弾いていたのではないか、ということになっています。(ついでながら、チェロとバスの部はファゴットも重複して演奏していたかもしれない、とのことです。)

もう一つ、変わっているのは、セレナード本体の第2、第3楽章は独奏ヴァイオリンを持つ「協奏交響曲」的性格を持っている点です。しかも、セレナード全体がニ長調を基本にしている(第5楽章はイ長調)にも関わらず、この二つの楽章だけがヘ長調で、異質です。
このため、ケッヘル第1版ではこの二つの楽章をセレナードに合体した「協奏曲」断章として扱い、ヴィゼワ・サンフォアは独立した「協奏曲断章」として扱った、という経緯もあったそうです。
セレナード本体の第6楽章である第二メヌエットのトリオにも独奏ヴァイオリンが現れ、かつ、このトリオはニ短調ですので、ますます紛らわしい事になります。
ですが、同じ年にすでに作曲を終えていたヴァイオリン協奏曲第1番(次回見て行く予定)の独奏部に比べ、K.185の独奏ヴァイオリンは技巧的には遥かに単純で、やはり、独立した協奏曲の一部、とするヴィゼワ・サンフォアらの見方には無理があるでしょう。

フルート、ヴィオラ問題と併せ、独奏ヴァイオリン問題も、おそらくは特定の聴衆のみが想定されていたため、モーツァルトがこの「フィナルムジーク」に、協奏交響曲的趣向を添えて、それら特定の聴衆の趣味の高さになるべく強い印象を与えてやろうとの野心を持った現れなのではなかろうか、と、いまは推測しておきたいと思います。

以下、作品の構成:

MARCHE K.189 Andante  D,2/4, 67bars: Fl2,Cor2,Trmp2,弦(ヴィオラ無し)

SERENARTA K.185  Ob2(第4,5楽章はFl2),Cor2,Trmp2,弦(ヴィオラあり)

1) Allegro assai D 4/4, 192bars :(ヴィオラ2部)ソナタ形式
2) Andante F 3/4, 79bars: Trmpなし。独奏ヴァイオリンあり。
3) Allegro F 2/4, 206bars: Trmpなし。独奏ヴァイオリンあり。
4) Menuetto D 28bars & Trio G 24bars: Fl2. TrioはFl1本でヴィオラ無し。
5) Andante grazioso A 2/4 115bars: Trmp無し。
6) Meunetto D 37bars & Trio 1 d (Violin solo) 24bars & Trio 2 D 24bars(ヴィオラ2部)
7) Adagio 4/4 11bar(前奏) + Allegro assai 6/8 216bars

あらためて観察しますと、第2メヌエット(第6楽章)の構造もユニークです。ただ、独奏ヴァイオリンが第1トリオでしか活躍しないところを見ても、これは第2、3楽章と同じような独奏協奏曲的楽章と考える事は不可能である事が分かります。第2トリオでヴィオラが2部に分かれているところも、第1楽章との関連性及び中音域に対するモーツァルトの「こだわり」が伺える気がします。

CDは単独盤ではアーノンクール/コンツェントゥス・ムジクスのものがありましたが、現在は販売されていないようです。セレナードの全集にはだいたい収録されていますが(第3番)、K.189と一緒に演奏されているかどうかはフィリップスの輸入盤の全集以外では確認出来ませんでした。すみませんが、したがって、特にリンクを貼りません。
スコアはNMAペーパーバック版の第13分冊に、K.189とK.185がきちんと連続して収録されています。ドーヴァ−版のスコアにはK.185のみが収録されています(Complete Selenades series 1)。

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エルガー「海の絵」訳詩:当団I.Aさんによる

今度のTMFの定期演奏会でショスタコーヴィチの第5、グリークのピアノ協奏曲とともに取り上げるエルガーの5つの歌「海の絵」作品37ですが、当団団員で大学で英語の教鞭をとっていらっしゃるI.A氏の名訳の掲載をご了解頂きましたので、掲載致します。
エルガーの当作品は1899年、「エニグマ」完成の年の作品だそうですが、私はまだ詳細を調べ切っておりません。詩は美しいものばかりですが、本訳は訳語にもきれいな語彙が選択されていて、大変に素晴らしいと感じております。
なお、転載なさる場合には訳者の許諾を得る必要がございますので、どうぞご一報下さいますようお願い申し上げます。


「海の子守唄」    Hon.Roden B.W.Noel

海鳥たちは眠りにつき、
世界は悲しみを忘れ、
海は、静かに、子守唄をつぶやき歌う、
このエルフの土地の
影多き砂浜で。
「わたくし、心優しき母は、
お前をなだめる、おお、わが子よ、
声を荒げるのはおよしなさい!
エルフの光に包まれた島々は、
夢み、岩や洞窟は、
波のささやき声に、あやしつけられ、
光り輝く石像を覆い隠す、
泡立つ海は、微かに白く光りをはなつ、
このエルフの土地の
貝殻砂の砂浜で。
ヴァイオリンの音色のような海の音で、
うまくあやして寝かしつける、
わたくしは、静かに、子守唄をつぶやき歌う、
悲しみ、嘆き、罪は忘れなさいと、
大海原の、闇に包まれた力、
おやすみなさい、おやすみなさいと
ささやきます!」


「港にて(カプリ島)」    C.Alice Elgar(エルガーの夫人)

しっかりとあなたの手を握らせてください、
嵐が海と陸とを吹き抜ける
愛だけが持ちこたえるでしょう。
しっかりと抱きしめてください、波が速く打ちつけるから、
波頭が、吹き荒ぶ疾風を白く染める
愛だけが永らえるでしょう。
わたしの唇にキスをして、やさしく言ってください、
「喜びは、波にさらわれて、今日、消えてしまうかも知れない、
でも、愛だけは残るだろう」と。


「海で迎える安息日の朝」    Elizabeth Barret Browningの詩から

厳かな面持ちで船は進んだ、
 海で暗闇のなかへと、
  厳かに、船は進んだ、
わたしは、物憂げに、その場で頭(こうべ)を垂れた、
 別れの悲しみと眠気のせいで、
  瞼はとても重かった。

新しい光景、見慣れぬ、驚くべき光景、
 わたしを取り囲む海は、荒れ狂い、
  頭の上で、空は妙に落ち着き払っていた、
月もなく、太陽もない光の中で、穏やかに、
 あの大いなる日の栄光を留めようとする
  ただその意図だけでも素晴らしい。

わたしを愛してください、やさしい友人たちよ、この安息の日に。
 わたしのまわりで海は歌う、あなたたちが賛美歌にあわせて
  いつもの場所で、波のように身体を揺らしているその間に、
跪いてください、かつてわたしが祈りのために跪いたその場所に、
 わたしを祝福してください、魂の奥深いところで、
  あなたたちの声は、決して、届きはしないのだから。

わたしのこの安息日には、
 頸垂帯(けいすいたい)を纏った聖職者の姿はなく、
  賛美歌を歌う会衆もいない、
でも、聖霊が慰めを与えてくださるでしょう。
 無聊の海を覆っておられた神の聖霊、
  自らの創造物の上におられた創造主が。

神の聖霊がより高きところを見せてくださるでしょう、
 聖なる者たちが、ハープと歌で、終わることなき
  安息日を守っておられるあの場所を
炎と渾然一体となったあの海で
 燃えさかる神の御姿を見つめ過ぎた聖なる人たちが
  しばしば、目をお伏せになるという、その海を。


「珊瑚の広がるところ」    Richard Garnett

海は、静かに、やさしい音楽を奏でる
風がふんわりとした水しぶきを舞い上げるとき
その調(しらべ)が僕を誘う、出かけてみてはと、僕を誘う、
珊瑚の広がるあの場所を見に。

山にあるときも草原にいるときも、芝にいるときも小川の畔にあるときも
夜が更けて、月が皓々とあたりを照らすころ
その調は、僕の居場所を突き止めて、
教えてくれる、珊瑚の広がるあの場所を。

そう、僕は瞼をきつく閉じ、これでよし、
でも、空想はすばやく飛んで行く
ゆらゆら揺れる貝殻と波の世界へと
珊瑚の広がるあらゆる場所に。

君の唇は日没の太陽の輝きのよう
君の微笑みは朝の空のよう
でも、僕のことは放っておいて、行かせておくれ
珊瑚の広がるあの場所を見に。


「泳ぐ人」 Lindsay Gordonの詩から

短い、鋭い、激しい閃光で、見えるのは
南の方に、視力のおよぶ限り遠くまで、見えるのは
ただ青黒い大波のうねり、
盛り上がる海と砕ける波ばかり。
北の方に、見えるのは、岩と断崖
遠ざかる岩、目の前に飛び出してくる礁(しょう)
海の方へ流され、また岸に打ち上がる漂流物
燃え上がるような泡に覆われた浅瀬のうえに。

恐ろしい灰色の海岸、ぞっとするような海辺
ほとんど人の足が踏み入れたことのない浜辺
そこに、ぼろぼろになった船体と折れたマストが横たわる、
過去十年間の長きにわたり、そこに埋もれていたのだった。
愛しき人よ! ここをともに彷徨ったころ
シダとヒースの丘、谷からおりてきて
うきうきするような天気のなか、手に手を取り合って、
そのころ神は、少しは、わたしたちを愛していた。

空はもっと晴れ晴れとして、浜はもっとしっかりとしていた—
明るく輝く砂浜の上で青い海がうねっていた
ぶくぶく、ぴちゃぴちゃ、ざーざー、さらさら
銀の輝き、黄金の魅惑

* * * * * * * * * * *

そして、嵐の帯を腰に巻き、雷鳴の翼をつけ、
稲妻の鎧を纏い、凍雨(とうう)の靴を履いて、
速い波を踏み分けていく強風が
泡立つ足で、跳ね上がる大波を切り裂く。
血塗られた剣(つるぎ)の刃(やいば)のような一筋の光
その光が、緑色の湾を真紅に染めながら、水平線上を泳いで行く。
ぼんやりとした太陽が、凄まじい死の一撃を振り下ろし、
その一撃で、自らの嵐の経帷子を切り裂いた。

ああ、勇敢な白馬たちよ! お前たちは集い、疾駆する、
嵐の精が突風の手綱を弛めた。
お前たちの中空の背中、高くアーチを描く、たてがみのなかでは、
堅牢なつくりの船でも、まるで華奢な小船のようだったろう。
お前たちの(永遠の)眠りにいたる、密やかな、うねる大波のなか、
わたしは、誰よりも見事に白馬に跨り、
危険な海峡を通って、夢に見た内海へと向かう、
決して弱まることのない光の世界、決して衰えることのない愛の世界へと。

 



訳者による注意書き:
Kalmus版のスコアに載っている「泳ぐ人」の詩についてですが、原詩と違っているところがあります。Boosey & Hawkes版のピアノ伴奏と声楽用の楽譜では、Kalmus版よりも原詩に近 くなっていますが、それでも原詩と多少違っているところがあります。訳は、Boosey & Hawkes版で注によって原詩と違うことが明示されている箇所を除いて、原詩のように訳しました。
僕の持っているCDの歌手は、Kalmus版のスコアにあるように歌っているようです。ただKalmus版の詩のままだと、意味不明の箇所があります。

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2007年3月20日 (火)

読解ショスタコーヴィチ第5−とりあえずの結び

モーツァルト、体調都合でちょっとサボってます。すみません。


*とりあえずショスタコの5番が好きだ、という方
 (ツウ、でなくてもいいです。ちなみに、私は残念ながらショスタコ通ではありません。)
*今度私たちTMFで一緒に演奏してくださる方

とり急ぎ、自分たちの演奏に向けて、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」のスコアの読解を、まずは
全体のつくり(ムラヴィンスキー1982年のライヴ感想と併せて)
第1楽章
第2楽章
第3楽章
第4楽章
と、「読み」の試みをしてきました。

(各節にはこの「結び」へのリンクを貼りますので、いつでもここへ戻ってきて、また各節へといっていただければ幸いです。)

専門家でもない一私人の「読み」がどこまで的をはずしていないか、は確信を持ってはおりませんが、演奏ならびに鑑賞のご参考に役立つようでしたら非常にありがたく存じます。

「全体像」では、この作品全体が、第1楽章冒頭に既に現れる主要動機の3つの要素で貫かれている点に着目しました。その3要素それぞれに(記事そのままではありませんが)、



と、仮に3つの名前を付けました。
その上で、
「ある日、自分の家の冷蔵庫がカラになっていた!財布もカラだ!」
という比喩を用いて、ちょっとふざけたストーリー付けをしてみました。
シリアスに、ではなくても充分この作品に一貫したストーリーが摘要できることで、ショスタコーヴィチの第5が古典たりえるのだということを明らかにしたいと思いました。・・・その際、ただし、第5にはこの作品が出来上がった頃の暗い時代背景があることをコメントとして付けました。

第1楽章第2楽章第3楽章第4楽章は1節ずつとし、それぞれ、全音版スコアの練習番号に即して、どの個所がどんな音であるか、も聞いていただけるようにし、私の「読み」との整合性を確認しながら、各楽章ごとの「つくり〜構成」を理解していただけるように努めました。

遺憾ながら、言葉を用いての説明は「読み」だけを心がけていても、「解釈」が入ってきてしまう隙があります。そのため、私情も多分に絡んでしまい、自分で考えていたほど<作品を客観的に把握していただく>ものとなったかどうかには、甚だ自信がありません。
いちおう、なんとかそれでも、各楽章の「つくり」もご理解頂け、それらがどう繋がりあっているかも、<全体像>に戻ってお読み下されば分かっていただけるところまでは、何とかご用意できた、ということにしておきましょう。

ここまで道具がそろって初めて、鑑賞する方にとっては
「解釈」
が始まるわけで、ここはお読み頂けたそれぞれの方にお委ねしようと存じます。
ですので、
私が綴ってきたことは「解釈」ではないのだ、
ということを、どうかご了解頂けますよう、まずは伏してお願い申し上げます。

また、演奏する、ということにつきましては、「つくり」を理解した上で、今度は「演じる」にはどうしたらいいか、という読み替えをしていかなければなりません。
それについては3月18日の弦分奏の記録に2例ほど掲載しましたので、「つくり」に思い入れをし過ぎず、よりよい演奏が出来るためには
「どう読み直すか」
につき、各々でお考えを詰めて行って頂きたく、併せてお願い申し上げる次第です。

18日の練習記録に綴ったことと併せて、「読み直し」のコツをいくつか上げておきます。

・新フレーズを開始する前には、充分なブレスが必要(楽器を問わない)

・上記のブレスは、フレーズを共有するメンバーと同じ深さと長さとタイミングとなる
 (そのために「つくり」を他パート分まで細かく見ておく必要がある)

・良いメロディ(対旋律や切分音であっても)にはメロディそのものに力がある
 したがって、良いメロディに不要な思い入れをすると、却って醜く崩れる

・合奏音楽には、全員あるいはセクション全員の音が1つに集約されるクライマックスがある
 クライマックスの個所は先のブレスの採り方を考慮しぴったり合わせると音楽に凄みが出る
 (集約はただ1つの音にされるとは限らず、一定の協和音であることも多くあります)


ショスタコーヴィチの第5交響曲に関しては、とりあえず以上で一連の「読み」の試みを終えます。 演奏なさる方にとって、ひとつのスタートラインが引けているようであれば良いのですが・・・

スコアの「読み」の勉強は、次はグリークのピアノ協奏曲について行なっていこうと思います。
こちらは19世紀末の西欧音楽の定石に素直に沿っていて、構造的に特殊な部分はありません。
その代わり、同時期の他作曲家同様、調の移り変わりによって彩りを豊かにしています。
そのため、音符を移動ドで読んで置かないと、音楽が充分理解できなくなりますので、是非、移動ドを体得しておいて下さいませ。
鑑賞にあたっては、楽譜に邪魔されないので、むしろ素直な耳で臨めば充分な作品です。

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2007年3月19日 (月)

解読ショスタコーヴィチ第5-第4楽章

とりあえずの全体像
第1楽章
第2楽章
第3楽章

「むすび」


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象徴としてドラクロワのこの絵を持ってくるのがあまりに「陳腐」な気がして、ひっかかっておりました。
が、結局この絵を本楽章にそぐうものだと結論づけたのは、ショスタコーヴィチの第5を「革命」というニックネ−ムで呼ぶ人もいる、ということとは全く関係ありません。
第1楽章で引いた絵は一見すると「個」の悲劇を題材にしたものだとしか思えなかった事でしょう。ですけれど、あの絵の標題も「フィレンツェのペスト」という、広く社会に行き渡った悲劇の一場面です。それを私個人の今の「悲しみ」と重ねあわせている事も否みませんが、悲しみというものは、たとえそれが集団の中のものであっても、共感としてよりは、一人一人の孤独な魂に突き刺さるものとして動作するのではないかと思っております。
では、「悲しみ」から奮い立つときには、「個」だけが奮い立てば何とかなるのか、というところに、ショスタコーヴィチが見いだした答えが、彼自身の説明にしたがえば、この第4楽章だ、ということになります。
で、一聴したところ、ショスタコーヴィチの見いだした解答は、あまりに「陳腐」です。
全音版スコアに、バーンスタインが述べた次の言葉が引用されているのは、お読みになっているでしょう?
「彼のすさまじい創造精神はその凡庸(註:主題最初のミ・ラーシードーという4つの構成音があまりにありきたりだ、という意味)をのりこえ、それを新しい芸術的な表現手段とする事が出来たのです。」

さて、しかし、「陳腐」で「凡庸」に聴こえるテーマにごまかされ、私たちは第4楽章を先行3楽章と切り離して読んでしまってはいけません。作曲者自身が言っていますね。
「この交響曲の第4楽章がほかの3つの楽章のスタイルと差異があるという意見を聞いている。私はそうは思わない。なぜなら作品のフィナーレは、基本的にテーマに対応して第1楽章に課されたすべての問いにたいする答えである。」
じっさい、第4楽章を読込んでみると、作曲者の発言が如何に正直か、を強く感じます。

おおまかに、この楽章の構成を見てみましょう。
これも専門家から見たら間違いなのかも知れませんが、私は本楽章は擬似的なソナタ形式だと捉えて差し支えないと思っております。

呈示部:第1主題A〜練習番号97、第1主題B〜同98-99、展開〜同100-107
    第2主題〜同108-110、呈示部コーダ〜同111
展開部:練習番号112-120
擬似的な再現部:練習番号121-128(悲しげに静かに開始する)
※ただし、128はコーダへの橋渡し
コーダ1:練習番号129-130
コーダ2:練習番号131-134

以下、説明をクドクド綴ると、より冗長になりますので、 各練習番号の箇所の音(色のついた箇所をクリックすると聴けます)に、コメント風の「ストーリー」をくっつけてみるにとどめます。そのため、抽象度が高くなってしまいますが、ご了承下さい。
ただし、前の3楽章と同様、「ストーリー」は比喩としての一つの例だと思って下さい。
なお、スコア各箇所も掲載するつもりで準備しましたが、画面が鬱陶しくなるので載せませんでした。お手元でご確認頂ければ幸いです。

例によって第1楽章の主要3動機を「直面」・「拒絶」・「自問」と仮称しています。

呈示部第1主題
:「自問」は「直面」と融合する。〜以下、こういう表現でいきます。この場合、主題が「自問の動機」をベースにしつつ「直面」の動機と融合しているのだ、ということを言っています。
:「拒絶」を散文的に客体化し、肯定的意味に変貌させる
:ここまでに、「自問」は内省的なものから外的主調へと変貌する
:外面化・公衆化した「自問」が<前進>を急かす。「進め!進め!」
:・・・しかし、まだ足が地に着いていない。。。

呈示部第2主題〜やはり「自問」の動機がベース
:<地に足をつけよ!>と、先唱するトランペット。
:それまで個々に上がっていたトランペットへの応答が、ここで一体化する

展開部
:第2主題ベース、克服しつつある悲劇への、最後の回顧
:第1楽章コーダの回想、すなわち、「自問」の意味の再確認
  ※クラリネットに、第1楽章にあった「自問」の捻れが聞こえる事にも留意
練習番号117:悲劇の克服へ向けて明るく転化して行く精神。「拒絶」の動機の反転を「直面」の動機が柔らかに、天から見守る

擬似的再現部は、呈示部で昂揚した精神が展開部を経る事で静かな、しかし悲壮な決意へと「足固め」を完了した事を示している。そのため、呈示部の「再現」となるわけにはいかなかったのだと思われる。

コーダは長大で、2部に分かれる。
-130:「直面」する我(われ)も「拒絶」する我も・・・130でのトランペットの確固たる「自問」の動機が示す通り・・・いずれも我である。
:130での準備を経て、この後半のコーダは完全な、しかも<集団的な>自己克服を謳歌する。
:「自問」には、もはや揺るぎがない。A音に集約されている八分音符は、宇宙が不動の私たちを抱擁するエーテルである。

紋切り型で分かりにくく、なんだかええかっこしいに見えなくはないか、と懸念もしておりますが、こんなところで。

とにかく、以上で構成をご理解の上、お手持ちの演奏で全体を通して聴き直してみて下さい。

なお、もしムラヴィンスキーの演奏できくときには、本楽章にかぎらず、原稿出版スコア通りではないところがあるのは、お好きな方はご承知の通りです。ご承知でなくても、とりあえずお気になさる必要はありません。

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2007年3月18日 (日)

3月18日練習記録(弦分奏)〜管も参考にどうぞ

総会には参加出来ず申し訳ございませんでした。
管分奏について触れられません事も、併せてお詫び申し上げます。

弦はショスタコーヴィチ第5の第2楽章、第4楽章から抜き出して行ないました。
演奏上の参考となるご発言を頂いた方に感謝申し上げます。
・・・いいヒントはお互いに出し合って、というのは、大変に嬉しい事ですし、素晴らしい事です! それがとても幸せに感じられる分奏が出来ました。有り難く存じております。

ポイントのみ。管の方にも参考にして頂けると思います。
3月19日付記:不完全な引用で恐縮ですが、色のついた箇所にはムラヴィンスキー東京公演の際の該当箇所の音をリンクしました。
(細かくなるところ、たとえばスウィング感が欲しいナ、などとコメントした箇所は省きます。各自ご研究をお願い致します。)


全般
・大事なモチーフに入る前で、必ず前拍分の充分なブレスをとって下さい。1拍丸々ブレスの時間が必要なら、必要な時間分、充分なブレスをして下さい。ブレスが短いと、周りより先に入ってしまう事になり、アンサンブルを損ねます。演奏なさってみて、よくお分かり頂けたと思っておりますが、この件、忘れられがちなので・・・
<充分なブレスが必要>
・・・是非、しっかりご記憶下さい。


第2楽章
・練習番号48から54第1小節目まで(第1部 〜B前半)、および練習番号65から70第1小節目(第3部A〜B前半)までは、「同じ音楽(構造)」であることを、したがって後者は前者をピツィカートで演奏しているに過ぎない事、をご理解頂きました(読み、解釈の問題は度外視して、の話です)。
ですので、後者のピツィカートはディナミークはpとなっていますけれども、強い響きで演奏するように練習しておかなければなりません。pで、と考えると、弾(はじ)くスピード感を失い、前者と違う音楽になってしまいますが、これは演奏の仕上がりを損ないますので、この点、必ずご銘記下さい。


第4楽章
・練習番号103の4小節目からは、1拍目の裏から弦楽器はユニゾンでテーマです。はっきり入りなおす事になりますが、それだけではインパクトが不足しますので、ここから仲間に加わるコントラバスがフォルテ3つぶんくらいのつもりで大きく弾くと、バランスがよく、テーマの輪郭もはっきりします。よろしくお願い致します。

からは、音程の変化に気を取られず、「1、2、3、4」の拍のカウントをしっかり守る事に専念して下さい。音程の変化に気を取られてリズムが乱れると、ここで要求される、流れるように進んで行くための推進力が失われてしまいます。92小節(練習番号109の5小節目)で全員がぴったりとE音に吸い付くと、聴く人が「背筋がゾクッとくる!」演奏になります。
<練習番号109の5小節目で、全員が一斉に同じ音になる>
これがこのあたりの音楽の一つの山場です。くれぐれもご留意下さい。

の3小節目から(ホルンのソロの箇所)、ヴァイオリンはチェロとコントラバスの作っている和音を邪魔しないで下さい。弾くふりだけでもいいくらい、だと思っていて下さい。チェロとバスはお互いに聴きあって美しい和声を作って下さい・・・そうすればホルンのソロが「夕日を背負った英雄のように」吹いてくれるでしょう!

からのメロディ、ディナミークをpのつもりで弾いて下さい、と申し上げたらきれいになりましたよネ。かつ、ディナミークはそれでも充分フォルテになってしまっていましたよね。
<いいメロディにはメロディそのものに力がある>
ので、
<いいメロディを弾くときは思い入れをしない事>
が肝要です。本日ご経験頂いた通りです。

・・・この程度しかやりませんでした。応用の利く内容ではあるかと存じますので、今日の成果をご含味頂ければ幸いです。

第2楽章については「読み」をブログに掲載済みですが、構造の事と演奏上の心得とでは「読みなおし」も必要になりますので、本記事と「読み」を、どうかお読み比べになって、「演じ手」の台本としての「読み」をご自身の中で再構築なさってみて下さい。面白い発見があるはずですヨ。(23:10)

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2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝(管弦楽作品を中心に-0)最初に

場つなぎですみません。
ショスタコーヴィチ第5の終楽章、何とか読解が出来たのですが、まだ作業が終了しません。
モーツァルトも、先に進むための下書きをしていません。
そこで、ショスタコーヴィチ前史として、参考に、以前グラズノフの交響曲を演奏した際作成した伝記を掲載します。

文章の下手さ、多少多々の主観はご容赦下さると共に、ご自身なりにお読み替え下さい。参照・参考にした書籍やCD・DVDを、最後の節でご紹介しておきます。

凡例::
文中の( )内は、参照した資料です。:書籍・CD(のパンフレット)の別なく、次のような通し番号としています。〜1桁は事典類、10番台以降は書籍、50番台以降はCD・DVD(70番台以降はグラズノフに関係の深い、他作曲家の参考作品。)100番台以降はウェブサイト。なお、曲目についての註で:(未聴)とあるものはCD入手可能なことを確認出来ていながら、私がまだ購入したり耳にしたりしていない作品、:(未見)は私がCD他の資料を見つけかねているものです。CDは輸入盤がほとんどで、値段もナクソス盤以外は廉価なものはほとんどありません。(タワーレコード新宿店での1枚あたり平均価格は2,510円でした。)ご購入に際しては「ふところ具合」と充分ご相談下さいね。なお、文中、耳にした全ての曲に触れることが出来なかったこと、かつ、どの曲も決して熟聴の上文を綴たわけではないことを、あらかじめお詫びします。

「確かプーシキンの作品だったと思うが、このような言葉がある。『いまここにいない人が忘れられるのは、自然の運命である』。これは恐ろしいことではあるが、しかし、真実である。これに抵抗しなければならない。いったい、どうすればよいのか。」(17.p72)
「『忘れられた昔の作曲家』と書き立てられている。だが、もしかしたら、しかるべくして忘れられた昔の作曲家なのではないだろうか。思い出すことなどまったく必要なかったのではないだろうか。」(17.P133)
いずれもショスタコーヴィチ(あるいはヴォルコフの「創作」したショスタコーヴィチ、資料一覧の註を参照)の発言ですが、グラズノフその人についてなされたものではありません。現代では「凡百の」と決めつけられている多くの作曲家が、忘却の彼方に姿をくらましてしまっています。その数は百では収まらないでしょう。それでもさらに、これから「凡百」という殿堂に加わる多くの作曲家は増え続けるはずです。作曲家に限らず、全ての職種の人間の前にプーシキンの言葉そのものの運命が待ち受けているし、「凡百」の一員に加わるのが当然と思っている私達(お読みになっているあなたがそうではないのでしたら、ごめんなさい)は、だからといってそれほど深刻な「運命」だとまで感じることはありません。従って、「これに抵抗しなければならない」とまで考えることは、まず無いでしょう。私達は、忘れられるべくして忘れられていく。
グラズノフは、そのような「凡百」に加えてよい人物だったのでしょうか。彼は、忘れられつつあり、忘れ去られていくのでしょうか。
「はたして、今日、われわれはグラズノフをその音楽のせいで愛しているのだろうか。はたして、われわれにとって彼の交響曲は、リムスキイ=コルサコフが語っていたような「新鮮で強固なもの」として残っているだろうか。(中略)グラズノフの交響曲を聞いていると、わたしは退屈になってしまう。そろそろ再現部に入るのかなと思っていると、いや、そうではなく、相変わらず展開部がつづいているというわけである。グラズノフの場合、交響曲の終楽章がとりわけうまくいっていない。活力と緊張に欠けているのだ。グラズノフのほとんどすべての作品に共通する性質である。」(17.P333)
こうした辛辣な批判が、グラズノフについて最も多くの情報を含む書籍としては日本で唯一手軽に買える文庫本の中に存在しているため、大多数の日本人には、グラズノフはやはり「忘却される凡百」の一人なのだ、という印象が強いのではないでしょうか。
TMFでは今2005年、彼の交響曲を定期演奏会でとりあげました。5年ぶり、2回目のことです。
当団楽事委員長の益田さんという「発掘の名人」がいなければ実現できなかったでしょう。
ここまで引用してきた『ショスタコーヴィチの証言』の言葉にも関わらず、その交響曲・・・2000年には第1番でした、今回は第4番を演奏します・・・は、上の批判とは裏腹に、魅力的な音楽だ、と、いま私達は(少なくとも私個人は)感じています。
「グラズノフは、『凡百』の一人であるはずがない。」
明確にそう結論付けをしたいところです。
ところが、この交響曲を書いたころグラズノフはどういう境涯にあったのだろうか、と事典類を紐解いてみても、彼の人間性を示してくれる文には全くと言ってよいほど目にすることが出来ません。解説行数はバッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどの「大家」に比べると2段階くらい落ちます。それでも全体のランク付けが6段階あるとすると「中の上」扱いです。まだマシな方だとはいえ、このクラスの解説文では、私達が就職活動の時書いた「履歴書」程度の内容を載せ得るのが関の山で、
・「性格:おっとり型」
・「趣味:泥酔」
・「尊敬する人物:フランツ・リスト」
・「好きな言葉:隣人を愛せ」
・「血液型:O」
程度までの情報を紋切り型に並べておしまいです(ちなみに血液型は載っていませんでした。AOのA型かO型か、どっちかのような気がするのだけれど・・・)。
でも、せっかくこの人の音楽を「魅力的だな」と思って演奏するのです。私としては、履歴書を覗くだけで満足せず、どうしても「面接したい」ところです。採用後の面接、というのもおかしな話ですが、私は人事部採用担当ではありませんので、「演奏心得」の訓示を垂れる・・・あ、立場が逆だ!・・・訓示を垂れてもらうためにも、是非本人と会っておきたいと切望せずにはいられませんでした。かといって、あの世に電話して面談期日を決めるわけにもいきません。そこで、なるべく多くの本人作品、同時代人の記録や資料を熱心に閲覧するふりをしながら、彼の方ですすんで私の「枕元」に立って話しかけてくれるようになるのを待ってみることにしました。・・・なんて。(井上ひさしなら、こうやって小説を始めるんですけどね。)

うとうとと彼の作品のCDを聴きながら布団に入っていた某月某日、雨のしとしとと降る深夜、頭の後ろの空気がなんだか湿っぽくて、それもただの湿っぽさではなく、妙に重たい上に、どこか酒臭いので、「なんだろう」と思ってちょっと起き上がってみると・・・などという悪のりはこれくらいにしましょう。その某月某日に、とにかくこんな次第で「面接」は実現しました、と、お考え下さい。これを綴った当時は夏至に向かって日が長くなっていくころでしたから時間は充分になく、聞かせてもらえた情報量も期待を遙かに下回る少ないもので、ちょっと残念ではありました。が、少なくとも「履歴書」以上の人間像に触れることは出来たのではないかと思っております。接しえた人間像がどの程度具体的か、はなはだ心もとありませんが、「履歴」と「面接」の結果を突き合わせつつ、次節以降6つに分けてレポートしていきます。

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グラズノフ略伝1)出生・成長・デビュー

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「グラズノフ社」といえば、晩期帝政ロシアでは結構有名で大きな出版社兼書店だったはずです。19世紀の誰かの人物伝を読んだとき、「グラズノフ」という出版業者名に何度か出会った記憶があり、ロシアに縁が深かった人物、特に音楽家ならベートーヴェンかな、と当たりをつけて資料を探しなおしましたが、残念ながら今回は見出すことが出来ませんでした。音楽関係ではなかったかも知れません。(どこかで見つけた方、ご存知の方がいらしたら、教えて下さい。)とにかく、ペテルブルクにあったこの羽振りのいい出版社が作曲家グラズノフの生家だということは、彼の順調な経歴や生き方、作風を大きく決定付けていると思われます。

アレクサンドル・グラズノフ、愛称サーシャは、1865年7月29日(新暦では8月10日)、「グラズノフ出版社」の長子として生まれました。父親について詳しいことは調べられませんでしたが、母親イェレーナ・パヴローヴナはペテルブルク音楽院の卒業生で、ピアノを巧みに弾きました。また、グラズノフ家の富裕さのおかげでしょう、家庭に日夜さまざまな素人音楽家を集めては、あきれるほど多くのアンサンブルを繰り返していました。「『サーシャは「文化の掃き溜め」の中で成長したようなものだ』、とストラヴィンスキーなら皮肉っぽく言ったろう」と評する解説者もいるほどです。(51,52)

そんな幼少期、いつのころからか、サーシャは夜中に一人こっそり起き上がって、その日聴いた音楽を思い出しては楽譜に書き留める習慣を身に付けました。「どんな細かいところまでも、思い出して書き留めた」と、彼は後年回想しています。

サーシャの才能に気づいた母親は、自ら息子にピアノを教えていました。母親が己れのレベルを超えてしまった彼に正規のピアノ教師をつけたのは、サーシャ9歳のときのことです。教師の名はイェレンコフスキー。伝記の明らかでない人物ですが、以後ペテルスブルクを何らかの事情で去るまでの5年間、イェレンコフスキーは優秀な弟子に対し適切な方法で指導に臨みました。指導法は、どうも、ピアニストとしての育成を目指したものではなかったようです。音階や三重トリラーといった技術的課題を与えるのではなく、モーツァルトやベートーヴェンの古典作品を次から次に教え込む、というやり方でした。(51)
イェレンコフスキーの指導を受けた最後の年から、サーシャはピアノ曲の作曲を始めています。サーシャの兄弟姉妹は何人いたか分かりません。何人いたか分からないその弟・妹たちは、サーシャが音楽教育を受けているあいだは、誰もその傍に行くのを禁じられたということです。すなわち、サーシャは、温室状態の中で英才教育を受けたのです。

1879年、イエレンコフスキーがペテルブルクを離れると、母イェレーナは息子をバラキレフのもとへ連れて行きました。「力強い仲間」、すなわち「ロシア五人組」の主宰者である彼は、帝立ペテルブルク音楽院の権威に対抗して62年に「無料音楽院」を設立するなど、アカデミズムに対し尋常ならざる対抗意識を持っていた人物です。帝立音楽院出身の母が、なぜわざわざ、それに対立していたバラキレフに息子を引き合わせたのか興味深いところですが、本当の事情はわかりません。彼女の日常のアンサンブル仲間の影響でもあったのでしょうか。サーシャに会ったバラキレフは、少年の並々ならぬ才能に目を見張りました。すぐに、この少年を自分たち「五人組」の後継作曲家として育成することに意を決したようです。

バラキレフはこのとき42歳。才能を認めた相手には即座に「交響曲を作りなさい」と勧めてしまうほど意気軒昂な人でしたが、一方で自分にも仲間にも、一度書いたものでも何度も改良していかなければならない、という厳しい創作態度を望むあまり、本人自身が最初の交響曲を完成したのは遥か後の1897年となりましたし、仲間も、交響曲やオペラのを仕上げるのには大変苦慮しました。「五人組」の中でそれまでに交響曲を2曲以上仕上げ得たのは、最若年のリムスキー=コルサコフ(79年には35歳)と最年長のボロディン(同46歳)だけです。ムソルグスキーとキュイは、とうとう一作の交響曲も残すことは出来ませんでした。バラキレフ自身も、ほんの数えるほどの交響詩以外は、ピアノ曲、歌曲を中心とした作品を発表するに留まっていました。(75)
サーシャの創作能力に注目したバラキレフは、まだ幼い相手に対する自身の指導方針は厳しすぎるとでも思ったのでしょうか、あるいは既に管弦楽法の素晴らしさでは定評を得ていたリムスキー=コルサコフのほうが天才少年の指導者として向いていると判断したからでしょうか、「五人組」最若年の、仲間内でリムニャーニンと呼んでいたリムスキー=コルサコフの手に、サーシャを委ねることを決めました。

先立つ1871年、リムニャーニンは、ペテルブルク音楽院に新風を巻き込もうと図った新院長アザンチェフスキーから、教授として招聘されました。作曲家として既に定評を得ていたとはいえ、それまで我流でしか創作していなかった、かつ当時はまだ現役の海軍大尉として勤務していたリムニャーニンは、迷いました。音楽院の教授になることは、アカデミズムと一線を画してきた「五人組」の仲間と精神を裏切るのではなかろうか、という苦悩も大きかったのではないかと思われます。迷った末バラキレフに相談したところ、「アカデミーの牙城に乗り込んで、真のロシア国民音楽を想像するんだ!」とかえって励まされ、結局彼は招聘に応じることとなりました。以後、正規の音楽理論を身につけていた訳ではなかったリムニャーニンは、苦労して独学を重ね、75年にはチャイコフスキーに書簡で対位法勉強の成果を見てもらうなどしつつ、学生に知識不足を見て取られたことが一度もない名教授ぶりを示しました。(13,75)

努力家のリムニャーニンは、サーシャの師としては非常に適切な人材だったといえます。サーシャ少年は彼から、和声法、対位法、管弦楽法の指導を受けました。指導を始めたリムニャーニンは、天才としか思えない少年の吸収力に、ただ驚くばかりでした。「温室育ち」の幼く柔らかい脳は、しばしば高い吸収力を示すものですし、実例も豊富にあります(音楽ではメンデルスゾーン、思想家ではパスカルなど)。けれども、リムニャーニンがこういうケースに遭遇したのは全く初めてでしたし、それだけに驚嘆の思いも強かったのでしょう。彼はこう叫んでいます。
「サーシャは一日毎になどというものではない、刻一刻、成長するんだ!」

リムニャーニンは1年半たつとサーシャに宣言しました。「もう教えることは無い。君と僕とはもう師弟じゃない、友達同志だよ。」

リムニャーニンの好意的な宣言にも関わらず、サーシャは81年までは習作を続け、アドヴァイスをもらう、という姿勢を保ちました。1878年から81年にかけて習作期のサーシャが創作したと分かっている作品数は26、うち大半がピアノ曲(ソナタは3曲)ですが、歌曲数曲、弦楽四重奏のための「5つの小品」などもあります。(101)

81年3月、「五人組」の中でひときわ異彩を放っていたムソルグスキーが死去しました。42歳の誕生日を迎えて数日たったばかり。アルコール中毒が募り、廃人同様になっての惨めな死でした。欠員が生じた「五人組」構成員が持った危機感からでしょうか、サーシャは周りの激励を受け、前年の夏から構想を練っていた最初の交響曲に本腰を入れました。構想は80年夏、リトアニアにある避暑地、スラヴの人々の間では名高いドルゼニキというところで練り始められました。音楽の精神はバラキレフの汎スラヴ主義に強く影響を受け、最終的には主にポーランド民謡を素材にした、親しみやすく平易なものに仕上がりました。(58)
(何と言うポーランド民謡なんでしょう? これは分かりませんでした。)
先取りしておくならば、汎スラヴ、であるからには、スラヴ系民族の素材で、かつロシアそのものではない材料こそが説得力を持つのだ、という、周囲の大人のおせっかいもあっただろうことは、先々のロシア革命当時のサーシャの立居振舞を検討する時、重要なポイントになるでしょう。

サーシャの交響曲第1番ホ長調は、1882年3月17日(新暦29日)、ペテルブルクに於いてバラキレフが主催した音楽会で、リムスキー=コルサコフの指揮により初演され、万雷の拍手をもって聴衆に迎えられました。
鳴り止まない拍手に応えて壇上に上がり、緊張した面持ちで、ぎこちなくお辞儀ををした創作の主を見て、聴衆は仰天しました。これほど整然と出来上がった交響曲の創造者が、なんと、学生服姿だったのです。まだ高校生に成りたての、頬に幼い赤みを残した十六歳の少年なのです。
上演の前には、聴衆には、そのことは全く知らされていなかったのでした。
拍手はなおいっそう大きくなりました。
「ペテルブルク市民は、この光景を永久に忘れないはずだ」
誰かがそう呟きました。
事実、後年やはり天才ショスタコーヴィチが十代のうちに第1交響曲で華々しいデビューを飾ったとき、多くのペテルブルク市民が、四十数年前にサーシャ少年がステージ上でぎこちなく挨拶した姿を、懐かしく思い出したのでした。(17)

少年サーシャは、作曲家アレクサンドル・コンスタンチノフヴィチ・グラズノフとして、このように希望に満ちたスタートを切ったのです。

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グラズノフ略伝2)ベライエフとリスト

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初演は大成功だったとはいえ、グラズノフの交響曲第1番は未熟さが残っています。
どちらかというと南方スラヴ系の暖かいメロディに満ちていて、その点では充分に魅力的ではあるものの、たとえば第1楽章は、その最初の舞曲的主題が堅苦しいソナタ形式の中で執拗に繰り返されること、オーケストレーションが地味であることなどにより、グラズノフがイメージ作家としてはまだまだ貧弱であるという印象が、どうしてもぬぐえません(同型のリズムを持つドヴォルジャークの「スラブ舞曲」と聞き比べてみて下さい)。
師のリムスキー=コルサコフも、この頃までの作品では、後年の「シェエラザード」ほど華やかな音色で作品を飾ってはいませんから、やむをえないことだったかとも思います(75)。
しかし、初演がリムスキー=コルサコフ以外の、グラズノフについて全く予備知識のない人の指揮によってなされていたら、いや、後年「指揮ベタ」と陰口されたグラズノフ自身が指揮したりしていたなら、作品の単調さが強調されて、到底成功は望めなかったのではないでしょうか。
当時のロシア一般人には、大作曲家として既に名を成していたチャイコフスキーは西欧かぶれで宮廷寄りの保守派に見えていた節がありますし、「五人組」は解体寸前だったもののロシア・ナショナリズムの音楽的な体現として共感する民衆も多かったと推測されます。こうした聴衆の心理、少年作曲家によるナショナリズム色の濃い作品の衝撃的な登場、といった要因が、グラズノフのデビューを華々しいものにしたのでしょう。

・・・実際にはチャイコフスキーと「五人組」の関係は一般の理解よりはずっと良好で、チャイコフスキーが幻想序曲「ロメオとジュリエット」を作曲したとき、バラキレフが大いに肩入れしたこともあったくらいです。
「このような標題音楽を生み出せるあなたは、すばらしい!」
それまでいわゆる絶対音楽的作品ばかり書いていたチャイコフスキーに対し、「五人組」は「標題音楽こそ望ましい」という方針を貫く傾向が強く、双方の距離もこの方針の違いによって隔てられていたのですから、「ロミオとジュリエット」は格好の接近材料になった、という次第です。
以後、チャイコフスキーは「テンペスト」や「フランチェスカ・ダ・リミニ」などの標題的傑作を生み出しましたが、後者は「五人組」の気に入らず、距離はそれ以上なかなか縮まりませんでした。(13)
それでも、リムスキー=コルサコフが対位法の学習につきチャイコフスキーの助言を請うたことがあるのは、前述した通りです。チャイコフスキーと「五人組」には相反する流儀があったことは間違いありませんが、いずれも心底ではロシアの大地、ロシアの精神を共有していたことを、ここで一応記憶に留めておくべきでしょう。まもなく、グラズノフはチャイコフスキーからも大きな影響を受けることになるからです。

グラズノフの交響曲第1番が同じ指揮者の手によって2回目に演奏されたとき、客席に一人の商人の姿がありました。終演後、楽屋を訪れたこの業者は、リムスキー=コルサコフに自己紹介しました。「ミトロヤン・ベライエフ(ベリャーエフ)と申します。ロシアの音楽作品を西欧に広めるため、あなたやグラズノフ君の楽譜をどんどん出版していきたいと考えておるんです。いかがなもんでしょうか」ベライエフとリムスキー=コルサコフ、グラズノフの深い関係が、このとき始まったのでした。

市場を下調べする意図があったのでしょう、ベライエフは1884年春、ヨーロッパに旅立ちました。旅行に際し、ベライエフはグラズノフをいっしょに連れて行きました。グラズノフを同行させたベライエフの最大の目的は、この天才少年をワイマールのフランツ・リストに会わせ、少年の交響曲に太鼓判を押してもらうことでした。

ロシアから西欧への大旅行はまだ困難の多い時代だったでしょうが、当時ロシアは1857年クリミア戦争に敗北してから、経済や産業の振興に国を挙げて腐心しており、鉄道網も70年代にはかなり整備されたようですから、少年には幾分でも楽しい旅だったのではなかろうか、と想像してみたいところです。

リストは若手音楽家にやさしく暖かい助言を与えてくれ、支援の手まで差し伸べてくれる貴重な人格でした。そのため彼を慕って訪ねてくる信奉者が絶えず、「ワイマール詣で」という言葉が出来たほどなのは、周知の通りです。
リストに好感を持たない人々からは、彼の若手へのお節介は「名誉欲」からくるものだ、と非難されましたし、彼の作風も
「表面的なヴィルトゥオジテばかりを要求する、浅薄な内容のものばかりだ」
と酷評されました。
若い頃、貧しいピアニスト時代を送り、貴族階級に差別的扱いを受けることを甘んじて受けざるを得なかったリストには、確かに自らが「高貴」でありたい、という強い欲求があったことは否めません。
だからといって彼は娘婿ワーグナーのような政治的野心を持ち合わせた人ではありませんでした。よく言われる「ワーグナー一派の首領的存在」という評価も、厳密に言えば当たっていません。
弟子ビューローと結婚していた娘のコジマがワーグナーの元に走ったとき、リストは怒って以後5年間ワーグナーと絶縁しましたし、それ以前にも何度か二人の関係は悪化したりしています。そのくせ、音楽家ワーグナーの大きな才能を、彼は人間関係の善悪を超えて高く評価し続け、絶縁状態の間も密かにワーグナーの楽劇上演を聴きに出かけたりしていました。
一方、リストは彼に好感を持つことのなかったブラームスへも、讃美を惜しむことはありませんでした。
おのれの魂の「高貴さ」を貫くために、個性豊かな音楽を自己の価値観から否定してはならない、素晴らしいものは素晴らしいと公平に評価すべきである、という信念を、リストは生涯貫いたのであり、若手に対する懐の広さ・深さも、彼にとっては信念の表明の一環に過ぎなかったと言えます。
この年73歳、衰弱の目立ち始めたリストは、周囲への寛容な態度とは裏腹に、これまでの自らの作品が「正当に」評価されることはとうに諦め、孤独な心境に浸っていました。熱心なカトリック信仰から誠意を込めて5年前に作曲した「十字架の道行き」(独唱および合唱)は出版を拒否され、以来、心に深い傷さえ負っていました。(「十字架の道行き」は、当時としてはワーグナーよりも前衛的な無調部分をもち、今日では斬新な作品として再評価を受けつつあります。また、ワーグナーとコジマ夫妻には冷たい評価を受けたものの、3部構成からなる大作オラトリオ「キリスト」は、私は名作だと思います。)
かつてのショパンのような、相互に理解しあい、彼と我との違いを冷静に受け止めあい、演奏会で心から応援しあうことの出来るようなライヴァルも友も、リストは既に、ほとんど失っていたのです。
そんな失意を表面に現わすことなく、リストははるばるやって来たグラズノフの訪問を優しく受け入れ、ベライエフの期待通りに少年の交響曲を高く評価したばかりか、5月にワイマールで行われた「全ドイツ音楽協会演奏会」で紹介の労さえとってくれ、グラズノフの名を一挙に広めるのに大きな役割を果たしたのです。(12,58)
大先輩たち「五人組」が以前から尊敬していたリストに認められたことで、以後グラズノフの作品・作風にはしばしば明確に、このワイマールの大音楽家の影響が色濃く見られるようになっていきます。

ただし、バラキレフやボロディン、リムスキー=コルサコフもそうであったように、受け継がれたのは器楽作品の「標題的な」・あるいは「技術的な」側面に限られています。リストが私的に最も尊重した宗教曲の精神は、リストの最も熱烈な讃美者であったはずの「ロシア五人組」にも秘されたまま、リストの死と共にこの世からは浄化されてしまったのです。

しかも、「五人組」が標榜した「標題音楽」は、リストが理想とした「標題音楽」とは発想にズレがありました。リストのいう「標題音楽」は、「標題によって聴衆に音楽を易しく聴ける指針を与えはするが、最終的には音楽そのものとして、標題とは独立した存在意義を保てなければならない」という高い理想を標榜したものでした。(11)
が、一般人は「標題音楽=ストーリー性を持ったキャラクタリスティックな、すなわち具象的な音楽」という受け止め方をしており(そうした理解は、かつてリストをも感動させたベルリオーズの幻想交響曲が主にもたらしたものです)、「五人組」の「標題音楽」に対する姿勢も一般人同様、リストの精神とはだいぶ開きがありました。そのことに、彼らは生涯は気づくことがありませんでした。付言すれば、チャイコフスキーはリストとは必ずしもしっくり行かなかったものの、「標題音楽」に対する考え方はリストと共通しています。リストとの大きな違いは、チャイコフスキーの理想はあくまで「絶対音楽」に初めから重きをおいていた、という点です(13)。
彼の音楽に対するこの姿勢は、その死後、急速に「五人組」の末裔たちにも浸透していきます。皮肉にも、「五人組」最大の後継者であったグラズノフが、チャイコフスキー的音楽観を代表する次世代へと、最も大きく変貌していくのです(第3交響曲以降)。これにはグラズノフがまだ若々しい脳を持っている間に、リストとチャイコフスキーのいずれにも直接会い、二人の大作曲家から吸収したものが誰よりも多くあった幸運が決め手となったのでしょう。(チャイコフスキーとの出会いは次節で述べます。)

リストの激励も大きな成果でしたけれども、ベライエフとの旅行でフランスからスペインまで足を伸ばし、見聞を広めたことも、年少の作曲家には大きな財産となったことでしょう。作品としては3年後、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20の第2曲、「スペインのセレナード」に、見聞の経験が結実しています。(64)
また、1902年の4曲からなる管弦楽組曲「中世より」作品79の終曲「十字軍騎士」にも、37歳になってなお、少年時の彼の心に深く刻まれたスペインの印象がはっきり顔を出しています。(52)
ベライエフの方も、自分の行なおうとしている商売が各地で成功するだろうという感触を得たのか、帰国するとさっそく、リムスキー=コルサコフ他の著名なロシアの作曲家の作品を出版し始めました。出版された楽譜の中には、グラズノフの「交響曲第1番」も含まれていたのは当然のことです。(101)

外国から戻るとかえって愛国心を煽られたのか、翌85年グラズノフは交響詩『ステンカ・ラージン』作品13を作り上げています。日本でも有名なロシア民謡「ヴォルガの舟歌」をベースに、17世紀に起こったコサック反乱の首謀者、ラージンの悲劇的な勇姿を描いた作品です。反帝政的な内容にも関わらず、ラージンを描写することは、何故かロシアでは許容されていました。とはいえ、グラズノフがこうしたテーマを取り上げている点に、バラキレフ流の「汎スラヴ主義」がこの若者の骨の髄にまでしみ込んでいることが伺われます。そういう伝説があるのか、史実があったのかどうか知りませんが、交響詩では、ラージンはペルシャの美しい姫を人質としており、ロシア皇帝軍に囲まれて敗色が濃くなったとき、この姫をヴォルガの流れに突き落とした、というストーリーが描かれています。ストーリー性が創作を楽にしたのか、初期では最も伸び伸びした佳作の一つに仕上がっています。(51)

続く86年にはリスト風の色が強い交響曲第2番作品16を仕上げましたが、献呈するはずだった相手、つい一昨年出会って強い印象を受けたばかりの、かのリスト本人がはからずも7月31日に逝去したため、「リストの思い出に」捧げられることとなりました。作品は冗長な印象を免れませんが(作って見ないと分からないことですけれど、そう批評しつつ私などとてもここまで作曲する力はありません。ですから、こういう評価をすることには後ろめたさを感じます)、第1番に比べるとテーマの変形も自在になり、オーケストレーションは遥かに色彩感を増しています。作曲者としては、自分の成長を恩人リストに見せ、恩人が華やかに微笑んでくれるのを祈りつつ、創作に力を入れていたに違いありません。グラズノフの失望は、いかばかりだったでしょうか。(59)

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グラズノフ略伝3)チャイコフスキー・「イーゴリ公」・交響的絵画

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「五人組」に育てられていたペテルブルクの若手音楽家たちがチャイコフスキーと初めて会ったのは、グラズノフがベライエフとの旅行から帰った1884年秋のこと(13)とも、旅行前の1月14日のこと(52)ともあり、どちらが正確かは確認できません。が、バラキレフの家で「決められた時間に集合し(13)」て来訪を待ったのは、間違いないようです。
「興奮してチャイコフスキーの到着を待ち始めたが、彼がわたしたちとは違う陣営の人であるため、どういう立場をとったらいいかと相談しあい、非常に控え目にしているのがよかろうということになった。」(グラズノフの回想、13に記載)
緊張は、チャイコフスキーが着き、2年前に彼がバラキレフの勧めで書き始めた標題交響曲「マンフレッド」がいかに自分を夢中にさせているか、でありながらどれだけ作曲に苦労しているかを話題にし(おそらくはそれに対しキュイや評論家スターソフ・・・85年の「マンフレッド」完成の折りに最も熱烈に作品を支持した人たち・・・が激励する一幕があったりして)瞬く間にほどけました。
作風から想像される「張りつめた人格」とは違い、チャイコフスキーが冗談好きで気さくなお喋り屋さんだったことも、一同の空気を解きほぐすのに大きな効果がありました。
話が興に乗ってくると、チャイコフスキーはペテルブルクの若手作曲家たちに、それぞれの作品をピアノで弾いてくれるよう所望しました。演奏されたのはグラズノフの作品でした。交響曲第1番のスケルツォと、「叙情的な詩」作品12(管弦楽初演は4年後の88年)で、チャイコフスキーはそれらを2回ずつ弾くよう望み、かなり熱中して聴いた、とその場にいたスターソフが10月29日付の肉親宛書簡で回想しています。(52)
グラズノフも、1855年生まれの兄弟子リャドフ(1914年死)も、このときすっかりチャイコフスキーに魅せられてしまいました。
「リャドフの表現によれば、偉大な作曲家と知りあったことは、わたしたち一同にとって何かめでたい出来事のようだった。」(13)

リムスキー=コルサコフだけが、モスクワの大作曲家に魅せられていく自分の弟子たちを目の当たりにし、心中穏やかならぬものがありました。(13。「回想録」にその思いを連綿と綴っているそうですが、今回目に出来ませんでした。)
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。そして、諺にもあるように、禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」(17)
『ショスタコーヴィチの証言』二(中公文庫145頁以下)にあるこうした記述は表面的に過ぎ、リムスキー=コルサコフの嫉妬心だけを異様に強調したものであって、彼の心の本質に触れているとは言い難いところがあります。
自身が尊敬し続けてきた大先輩が、自分の育てた若い有望な弟子、グラズノフとリャドフの心を一瞬に連れ去ってしまった、という思いは、嫉妬ばかりか虚脱感をも胸に抱かせるには確かに充分です。
他にも、当時「チャイコフスキーは活動の拠点をモスクワからペテルブルクに移す」という噂があり、もしコルサコフが名誉心の人だけであったなら、これは歓迎すべからざる話だったであろうとも推察されます。結局、チャイコフスキーのモスクワ離れは実行されませんでした。
したがって、先に引用した
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。」
という言葉は全く偽りであることが分かります。次の
「禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」
も、リムニャーニンの努力家ぶりを全く無視した、侮蔑的な表現です。実際この出会い以後リムニャーニンの新創作が減少していることは事実です。

彼は、何をしていたか。自分を離れていくかに見える有能な弟子の食い止め策に走ったのか。

そうではありません。・・・若いときのオーケストラ作品を、ことごとく手直ししていたのです。

30歳前に完成してしまった3曲の交響曲は地味な響きしかしないものでしたが(75の第2番が旧版のままの演奏ですので、手直し前後の音色を知るのに役立ちます)、それを含め、チャイコフスキーが賞賛してくれていた音画「サトコ」作品5なども、より良い、華やいだ響きにするにはどうしたらいいかを必死に検討し、自分自身を「改善」することに何よりも重きを置いていたのです。これは、「改作」を迫られるとすぐ悲観的で投げやりになったチャイコフスキーではとても考えられない、海軍勤務と「五人組」的訓練とで養われたリムニャーニンの強い精神力の現れではないか、と、私は感じます。(75)成果は、別にチャイコフスキーの死後初めて現れた訳ではありません。名作「スペイン奇想曲」は87年、「シェエラザード」は88年の作品です。オペラでも、全曲を耳にする機会は得ていませんが、1890年に完成した「ムラダ」は一部の器楽曲を聴いただけで素晴らしさを堪能させてくれるものです。

リムニャーニンの自己発展に大きな役割を果たした事件は、チャイコフスキーと「五人組」後継若手の会見だけではありませんでした。87年2月、「五人組」最年長で、本業の医化学でも世界的な業績を果たしていた仲間、ボロディンが急逝したのです。生前、ボロディンは、長年かかってオペラ「イーゴリ公」の構想と作曲にとりかかっていましたが、思うように行かずたびたび投げ出そうとしていました。有名な「韃靼人の踊り(最近はより正しく「ポロヴェツ人の踊り」と称され出しています)も、リムニャーニンに叱られ、手伝ってもらいながらいやいや仕上げ、79年に単独で初演されたものでした。
そもそも、もとになった「イーゴリ公軍記」は伝来に不思議な経緯を持つ古典です。第一に、18世紀末まで写本が修道院にひっそりと眠っており、誰もその存在を知りませんでした。第二に、学者が出版した直後、ナポレオンのモスクワ遠征の最中に、見つかった原写本は焼失してしまいました。同じころ筆写された複製本はエカテリーナ女帝に献呈されていましたが、それも長い間行方不明になっており、1864年になって偶然再発見されたのです。こうしたいきさつもあって、ボロディンがこれを題材に選んだ1866年、「イーゴリ公」はまさに話題の文学でした。(21)
しかしながら、「イーゴリ公」という素材そのものは、ドラマとしての起伏作りが難しく、取り組みにくいものでした。ボロディンがなかなか先へ進めなかったのも仕方のないことです。
「私には生きているうちにオペラなんか完成出来やしないよ。リムニャーニン、サーシャ、私が死んだらあとは君たち二人に頼むしかないな」
生前、ボロディンは諦めたように言っていました。(52)
それでもこんな突然に亡くなるとは、あたりの誰も想像しておらず、医化学界も音楽界も悲嘆に暮れることになりました。死んだボロディンの家には、半分出来上がったものからごみ箱に捨てられたメモまで、と「イーゴリ公」に関するらしい譜面が文字通り散乱していました。散乱していること自体、ボロディンの「イーゴリ公」を進められない苛立ちと、なお諦めきれない執念を物語っていました。
「なんとかするしかないな、サーシャ」
交響曲第1番を完成したとき、未だ幼い自分を「太陽の子!」と誉め称えてくれたボロディンが自分にも「イーゴリ公」の完成を託していたことを回想し、サーシャ・グラズノフはリムニャーニンと共同でその完成に尽力することに、いまさら異は唱える訳にはいきませんでした。サーシャもまた、リムニャーニン同様、ボロディンを好きだったのです。それが証拠に、サーシャは「イーゴリ公」の他、ボロディンの交響曲第3番の遺稿の整理と編曲も手がけましたし、ピアノ曲「小組曲」も89年にオーケストレーションしています。(81)
リムニャーニンが「イーゴリ公」の補作で自分の方向性を再発見するという大きな収穫を得たのに対し、のちにグラズノフが批評家アサフィエフに尋ねられたときの答えぶりをみると、「イーゴリ公」の仕事はサーシャにとっては必ずしも快いものではなかったようです。
補作に際しての分担は、リムニャーニンが1・2・4幕、サーシャが第3幕と、全く出来上がっていない序曲、というものでした。「サーシャ、君は記憶力抜群だから、ボロディンが弾いていた序曲をよく覚えているだろう」「ええ、それはそうですけれど・・・」ボロディンが弾いて聴かせてくれた序曲の案は、弾くたびに内容がバラバラで、音楽の落ち着き先も決まらず中途半端に演奏を終えてしまったものばかりでした。しかも、まともな楽譜がひとつも残っていません。詳しくはCDやスコアの解説に載っていますので、ご興味のある方はそちらをご参照下さい。とにかく、序曲を構成する作業はサーシャを相当苦しめたようです。メモを漁り、ゴミ箱も漁り、薄れかけている記憶も必死で蘇らせ、それでもどうしても駄目な大部分は、結局自分で作曲せざるを得なかったのです。しかも、「自分で作曲した」部分はほんの少数だ、ということを、「イーゴリ公」の初演に際しては強調していなければなりませんでした。でないと仕上がった歌劇の価値を落とすことになるから、という配慮があったのかと思われます。それでも、苦労してまとめた「序曲」は、歌劇の他の部分とは違い、随分低い評価しか得られませんでした。(80,82)
かなりのちに、「序曲は、だって? そうだ、私が作曲した、ということだ・・・仕方がなかったんだよ!」アサフィエフの執拗な質問に、グラズノフはウンザリした声でそう答えたそうです。一方で、こんな話もあります。批評家の大先輩スターソフがアサフィエフにピアノで「イーゴリ公」を弾いて聴かせてくれるよう頼むときは、ひとこと付け加えるのを忘れなかったというのです。「序曲と第3幕は、省いてくれ」これらはグラズノフが補作を担当した部分です(全音版スコアの森田稔氏による解説。)。

たしかに、「イーゴリ公」を通して聴くとき、序曲の各部分は間違いなく劇中の要素を使っているのですが、以降に始まる音楽と、どこか調和しない響きを持つことは否めません。これはひとえに、グラズノフがチャイコフスキー的な書法に傾倒し始め、チャイコフスキー的な響きを求めることに熱を上げていたことによるもののようです。「五人組」の粗野さとチャイコフスキーの優雅さは、改善された彼らの人間関係とは別に、本来調和しないものでした。ところが、「イーゴリ公」序曲は、どこかチャイコフスキー的な響きがします。スターソフは、そのことを敏感に感じ取っていたのでしょう。だからといって第3幕まで「省いてくれ」というのは、酷に過ぎることでした。こちらではグラズノフもチャイコフスキー的要素が入りこまないよう、かなり気を使っていたことが伺われるのですから。(80。この映像は音楽の省略が多いのが残念ですが。)
「イーゴリ公」の仕事で受けた心の傷が深かったからでしょう、グラズノフは生涯1つもオペラを作曲しませんでした。グラズノフの色彩変化の発端は、84年の出会いの時、チャイコフスキーが彼の「叙情的な詩」を気に入ってくれたことにあったのではないかと思います。この作品は、「五人組」の流れを引く人間の作品にしては文字通り「叙情的」に過ぎ、繊細な美しさを持っていました。グラズノフは、普段の仲間とは違い、自分の「繊細さ」にチャイコフスキーが目をつけてくれたことが、かなり嬉しかったのではないでしょうか。「イーゴリ公」の補作にとりかかっていた87年から89年の間、一方でグラズノフが熱中していたのは、「幻想曲」と肩書きを付けたり、あまり標題的でない性格を持ったりした管弦楽作品の創造でした。(52,67)前者には、管弦楽による幻想曲「森」作品19、管弦楽による幻想曲「海」作品28後者には、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20、「東洋的な狂詩曲」作品29があります。

この中で、「森」は交響曲第1番完成直後から5年をかけて構想され、仕上げられた作品です。
「夜の暗い森の中で木々はこの世のものとも思えない姿に変貌している。聴いたこともないような不思議な響きが聞こえてくる。私は音の方へと近づいていく。音も私に近づいてくる。それはニンフたちの憂いに満ちた歌だったのだ。そこへ恐ろしい巨人がずっしりとした足取りでやってきて、歩く先にあるもの全てを破壊し尽くす。その後を、目に見えない誰かが急いで修復する。夜は瞬く間に開け始め、ニンフの歌はこだまとなって消えていき、やがて鳥たちが喜ばしくさえずり始める。」(52)
こうした叙情詩的な光景は、ムソルグスキー以外の「五人組」にはかつて思い浮かぶこともままならなかったものでした。発想が早い時期のものだけに、それでも音楽にはまだ強い「チャイコフスキー色」はありません。そのうえ、むしろ「チャイコフスキー色」に染まって以降のグラズノフ作品よりも豊かなものさえ持っています。

「海」は、同名のドビュッシーの作品と組み合わせたCDも輸入盤に見かけましたが、これはこれでチャイコフスキーに染まりきれない半端さを感じさせる作品です。まして、ドビュッシーとはとても比較できません。この「海」は、88年、ドイツの歌劇団が初めてロシアでワーグナーを演奏したことに大きな感化を受けた曲で、リムスキー=コルサコフが
「あまりにワーグナー臭すぎないかい?」
と感想を述べたとか。
そのせいか、「ワーグナーの思い出」に献呈されています。
波や凪の描写そのものは面白く、聴衆にもだいぶ受けたようです。しかしやはり、リムスキ=コルサコフが「シェエラザード」で自己革新を果たしたのに比べると、グラズノフとしては独自色をどう打ち出すのか迷ったまま仕上げしまったのではないか、という印象が否めません。チャイコフスキーとワーグナーという絵の具パレット二つを混同して用いてしまい、結果的にグレーに濁った海しか描けなかった、という感じです。
グラズノフの街ペテルブルクは、海に近いとはいうものの、東京でいえば西新宿から眺める程度にしか海そのものを体感できず、その点、実際に海上をよく知っていたリムスキー=コルサコフの足下にも及ばなかったのは、やむを得ないことでしょう。(フランスのロマン主義絵画では海はしばしば暗い色調で、しかも海岸に寄せる波を重点的に描いています。グラズノフの「海」の音も、それらの絵画と似た色彩を感じさせます。「シェエラザード」やドビュッシーの「海」にあるような「光」・「きらめき」がないのです。)

非標題的な2作品は、前向きな発展を感じさせる佳品です。協奏曲でもないのに管弦楽にチェロ独奏を伴わせるのは、グラズノフが終生愛した方法のひとつです(作品20)。また、「東洋的な狂詩曲」は、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の境地に比べれば小振りですが、グラズノフとしての「イーゴリ公」取り組みの成果が結晶した佳品です。したがって、音色のきらびやかさとリズムの多様性には「イーゴリ公」に類似した点が多くあります(リムスキー=コルサコフ似、という見解がCDの宣伝コメントにありましたが、そうではないと思います)。一見従来の「五人組」の衣装を纏いながらも、全体は、オペラには仕立てられないとはいえ、バレエなら通用する、という具合のストーリー性を持っていて、チャイコフスキーへの傾倒をそれとなく示している点は見逃せません。

これら一連の作品のあとに発表した交響曲第3番二長調作品33は、とうとうチャイコフスキーに献呈し、グラズノフは彼への敬意をあらわにしたのでした。内容が、交響曲よりはむしろバレエ曲の影響を受けている点に、このあと急速にバレエに関心を深めていく彼の方向性が予見されます。第1楽章のアタマに「ローエングリン」的な、また中間部後半に「トリスタン」風の表現がちらりと顔を見せるのも、時期的にみて興味を惹かれます。ただ、第2交響曲で始まった長大化傾向は3番でも強まっており、最初の2楽章はまだ耐えられるものの、第3楽章以降は「もうよして!」と言いたくなります。本人もそうした欠点は意識していたのでしょう、第4交響曲以降は集中度の高い仕上げに努力するようになります。

第3交響曲のチャイコフスキーへの献呈よって、リムスキー=コルサコフとの関係にどんな影響があったか、詳細は明らかではありません。いずれにせよ、リムニャーンとサーシャの良好な関係は、表面的にはリムニャーニンが死ぬまで保たれましたから、細かいことはこれ以上詮索しなくてもいいでしょう。リムスキー=コルサコフは、新境地を開いた『シェエラザード』を「交響的絵画」と呼び、それまでの「交響詩」とは違う、という意気込みを明らかにしました。グラズノフは、それまで自分の「幻想曲」をよりふさわしく呼ぶにはどうしたらいいのか、自力で見つけることが出来ずにいました。リムスキー=コルサコフの「交響的絵画」という呼称は、迷っていたグラズノフにもよっぽどしっくりきたと見え、作品30の『クレムリン』、作品34の『春』(未見)では、リムスキー=コルサコフに倣って、これらをやはり「交響的絵画」と肩書きづけしています。

1890年作曲の『クレムリン』はひとつ10分ほどの3曲からなり、それぞれ「国民祭」・「寺院にて」・「歓呼と貴族たちの入城」というタイトルを持ち、これまでの彼には見られなかったほど豊かなオーケストレーションを施し、「東洋的な狂詩曲」をまた一段超えた境地を伺わせてくれます。とくに2曲目の「寺院(修道院)にて」での、鳴り響く鐘の音の描写は、ムソルグスキー的な和声の厚さを、ラヴェルまでもう一歩、とまで思えるほど巧みな楽器配置で表現しており、『四季』で絶頂を迎えるグラズノフの管弦楽法の熟達度を先取りして聴かせてくれます。反面、帝政を謳歌するタイトルに象徴されるように、彼の「保守的」な発想が伺われるところに、1917年のロシア革命後グラズノフを待ち受けていた忍耐の日々が予言されてもいるようです。『クレムリン』は、しかし、チャイコフスキー的な哀愁」をひとつも感じさせない楽天的な音楽で、周囲からは案外のんきな性格に見えたたらしいグラズノフの人柄をも彷彿とさせてくれます。

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グラズノフ略伝4)「ライモンダ」・「四季」

123456附(資料一覧)

グラズノフが楽壇に登場した1880年代から90年代にかけては、帝政ロシアは経済的に大きな転換期を迎えていました。クリミア戦争の敗北後、農奴解放を始めとした一連の経済政策改革、特にヴィッテ蔵相の登場による工業化の振興は、鉄鋼業・綿製品などの軽工業に大幅な好影響を与え、石油はベルギーやフランスの外国資本の協力を得て、一時的にはロシアは世界最大の産油国になるなど、全般に景気はかなり上向きに推移しました。一方、農業も化学肥料の積極利用や賃労働者による生産方式を取り入れるなどし、ドイツを相手に穀物が輸出できるようになるほど生産力を上げました。このことも含め社会階層の構造は「生産は賃労働者によって担われる」という具合に、急激な変換を遂げることとなりました。西欧に1世紀遅れで、政府主導型ではありましたが、ようやく産業革命が進展しはじめたのです。これによってもたらされた「身分・階層の差に伴う所得の歪み」が、まさか近い将来、血なまぐさい社会革命まで引き起こすとは、当時どれだけの人が予想していたでしょう。

それは措いて、リムスキー=コルサコフやグラズノフの人気、華やかな音への色彩変化が、経済の興隆と比例して高まっていくことには注目しておくべきでしょう。「華やかな音」はチャイコフスキー(というよりはむしろ、ペテルブルク・モスクワ両音楽院の創設と経営に功績のあった、ルビンシュタイン兄弟)に代表されるアカデミズム、ひいては上流階級の独占物でした。それが、産業の興隆による中産階級の富民が増加したことにより、本来「民族性・汎スラブ主義」の荒々しさを標榜してきた「五人組」の流れを汲む音楽家たちにも「華麗な響き」指向を拡大していく結果となったものと思われます。中産階級が劇場の客となる割合は、この頃全欧で急激に増加した模様で、同じ頃のイタリアの戯画に、「スカラ座を訪れるお上りさん」の場面があったりします。ロシアでも、同様の光景が多く見られるようになってきていたのではないでしょうか。

ここに、「アカデミズム」と「五人組派」の境界は自然消滅し、融合しあうことになりました。融合をもたらしたのが本当に彼自身なのかどうかは別として、たまたまそういう時期に創作の最盛期を迎えたグラズノフは、今日にいたるまで「ロシアの伝統と西欧の音楽を初めて統合し、新世界を切り開いた」と評価されることになりました。・・・でありながら、今日彼の作品がロシア国外で大きく取り上げられることが稀なのは何故なのでしょう。この疑問を解くには、もう少し先のロシア社会情勢、ロシア音楽界の変化を見ていかなければなりませんが、今は最も脂の乗りきった活動を繰り広げる彼の姿を見ていくことにしましょう。

グラズノフ少年を伴った旅で、先に市場の前途の明るさを見てとった楽譜出版商ベライエフは、1885年、ライプツィヒに「ロシア音楽出版所」を開設し、リムスキー=コルサコフの協力で多くのロシア人の作品を流通させることに成功しました。さらにベライエフは翌86年、「ロシア交響楽演奏会」を発足させ、リムスキー=コルサコフを主席指揮者(〜90年)に据えて、ロシア音楽の普及に努めました。翌年10月22日、グラズノフもその指揮者としてデビューし、88年にはフランスへ演奏旅行を行ないました。確証はありませんが、オペラを諦めた彼は、チャイコフスキーのバレエ作品に魅せられ、自分の本格的劇場デビューは「バレー音楽」で、という潜在意識を強く持っていた気がします。先にあげた「東洋的な狂詩曲」などは、明らかに舞曲的感覚が前面に打ち出されています。フランス公演で、彼は、「バレエならイケる!」との思いを一層強くする、何らかの機会を得て帰ったのではなかろうか・・・伝統的にバレーの本場であるパリを思い描き、グラズノフ訪問時はロシアに比べるとフランス自前のバレエ音楽の傑作があまり出ていなかった情勢を考えると、「自分にもこの世界でなら名を成すチャンスがある」と彼が自信を持ち始めたきっかけになる「出会い」があったはずなのではないか・・・そんな推測をしたい欲求に駆られます。これについて何の痕跡も見いだすことが出来ないのは残念です。

これ以降、グラズノフの作曲技法は格段に向上し、傑作を集中的に生み出すことになりますが、同時に作品の献呈相手選びには、外交政治的な態度が見え見えになってきます。90年発表の第3番から3年後の作品である交響曲第4番編ホ長調作品48はアントン・ルビンシュタインに、さらに2年後の交響曲第5番変ロ長調作品55はタネーエフに送られています。いずれも93年のチャイコフスキーの死後に残されたアカデミー派の大物でした。ルビンシュテインは生前のチャイコフスキーを見いだした人物ですから言わずもがなですが、タネーエフは作曲の師チャイコフスキーに対し
「あなたはバレエ音楽を交響曲に変えてしまった(註:誉めているのではなく、逆です)」
と憤慨した硬派中の硬派で、しかもバラキレフに輪をかけて自分にも厳しい人間でした。
そのタネーエフが、自己の厳しい審査眼を経て唯一出版した交響曲(第4番に当たりますが、タネーエフ自身は「これが私の第1交響曲だ」と言っていたそうです)の初演を1898年グラズノフの指揮に委ねたところをみると、彼はグラズノフの献呈作品である第5交響曲には素直に心服したのでしょう。(ちなみに、ずっと後の1979年、指揮者ムラヴィンスキーが、最期の来日公演で敬意を込めてグラズノフの第5交響曲を演奏しています。(53))
それぞれの交響曲が、献呈相手の気に合うよう慎重に作りこまれていることに注目しておく必要があるでしょう。第4番は緩徐楽章を終楽章の序奏にまで縮小し、3楽章形式の緊密な構成にしています。また、第2・第3がともすれば接続曲風に聞えていたのに対し、テーマの極端な変形を避けて、全体の統一感が失われないよう留意されています。第5番は雄大な第1楽章で始まりますが、中間のスケルツォと緩徐楽章はコンパクトにして冗長さを回避し、終楽章はタネーエフ好みの荒々しい音響を交えて気風のいい結末を迎えるよう設計されています。(雄渾な印象から、第5交響曲はグラズノフの「エロイカ」と呼ばれています。
ついでながら、タネーエフはスクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフの恩師となった人です。)こうした配慮は、この外交政略を成功に導いただけでなく、グラズノフの作曲技術をさらに高める上でも大いに役立ち、2年後からのバレエ作品での大成功につながっていきます。

「五人組」を支援してきた批評家スターソフには、70歳の誕生日と活動50周年を記念して、94年に「管弦楽のための荘厳な行列」作品50を献呈しています。より古いつきあいのスターソフに、交響曲に比べ遙かに小規模な作品しか捧げていないのは、「イーゴリ公」のグラズノフ補作部分に対しスターソフが低い評価しか下していなかったことに対する恨みがこもっているのでしょうか。交響曲がそれぞれ30分ないし40分を演奏に要するのに対し、作品50の演奏時間はたったの7分ですから。

以上のような大作・小作品の献呈対策の他に目立つのは、上演のあてがある訳でもないのに、グラズノフが盛んに「バレエ音楽」や「舞曲」の類いを作っていることです。ワルツは、92年と93年にピアノ作品として3曲、93年と94年に「演奏会用」と称して、2曲作っています。管弦楽の「演奏会用ワルツ」第1番作品47、第2番作品51は、グラズノフ作品の中では、今日でも割合ひろく採り上げられるプログラムになっています。これらのワルツの献呈相手は、母親を始めとし、どちらかというと身近な人々でした。バレエ曲は、まず93年にピアノ曲「バレエ用のエア」を、94年に管弦楽「バレーの風景」作品52(未聴)を作りました。後者には、献呈相手がいません。年代からいって、バレエ音楽作者として、93年に死去したチャイコフスキーの後釜を狙う宣伝効果を狙った創作だったのではないか、と勘ぐりたいタイミングです。事実、大作曲家を失ったペテルブルク劇場、なかんずくフランス出身の名振付師プティパ(1822〜1910、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」や「くるみ割り人形」にも深く関与した)は、新しいバレエ音楽の担い手を欲していました。そうした情勢を念頭に置いた「宣伝?」が功を奏し、プティパはグラズノフに白羽の矢を立てたのです。

グラズノフは彼なりの「3大バレエ」をペテルブルク劇場に提供することになりました。

まず、1897年には「ライモンダ」。13世紀ハンガリーの十字軍遠征を巡る物語が台本として用いられましたが、ストーリーは最初の2幕でしか意味を持ちません。第1幕は十字軍遠征に出かける婚約者の出発を悲しむ姫ライモンダの予言的な夢を中心に、第2幕はサラセン人の横恋慕に悩むライモンダのもとへ帰ってきた婚約者がサラセン人を倒すまでについて描写し、第3幕ではめでたく結ばれた二人の前で、華麗で多様な舞踏が展開します。現在でもクラシック・バレエのメインプログラムで採り上げられ、踊られている点、グラズノフの名前を今に残すことに最大の貢献をなした作品のひとつとなりました。(66・組曲62)

翌年の第2作は「お嬢さん女中」という作品で、ワトー風の情緒を狙ったもののようですが、こちらは今に至るまで生き残ることは出来なかったようです(未見)。

第3作は1899年の「四季」(54)。今日ではバレエとしてよりも管弦楽作品として演奏される機会の方が圧倒的に多いそうですが、確かに、冬〜春〜夏〜豊作の秋、と推移する明るくて表情豊かな音楽は、振り付けられた舞台で見るよりは聴衆として創造の情景にふけるほうが、より楽しめる作りになっているのかも知れません。現在、グラズノフ作品のCDで一番多く発行されているのは、この「四季」です。しかし、バレエ音楽だということにこだわるならば、「四季」は20世紀になって盛んになったプロットレス・バレエ(文学的な筋書きを持たないもの・・・ストラヴィンスキーの「春の祭典」やラヴェルの「ボレロ」が、従来、先駆けと言われています)の、音楽史・バレエ史上、記念すべき最初の作品だということは、今ではすっかり忘れられていることにもなります。(振り付けられた映像や実演の情報は、現時点で私は見つけていません。もしあったらお知らせ下さいね。興味津々です。)ともあれ、3分の2の確率だったものの、これによりグラズノフは劇場音楽でも「大家」としての名声を勝ち取ることができ、やっと心から満足を得たはずです。

どの本に有ったのか、不注意で見失ってしまいましたが、「交響曲は10年に1回演奏されるかどうかも分からない。オペラならすぐ金になる!」と、ある人が述べたことが記されていました。オペラやバレエはまだ娯楽の最高の華でしたし、オペラないしは宗教劇・バレエ曲を1曲も書かずに成功をとげた音楽家は、ヨーロッパ広しといえども、ほんの僅かに過ぎなかったはずです。調べた限りでは、19世紀の有名作曲家で該当するのはショパンとブラームスだけです。

グラズノフは、肥満した風貌と「交響曲の大家」という印象から「ロシアのブラームス」と呼ばれるようになっています。いつごろからそう呼ばれるようになったのかは分かりません。
しかし、少なくとも、バレエで成功を成し遂げた時点でグラズノフはブラームスと全く異なる路線を歩いていることが明らかになった、と言っていいでしょう。
かつ、当時のロシアでは、まだブラームスはあまり有名ではなかったそうですから、早い時期から「ロシアのブラームス」などというあだ名を頂戴していたとしたら、本人に対しては多少侮辱的な感じもしていたかも知れません(もっとも、ブラームスの音楽を彼が全く知らずにいたのだったら、ではありますが)。
「ロシアのブラームス」というのが後から与えられたレッテルだとしても、それによってグラズノフが現在被っている「名声上の」被害は甚大なものがあります。彼の音楽は今日ブラームスの作品の遙か下位に位置していると見なされていますし、実際、楽想の豊かさや構成の力強さではブラームスには及びもつかないかも知れません。
しかしながら、それは単に技量の問題ではなく、風土から来る性格の違いにも由来するのであって、よくよく耳を傾けると、とくに充実期のグラズノフ作品は、チャイコフスキー流の「接続曲的・旋律変奏手法的」技法を忠実に受け継いだ書法をとっていることが分かります。ブラームスとグラズノフでは、作曲に対する姿勢も大きく異なっています。
管弦楽作品の数だけ比較しても、グラズノフが80余りも残したのに対し、ブラームスは協奏曲に「ドイツ・レクイエム」と「アルト・ラプソディ」を含めても15曲残したに過ぎません。管弦楽が前者には気軽な楽器であったのに対し、後者には特別なものだったのでしょう。
グラズノフのピアノ作品は聴いていないので確言はしかねますが、ブラームスにおいてはピアノこそ色彩の原点であり、それにより強調を加える必要が有る場合のみ、彼は管弦楽を用いたのだと思います。
グラズノフは、ピアニストとしては自立できるほどの色彩感覚は持っていなかったのではないでしょうか。それゆえ、彼のパレットには最初から、濃い顔料にも似た管弦楽の色彩を揃えておく必要があったものと思われます。
本質の異なるこんな二人を同じ土俵に立たせること自体が、グラズノフの個性への間違った理解の元になっているだけでなく、グラズノフの守ったロシアの伝統こそが・・・グラズノフ自身は戸惑い、極端な場合は嫌悪することになるのですが・・・ラフマニノフの最初の交響曲や、ロシア・アバンギャルドの音楽での先駆けをなした一人であるプロコフィエフの諸作品の作曲技法に、グラズノフ本人の予想を超えて拡大され受け継がれていく、その源流となったことを見失わせる結果にもなっている気がしてなりません。・・・ちょっと、私的見解を綴り過ぎました。。。

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グラズノフ略伝5)ラフマニノフ・ペテルブルク音楽院・革命

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ラフマニノフとグラズノフの最初の出会いは、悲喜劇的でした。グラズノフにとっては喜劇、しかし、ラフマニノフにとっては数年間立ち直れない程の強烈な悲劇でした。

ラフマニノフの師タネーエフが、優秀なピアニストで期待の新進作曲家である弟子の記念すべき第1交響曲の初演を、ベライエフの主催する「ロシア交響楽演奏会」に強烈に売り込んだのが、事の起こりでした。
音楽界事情は、[五人組」沈静化の後にはモスクワの方が先を進んでいたふしが有りますけれど、なんといっても帝政ロシアの首都はペテルブルクです。師タネーエフは、有望な弟子が首都でも大きく認められることにこだわったのでしょうか、郵送したスコアに対するベライエフの反応が好意的ではなかったにも関わらず、執拗に売り込みを繰り返し、ようやく1897年3月15日の「ロシア交響楽演奏会」の演目として採り上げる了解を取り付けたのでした。その指揮には、グラズノフがあたることになりました。
悪いことに、この演奏会のもう一つの演目は、グラズノフ自身が最近完成した交響曲第6番(62)でした。第4・第5の2作で自信を深めた会心の作品で、深い悲劇的な音響に始まり、歓喜の終楽章のうちに終わるという、理想主義者にはピッタリお気に入り間違いなし、という、当時の聴衆にとっては隙のない印象を与えるだろう秀作でした。
別に新進の若手をライヴァル視するつもりはなかったようですが、ラフマニノフが本番前々日に練習を聴くと、グラズノフ自身の作品に比べ、彼の交響曲の演奏は支離滅裂で、話にならないほどの失望感を与えられました。怒りを抑えながらそれを伝えると、グラズノフは
「私はみんな上手く運ぶと思いますよ」
と穏やかに答えたそうです。(14)
本番は、ラフマニノフの不安が的中し、やはり全く「上手く運」びませんでした。演奏会では先にグラズノフの第6が奏でられ、やんやの拍手を浴びたのですから、ことはいっそう悲惨でした。グラズノフにとって、自分の作品に比べると、ラフマニノフの交響曲のスコアは、はじめから複雑に過ぎたのです。作曲者自身にも理解できないほどの不協和音がつづけざまに、ホールの壁も崩れんばかりに発射されては炸裂し、なんとかコントロールを取り戻そうと汗だくになったグラズノフの指揮棒は、騒音弾の連発を抑制するにはかえって逆効果、という有り様で、髪を振り乱して最後の棒を彼が降ろした時に、ようやくホールは焼け跡のように空虚な沈黙を取り戻したのです。
席にいたスターソフは
「これはさっぱりわからん!」
と首をかしげ、冷淡な批判屋のキュイは薄笑いを浮かべていたということです。
翌日、新聞に掲載された批評記事も非常に悪意のこもったものだったようです。(14)

少しあと、グラズノフは、自分の理解不足について反省はせず、演奏会のオーケストラの無神経がラフマニノフ作品の初演を失敗に終わらせたのだ、作品自体は決して失敗作ではない、と強調しておおやけに弁護しましたが、そんなことでは癒せないほど、ラフマニノフの受けた傷は大きく深いものでした。
以後4年の長きにわたり、1901年に有名なピアノ協奏曲第2番を作曲、1903年に自らの手で演奏するまで、ラフマニノフは自己の作曲能力にも世間の無理解にも失望し、ほんの私的な歌曲・合唱曲・ピアノ作品を4つまとめた程度の活動をしただけでした。ラフマニノフは死ぬまで第1交響曲の自筆スコアを公表しませんでしたし、現在でも見つかっていません。死の翌年1944年に、音楽学者のオソフスキーという人がレニングラード音楽院にあるベライエフ関係のライブラリから初演時のパート譜を見つけ出し、それをもとに復元したスコアによって、この曲はやっと再び日の目を見たのでした。(77)
それを聴くと、第2ピアノ協奏曲や第2交響曲等の諸作品に比べ、第1交響曲は何と前衛的な作品だったのだろう、と強く感じます。

グラズノフの方は、ラフマニノフの第1初演の翌年、その師タネーエフの第4交響曲も初演の指揮を引き受け、こちらは見事に成功させています。(83)
ラフマニノフの第1は、師の交響曲と、出だしだけはよく似ています。いや、師の方が、弟子に似た出だしを書いた、というほうが、時系列的には正しいのです。出だしの後からは、けれども大きく異なります。タネーエフの作品はグラズノフの曲が現代の私達にしばしば平板に聞こえるのに対し、充分立体性を訴える力を備えています。さすが、スクリャービンやプロコフィエフを育て上げ得た実力者だ、と思わされます。それでも、「安定した構造の中に」立体を閉じこめている点で、内容としてはグラズノフの理解力の先を越すようなイジワルはしていません。ラフマニノフの発想は、師に比べると、グラズノフを遙かに当惑させたのではないでしょうか。全楽章、どのひとつをとっても、リズムや感情がひとところに留まることは(言い過ぎかも知れませんが)一瞬たりとも存在せず、どこをどう統率すればオーケストラが作曲者の狙い通り響くのか・・・建築屋風に言うなら「この設計図じゃ、分かりゃあしねエ・・・まあ、柱からでも立ててみるベえか!」という具合に取り組んでみるしか手が無かった、というのが実情だったのではないでしょうか。

それにしても、第1交響曲がこの時万が一成功していたら、ラフマニノフはスクリャービンやプロコフィエフに近い「前衛作曲家」になっていたかもしれません。本人は「あのとき、私の新しい芽は摘み取られた」と終生語っていた模様ですが、この失敗が彼の甘美な作風への転向をもたらしたのだ、と考えると、初演で曲を理解できなかったグラズノフに、私達は感謝したほうがよさそうです。・・・まあ、むずかしいところですね。

ラフマニノフを失意のどん底に突き落とした2年後の1899年、グラズノフはバレエ音楽「四季」で大成功をおさめ、パリ万博でも自作の第2交響曲や交響詩「ステンカ・ラージン」を指揮するなどして絶頂期を迎え、年末にはついにペテルブルク音楽院の教授に就任しました。この2年間に手をかけた大作は「ライモンダ」と「四季」、それにあえて加えるなら弦楽四重奏曲第5番くらいです。
革命前は多作家だった、という印象が強調されがちな彼ですが、ここで参考までに交響曲に限って作曲年次の間隔を見ておきますと、第1(1881)、第2(1885)、第3(1890)、第4(1893)、第5(1895)、第6(1896)、第7(1902)、第8(1906)となっていて、平均約3年半の間隔になっており、これだけで断言するのは気が早いとしても、決して一般の印象ほど早書きタイプの人ではなかったことが伺われます。
管弦楽作品数が80程度もある、という、手がけたジャンルの特異性が、彼を「皮相な早書き屋」と現代人に思わせてしまう大きな要因になっているのかも知れません。
音楽院教授就任後のグラズノフは徐々に作品数が減っていくようにも言われており、これも動乱の1905年(ロシア革命の前触れとなった戦艦ポチョムキンの事件や血の日曜日事件が起きた年)以降、意欲の減退が目立つようになった、と、先の森田氏なども、事典類でも強調されていますが、小曲類には数の面での減少傾向は確かに伺われるものの、交響曲に変わるジャンルとして協奏曲を中心とした大作について見ておくなら、1904年:ヴァイオリン協奏曲(58)(1906年:第8交響曲)(63)1911年:ピアノ協奏曲第1番(56、第2番も)1913年:劇音楽「ユダヤの王」(55)1917年:ピアノ協奏曲第2番・・・この年、ロシア革命(10月革命が決定打)1921年:弦楽四重奏曲第6番(未見)1930年:弦楽四重奏曲第7番(未見)、チェロと管弦楽のためのコンチェルト・バラータ(64)1932年:サクソフォーン四重奏曲(57)1933年:アルトサクソフォーンと弦楽合奏のための協奏曲(65)という具合で、革命後は後に述べるような音楽院院長としての努力、再び故郷に帰ることのなかった海外旅行への出発、などの苦しい環境も影響して間隔がひろがっては行くものの、この作品履歴を見る限り、私としては「第8交響曲以後、彼の創作力は減退した」という、事典(1)や森田氏の発言(24、ただし「交響曲」IIの巻)には賛成しかねます。
とくに、革命直後亡命を決意したラフマニノフが「故郷を捨てたのだから」と9年間作曲をしようともしなかったのとは異なり、28年に亡命の意図も明確にしないまま死の年の3年前まで諦めず続けた創作への愛着の深さ、結果として生まれた作品の安定した出来具合には、ラフマニノフに対するものとは違った意味での感銘を受けざるを得ません。ちょっと先走った話を綴ってしまいました。以上の考証にも関わらず、小作品が主ですが、音楽院教授就任後のグラズノフの創作ペースは急にではありませんけれど、やはり多忙になってきたのでしょう、徐々に減少していったのは事実です。そうしたなかでも、最初の大きな革命騒ぎが起こった1905年以前に、2つの大曲を仕上げています。
1902年の第7交響曲(59)は「田園」と呼ばれていますが、これはもっぱら第1楽章がベートーヴェンの第6にかなり似ていることに由来しているものと思われます。1904年に出来た「ヴァイオリン協奏曲」は、小振りながら、彼の作品の中では最も音楽の緊張度の高い名作です。
1904年、日露戦争で国内事情も不安定になったこともあってか、ロシア初の音楽家組合「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」が出来上がりました。1901年の不作をきっかけに、まずは重税にあえぐ農民たちが運動を起こし、それに端を発して不況が広まる中、労働者も生活条件も悪化、テロ事件も頻発するようになっており、時の首相プレーヴェは、なにかにつけ民衆を弾圧する政策を採り続けていました。「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」も、そうした世情を反映して生まれた団体と見てよいでしょう。同年7月、プレーヴェは暗殺されましたが、そんなことで世の中が良い方向へ向かうほど事態は安易ではありませんでした。景気は全くもちなおしませんでした。翌05年1月9日(新暦22日)日曜日、ツァーリ(ロシア皇帝)に窮状打開を訴えるため冬宮の前にしずしずと集まったペテルブルクの労働者とその家族約10万人に向かい、宮殿警護の軍隊が突然発砲するという、いわゆる「血の日曜日事件」が起こりました。社会的不満がいくらたまっていても、このときまでロシア民衆は、ギリシャ正教の伝統により、皇帝を「メシアの化身、親愛なる父」と崇めることをやめていませんでした。(ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」や「ホヴァンシチナ」などをご覧になってみて下さい。)その「父」の冷酷な処置(実際には皇帝の許可も得ず軍隊が勝手に発砲したのでしたが)に、民衆の皇室に対する信頼も地に落ち、12年後の革命でロマノフ朝が悲惨な終焉を迎える上で、この事件は大きな意味を持つことになります。(20)音楽界も、「血の日曜日事件」に対し、2月3日に抗議声明を発表、タネーエフ、ラフマニノフ、シャリアピンなどが声明に署名し、リムスキー=コルサコフもこれに賛同しました。結果として、タネーエフはモスクワ音楽院を解雇され、ペテルブルク音楽院の院長だったリムスキー=コルサコフも、タネーエフの解雇よりずっと早い時期に、追放の憂き目に遭いました。(18)

モスクワではそれきりタネーエフを弁護する動きは何も現れず仕舞でした。ルビンシュテインの後釜に座っていた院長のサフォーノフは評判の悪い人物でしたが、彼がタネーエフ弁護の動きを封じたのです。タネーエフは秋に音楽院を去り、以後むしろ悠々自適の生活を送ることになりました。タネーエフへの不当な処置に対し唯一抗議行動らしい行動をしたのはラフマニノフだけでした。彼の人気は当時ウナギ登りでしたが、モスクワに縁の深い組合からの出演要請にわざと厳つい渋面を作って断りの態度をあらわにしたりしました。1907年、ラフマニノフはコンテストでスクリャービンの「法悦の詩」を抑え優勝を勝ち取った傑作、交響曲第2番を、さっそく師タネーエフに献呈しています。(14)対照的に、ペテルブルクではリムスキー=コルサコフ解雇にあたって弟子のグラズノフやリャドフが強烈に抗議し共に辞職、音楽院は半年間閉鎖される、というほどに騒ぎが拡大しました。(18)

血の日曜日事件に端を発した革命騒ぎは、ポーツマス条約の締結によって日露戦争に決着を付けペテルブルクに戻ってきたヴィッテが皇帝ニコライ2世に提言した「選挙に基づく立法議会の開設」・「人民の基本的公民権の認知」を骨子とした『十月詔書』の発布により、一応の収拾を見ることになりました。ニコライ2世は当初、軍事独裁と立憲制の二者択一迫られた時、軍事独裁を選択しようとし、親族ニコライ大公が「それならこの場で自殺する」とピストルをとり出して脅かしをかけたことで、しぶしぶ立憲制を選んだとのことです。この皇帝の心理が、1906年にストルイピンを首相に起用し、再び恐怖政治に走らせ、自らの首を絞めていく結果に繋がっていくのです。(26)それはそれとして、ペテルブルク音楽院も、グラズノフが院長就任を受けることで閉鎖という事態から脱却し、再び活動をはじめることになりました。1905年という年は、グラズノフに私的にも事件がありました。グラズノフ性病説を上げたあと、「彼は一度も結婚せず、生涯を母親とともに送った。」(17,P334)とあるのが『ショスタコーヴィチの証言』の怪しいところで、同書のなかでのショスタコーヴィチはグラズノフの家にしょっちゅう出入りしていた、というのですからなおさらこの本はおかしい、というのが、この年の事件で判明します。ショスタコーヴィチは1906年生まれ、グラズノフの弟子になったのは1919年であることを、念頭に置いて下さい。

1905年にグラズノフに起こった事件とは、彼に娘が出来たことです。いつからかは分かりませんが、グラズノフはオルガ・ニコラエーヴナ・ガヴリロフという23歳年下の女性と同棲していました。そのオルガが出産したのです。娘はエレーナと名付けられました。グラズノフとオルガはその後もしばらく結婚を隠していましたが、1922年、プスコフ教会で正式に式を挙げ、28年から始まる海外逃避行は妻、娘と3人連れでした。

1906年の第8交響曲のあと、08年にはベートーヴェンの「運命の動機」をパクった「運命の歌」(といっても人声による歌は入っていない)作品84を作曲(68)、同年には、06年に亡くなったサフォーノフとこの年逝去したばかりのリムスキー=コルサコフを偲んで作った2つのプレリュード作品85(68)を発表しました。その上で1910年に第9番目の交響曲に取りかかりましたが、第1楽章をスケッチしただけで作曲をやめ、二度と再開することはありませんでした。(60)
「第九は人生最後の交響曲になる」
という、ブルックナーやマーラーの間で流行ったジンクスを担いでやめた、ということになっています。
恩人の相次ぐ死、5歳になったばかりの娘の行く末の為にも生きたい、という欲求がそうさせた、ということもあるかもしれません。そうでなくても、彼自身、周囲の音楽が変わり始め、もはや自分の様式ではついていけないのではないか、という諦めにも似た心情が、これ以上の交響曲作曲を空しく思わせたとも思えます。
このスケッチはグラズノフはロシアを出る1928年、リムスキー=コルサコフの女婿シテインベルクに預けられ、死後の1948年、ユーディンという人物によってオーケストレーションされました。
第8までの完成された交響曲は、悲しい旋律でも絶対に悲劇は保たれない、どこか幸せな感情をを残して終わる、という特徴をもっています。一番悲劇的に始まる第6も、第1楽章でさえ「悲劇」を保ちきれない・・・それが心優しいグラズノフの作曲姿勢であり、反面、交響曲のドラマとしての魅力のなさにも繋がってしまっていました。
それが、たった1楽章残された第9交響曲は、徹頭徹尾悲劇的です。世間の悲惨な姿が、彼の内面に大きな変化をもたらし、子供の誕生と成長が、精神に転機をもたらしたのでは、と私には思えてなりません。

ロシア革命の1917年までに作られた2つのピアノ協奏曲も、以前の楽天的な雰囲気から遠ざかっています。形式面でも、過去の作品で採ってきた古典様式を離れました。(56)
これらふたつ・・・曲想の非楽天化と形式の自由化、がこの時期以降の彼の作品に見られる特徴的な傾向となっていきます。ピアノ協奏曲第1番ヘ短調の第2楽章はテーマと9つの変奏から成り立っており、第6演奏までが緩徐楽章の、第7変奏以降がフィナーレの役割を果たしています。ピアノ協奏曲第2番は、3楽章編成ながら、リストの第2ピアノ協奏曲に倣って、連続的な、テンポやムードが絶えず流動する作品となっています(12)。

第1次世界大戦勃発の前年にあたる1913年、グラズノフは初めて劇音楽を作曲しました。詩人ロマノフがイエス・キリストのユダヤ入城、ピラトの兵卒に茨の冠をかぶらされて「ユダヤの王」とあざけられたエピソード(「マタイ福音書第27章、マルコ福音書第15章、ルカ福音書第23章、ヨハネ福音書第18・19章)に取材して創作した4幕の劇に、導入曲と付随音楽10曲(うち合唱を伴うもの5曲)を付けたのです。(55)
この「ユダヤの王」作品95は、ギリシャ正教の合唱の雰囲気をそのまま活かした厳粛な雰囲気を徹底して持っている点、同じ作曲者が11年前に作った組曲「中世より」作品79(第2曲に「怒りの日」が現れる以外、中世らしい曲想、色彩は全くない)と比較すると、創作の精神に大きな変化がもたらされていることをひしひしと感じさせてくれます。

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グラズノフ略伝6)前衛と伝統・流浪・死

123456附(資料一覧)

1916年、ロシア帝室を牛耳っていた怪僧ラスプーチンが暗殺され、17年の2月革命でニコライ2世が退位、弟のミハイル大公が譲位を拒否したため、ここに帝政ロシアは崩壊しました。以後、革命運動は盛り上がる一方でしたが、食糧事情をはじめとしてロシア経済は停滞し、金銭的にひっ迫する市民も増加するばかりでした。

この頃のペテルブルク音楽院院長グラズノフの逸話は、彼の暖かい人間性を語っています。指揮者ムラヴィンスキー(1923年音楽院入学)は、最後の来日公演でグラズノフの第5交響曲を演奏するにあたり、日本人スタッフに
「グラズノフは、とても優しい人でした。大きな体をして、いつもにこにこしていた人です。そして、家庭が貧しくて、充分な教育が受けられない子どもなどがいると、そういう子どもの世話などを本当によく見ていました。そのグラズノフに、私は、どれだけ勇気づけられたか分かりません」
と語ったそうです。(53、西岡昌紀氏記事。同志の著書「ムラヴィンスキー 楽屋の素顔」リヴェルタ出版刊 にも記載)
1915年、12歳のナタン・ミルシュテインがグラズノフのヴァイオリン協奏曲を作曲者本人の指揮で弾いた時、リハーサルで曲の出だしをいくらか自己流に弾いたので、グラズノフがナタンに語りかけました。「私の書いたとおりに弾くのはいやかい?」リハーサルが終わると、今度はナタンにこういいました。「とにかく、君の好きなように弾きなさい。」(15)

この、心優しいグラズノフから最大の恩を受けたのは、ショスタコーヴィチです。
1919年、ピアニスト兼指揮者のシロティという人物に「音楽的才能がない」と診断されたショスタコーヴィチは、それを可哀想に思った両親がグラズノフに何とか引き合わせたことで道が開けたのです。ショスタコーヴィチに面接し、自作を弾かせたグラズノフは、シロティとは全く逆に13歳の彼の才能を「モーツァルトにも引けを取らない」と絶賛し、音楽院に入学させてくれました。ショスタコーヴィチ家は物資にも事欠いていましたが、グラズノフの経済的援助で、本人は音楽の勉強に専心することさえ出来ました。ショスタコーヴィチの作曲の師は、リムスキー=コルサコフの女婿、シテインベルクでした。この人は、コルサコフに才能を見込まれ、望まれて娘の婿になった人です。作風はしかし、義父に比べると穏健かも知れません。(85,86)
彼の指導のもと、ショスタコーヴィチは1925年、交響曲第1番を作曲しました。最初の2楽章には満足してくれたものの、シテインベルクは第3楽章、終楽章が気に入らず、特に終楽章については「テンポの面で演奏不能」とまで言い、それまでも良好とはいいかねた師弟関係に、表面的には現れなかったものの、これがもとでいっそう大きなひびが入ってしまったようです。師の懸念にも関わらず、翌26年、ショスタコーヴィチは交響曲第1番の初演にこぎつけ、大成功をおさめます。20歳の彼の成功を、グラズノフは16歳の時の自分の成功した姿に重ね合わせて見ていたといわれています。(16,79)

ただ、ショスタコーヴィチの作風は、この時早くも、グラズノフやシテインベルクの保守的なロマン派風の表現から外れ始めていました。「ショスタコーヴィチの証言」では、そのことがグラズノフには不満だった、といったようなことが書かれていますが、これは確かめる資料が他に見当たりません。
プロコフィエフ、となると、こちらはもう、その音楽をグラズノフが非常に毛嫌いしていたことがいろいろな記事に出ています。これも「ショスタコーヴィチの証言」に、グラズノフがプロコフィエフの「スキタイ組曲」演奏中、席を立って会場から出ていってしまった、という話が少々戯画的に誇張されて語られています。
いずれにせよ、前後のグラズノフ自身の作風から見て、革命以後急速に流行し出した「前衛的音楽」を彼が認めていなかったことは確かではないかと考えられます。のちに「ロシア・アバンギャルド」と名付けられ、大きな文化的トピックとして学者たちに扱われるようになる一連の芸術活動の、音楽面で筆頭に挙げられる名前は「プロコフィエフ」であり、彼にひそかに心酔していたショスタコーヴィチも、アバンギャルドの代表的詩人マヤコフスキーや演出家メイエルホリドと交流を深め、単一楽章形式の交響曲第2番・第3番では革命に熱狂する民衆を讃美する過激な表現を行なうに至ったのです。
狂っていくかに見える祖国の文化活動に愛想をつかし、政治的にも経済的にも有利な立場を追われつつあった芸術家たちは、20年ごろから西欧やアメリカに亡命し始めます。それが伝統派に限らないところが、面白いところです。音楽家では、ラフマニノフは早くも17年末にロシアを離れました。ラフマニノフを尊敬していたメートネルは21年にベルリンへ向け出国、パリを経て、最後はアメリカに移住しました。肝心のアバンギャルドの旗手と見られていたプロコフィエフも、18年には亡命しています。ストラヴィンスキーは、もともとフランスに本拠を置くロシアバレエ団と共に活動しており、故国に戻らなかっただけです。

幸いにして(?)、17年革命の前に亡くなった作曲家の代表は、まず、グラズノフの兄弟子リャドフ(1855〜1914)。大作こそなく、管弦楽作品は全て集めてもCD1枚に入ってしまう(交響詩3曲、8曲の民謡集1、小品8曲。演奏時間最長10分程度)ほどですが、民話に素材を求めた愛らしさはグラズノフにはないウィットに満ちています。日本では聴く機会が少ないのが残念です。(84)
また、生きていればアヴァンギャルドの教祖的存在になったであろうスクリャービン(1875〜1915)。鍵盤を押すと虹の七色がスクリーンに投射される<色光ピアノ>なるものまで作成し、この光に舞踊・香りも添えて二千人もの参加者によって演奏される『神秘』を企画しましたが、完成を果たせず唇のガンでなくなりました。

ソヴィエト連邦でしたたかに生き残ったのは、リャドフの弟子、ミャスコフスキー。生前は連邦の作品の出版国営化を任され、交響曲全27曲を作曲して(87)盛んに演奏されたそうですが、今はほとんど忘れられた存在になっています(1881〜1950)。門下にハチャトリアンやカバレフスキーがいます。

グラズノフは、というと、1928年まで、祖国に留まりました。自分の生徒たちを守るのに、必死だったのでしょうか。第2次世界大戦のドイツの行為で影が薄くなってしまっていますが、ヨーロッパ各国はもともとユダヤ人を通常の自国民とは差別する習慣が根強くあり、革命の前と後とを問わず、この点ロシアも共通でした。ミルシュテインの回想に、彼がユダヤ人であったゆえに、警察に問題視された際の事件が語られています。ミルシュテインは音楽院の生徒であったため、本来ユダヤ人に課せられる制限から自由であるはずなのに、警察が執拗に目をつけていたらしいことが読み取れますが、困り切ったミルシュテインを救ってくれたのがグラズノフでした。時の内務副大臣に電話一本で掛けあい、今後ミルシュテイン一家が安心できるよう取り計らってくれたのです。(15)
これは特別な例かも知れませんが、グラズノフは自分の地位を活かし、影に日なたに、彼の周囲の人たちを守ろうと必死に働いていたのではないかと思います。そんなグラズノフも、とうとう疲れたのでしょう、ロシアを永遠に離れる日を迎えます。
1920年代は、ロシアと西欧の行き来はまだ比較的自由でした。27年ごろからスターリンが大きく台頭してくると、しかし、その自由が急速に失われていき、34年に彼が完全に政権を掌握すると、交流はほとんど困難になりました。国内でも27年までに富裕な農民は次々と財産を没収され、工業労働者は無理な生産計画にのっとって過剰な労働を強いられるようになっていました。それまで「理想」に燃えた新機軸による活動をしてきた、革命の最も熱烈な支持者であるはずのアヴァンギャルド芸術家たちへの締めつけも、急速に強まりました。大ざっぱな言い方ですみませんが、政府は政府の規定する「模範的な芸術理念」にそった創作・表現活動を行なうことを芸術家たちに強制し出し、そこから外れるものは批判し、場合によっては粛清する、という強硬な態度に出始めたのです。詩人マヤコフスキーは30年にピストル自殺(偽装であって実は殺された、との説もあります)、メイエルホリドの劇場も36年に強制閉鎖され、40年にはメイエルホリド自身逮捕されてゆくえが分からなくなります(のちに、銃殺に書せられていたことが判明)。
ショスタコーヴィチの様々な受難については、彼の伝記をご覧下さい。

犠牲が出だすのは30年代に入ってからですから、グラズノフの出国は危うい、絶妙なタイミングでした。28年当時は、音楽界を含め、芸術界はまだ決して先行きに不安感を抱いていた訳ではありません。しかし、何かが、グラズノフに「もう限界だ」とささやきかけたのでしょう。ウィーンで行われるシューベルト没後百年記念コンクールに審査員として招かれたグラズノフは、6月15日、妻と娘を連れ、ロシアを出国しました。亡命する気まではなかった、とも言われていますが、そうだとすると以後の活動ぶりについて説明がつきません。(24)そのままプラハ、ワイマール、バルセロナ、マドリード、と2年間にわたって各地で自作中心に管弦楽を指揮して回り、1930年、パリに仮の住まいを定めました。(24,101)
パリを拠点に1932年まで、グラズノフはイギリスやアメリカで指揮活動を行いましたが、最後の4年間は健康を害し、病床に伏していたとのことです。(病名は調べきれませんでした)。
死を前にしたグラズノフについて、あと2つだけ、謎(というほどではないかもしれませんが)があります。
ひとつは、「指揮ベタ」疑惑。もう一つは、「アル中」疑惑です。
最初の「指揮ベタ」疑惑から。
まだロシア国内で活動している時のことです。ラフマニノフの交響曲第1番初演を巡っての事件は5節目に記したとおりですが、シャリアピンとの間にも次のようなエピソードがあります。グラズノフの指揮でシャリアピンが「ボリス・ゴドゥノフ」を歌っている時のこと、歌手のテンションアップに一行構わずテンポを上げようとしない指揮者に、シャリアピンはとうとう我慢できず、低い声でこう唸ったそうです。「サーシャ、もっと速くしろ!」ミルシュテインと大の仲良しだったホロヴィッツも、グラズノフの指揮でラフマニノフの協奏曲第3番を弾いていた時、緩慢さに耐えられず、どんどん勝手にテンポアップした、ということです。(15)
こんな具合で、人柄そのままに、人のペースに関係なく、およそのんびりした振り方ばかりしていたグラズノフが、西欧移住後、どの程度の評判を勝ち得ていたものか・・・残念なことに、評論の類いを見つけることが出来ませんでした。

パリ移住後も変わらなかったのんびりぶりは、同じミルシュテインの回想の中に、ラフマニノフが31年に行なったリサイタルの際の思い出として出てきます。このリサイタルで、ラフマニノフはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」のプレリュードを自ら編曲し(78)、演奏したのですが、ミルシュテインにその批評をしてくれるよう頼んでいました。演奏直後、ミルシュテインは度胸を決め、ある個所についてバッハらしくない響きがした、とラフマニノフに告げに行き、演奏後の興奮さめやらぬラフマニノフに雷を落とされ、しょんぼりともどりました。その後はラフマニノフと顔を合せるのも恐ろしく、それでもラフマニノフ夫人の依頼でリサイタルのあとのパーティーにこわごわ出席しました。パーティーの席上、ミルシュテインが心配していたとおり、ラフマニノフは同席していたグラズノフに、ミルシュテインがこう批評してくれたけれどどう思うかね、という問いを発しました。「見たところ、グラズノフは演奏会の間そんなに厳密には聴いていないようだった。というよりグラズノフはこれまでもそのような聴き方はしていなかった。」(15)

こんなグラズノフが、1930年に「チェロ独奏と管弦楽のためのコンチェルト・バラータ」作品108をカザルスに献呈しています(64)。ソロを受け持ったであろうカザルスが、演奏会でグラズノフの指揮をどう感じたか、発言をやはり私は見いだせませんでした・・・

難しいのは、「アル中疑惑」です。
ラフマニノフの交響曲第1番初演が大失敗に終わった時、彼は妻に「グラズノフは酔っぱらっていたのよ」と慰められた、という話が、私の買ったCDの英語解説に出ていましたが、この時ラフマニノフはまだ結婚していないので、話は事実ではありません。しかし、グラズノフの酒好きぶりは、割合早い頃から評判になっていたのかも知れません。
例によって「ショスタコーヴィチの証言」には、グラズノフが音楽院で生徒に授業をしている間も隠れて酒を飲んでいた、というゴシップが載っています。しかも、その酒はショスタコーヴィチの父から貰っていた、というのです。(ショスタコーヴィチの父は22年に亡くなっています。仮にグラズノフにお酒を届け得たとしても、3年間だけだったことになります。)
「グラズノフは単に酒を飲むのが好きだったのではなく、絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられていたのだ。/このような不幸な体質をもっている人もいるものである。」(17)
グラズノフと同じデブである私は、デブが「絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられ」ることをとてもよく理解できます。大人ですから我慢できますが、息子はそれこそいつも水分の採り過ぎで・・・こんな文句に出会うと「余計なお世話ヤ!」と、つい怒鳴りたくなります。・・・失礼しました。実際に授業中にグラズノフが飲んでいたのは、コロン水だ、という話もあります。(18)
いちおう、こっちの方が正しいのではないか、と私は思っています。アルコールばかり取っていては、いっそう咽喉が渇きますから。
ただ、グラズノフの酒好き、簡単に酔っぱらうさまは真実で、ミルシュテインのアンコールの伴奏をベロンベロンに酔っぱらって引き受けた様子や(15,p73)、たったワイン2,3杯ですっかり陽気になり、それでも言葉を選びながら、チャイコフスキーの「悲愴」初演の時の印象を語ったということ(15、p89)が、暖かく回想されています。
一般に、この頃の音楽家は酒を飲むのが非常な楽しみだったようで、ラフマニノフにも寝酒の習慣がありました(14)。
カザルスはサラサーテに会った時、彼からすすめられたブランデーを断ると、彼に
「なんだって? 君は芸術家志望だったね、それでも酒をやらない? うん、そりゃあ、どだい無理な話だよ」
と言われたそうです(19)。
グラズノフの酒好きは、以上から見ると、別に彼だけとりたてて騒がれなければならないような汚点ではないと感じられます。
気になるのは、H.G.ウェルズが書いている「自叙伝の試み」に、ウェルズがグラズノフとあった時、「彼はかなり酔っていたふうだった、アルコール中毒に見えた」と書いてあるとかないとかいう話が「2ちゃんねる」の掲示板に載っていたことです。で、必死でウェルズのその本を探しましたが、見つけるだけの時間がありませんでした(手がかりがありそうだったら教えて下さい。翻訳は出ていない模様です)。ウェルズと面会したグラズノフが、ウェルズにロシア情勢についてあれこれ情報をねだった、という、その時の話らしく、それが祖国を離れた寂しさに由来するものだったとしたら、アルコール中毒になっていても無理もない話として許されるだろう、とは思います。ただ、グラズノフの死因が突き止められなかっただけに、この話が彼の死と何らかの接点を持っているのではないか、と思うと、どうしても本当のところが知りたく思われます。

彼の最後から2,3番目の作品は、いずれもサックスの為のものです。作品番号はいずれも109、と、重複しており、何らかの錯誤があるようです。ひとつは、サクソフォン四重奏曲。パリで活動していたミュールという演奏者のサックスアンサンブルがアレンジものばかりをレパートリーにしているのを残念がり、このアンサンブルにオリジナル作品を提供する意図から作曲されました。第2楽章の変奏曲が、緩徐楽章から推移してそのままスケルツォになる、という、ピアノ協奏曲以降の自由な形式感覚で作られています。(57)
もう一つは、弦楽オーケストラを伴奏にしたアルトサクソフォン協奏曲(65)。20分ほどの単一楽章形式の曲ですが、グラズノフらしい明るい楽想の中にも、独奏楽器の音色がもたらす寂寞感が漂い、作曲者の命がだんだんに透き通って来た様子が見えるようです。一番最後の作品はオルガン用の幻想曲(未見)で、1935年作、と作品表には出ています(101,103)。作品番号は110です。

1933年に病床に伏してからのグラズノフについての具体的な記述が一切見いだせなかったのが、私の最大の心残りです。

1936年3月21日、グラズノフはパリで亡くなりました。71歳まであと5ヶ月でした。遺骨は1972年になってようやく、故郷ペテルブルク(当時はレニングラード)に帰ることが出来ました。娘のエレーナは、その後ピアニストになりました。(101)

ラフマニノフの伝記には、ラフマニノフの死の場面に、
「忘れられたものだけが死んだのだ」
という言葉を配しています。しかし、ラフマニノフは、名曲「ピアノ協奏曲第2番」ひとつしか知らない人の記憶にもその名は生き残っています。

グラズノフについては、どうでしょうか。。。いまのところ彼は、忘れられたに等しい存在であることは否定できないでしょう。

しかし、どうぞ、いちど彼の「ヴァイオリン協奏曲」をお聴きになってみて下さい。

彼もまた、<心の宝石>を私たち後代に生きるもののために残してくれた、大切な人だったことが、きっとお感じ頂けるものと思います。

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グラズノフ略伝(管弦楽作品を中心に)付:<資料一覧>

123456附(資料一覧)

伝記を追うには不十分・不完全な「2次的資料」ばかりで、とくに書籍が少なく申し訳ありません。
現在では入手できないものもあるかも知れません。

辞事典:
1.「標準音楽辞典」音楽之友社 昭和46年版〜グラズノフの記事は少ない
2.「音楽大辞典」平凡社〜1よりなおグラズノフの記事は短かった!
3.「図解音楽事典」白水社(U.ミヒェルス編 日本語版監修:角倉一郎)1989年。伝記的なことには、どんな作曲家についてもあまり触れていない。(グローヴの日本語版は無くなるのですが、置き場所が無く、買い損ねました。返す返す残念!)

書 籍:
11.作曲家◎人と作品シリーズ「リスト」 福田弥   音楽之友社 2005
12.「リスト ヴィルトゥオーゾの冒険」 ケレヴィッチ  春秋社 2001
13.「チャイコフスキー その作品と生涯」 クーニン  新読書社 2002(原書1958)
14.「伝記 ラフマニノフ」ニコライ・バジャーノフ  音楽之友社 2003
15.「ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録」ヴォルコフ 春秋社 2000
16.「ショスタコーヴィチ ある生涯」 ファーイ アルファベータ 2002
17.「ショスタコーヴィチの証言」 ヴォルコフ     中公文庫 1986
※この本がヴォルコフによる捏造である、という議論http://www.geocities.com/rickredrick/Testimony.html参照(英文)。
18.「革命と音楽 ロシア・ソヴィエト音楽文化史」伊藤恵子 音友 2002
19.「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」 カーン編   朝日選書 1991
20.「ロシア近現代史」藤本和貴夫/松原広志編著  ネルヴァ書房 1999
21.「ロシア文学案内」藤沼・小野・安岡著 岩波文庫 2000
22.「ロシア・アバンギャルド」亀山郁男著  岩波新書 1996
23.「評伝 エヴゲニー・ムラヴィンスキー」フォーミン   音友 1998
24.「名曲解説全集」9(協奏曲II)音楽之友社 1982全集全体で、グラズノフの作品は7,8曲しかとりあげられていない
25.「バレエへの招待」鈴木晶 筑摩書房 2002
※「バレエ」って、理解するのが私には難しいんです。特に、男性バレリーナのレオタード姿が・・・で、読みました。
26.「ロシア皇帝歴代誌」ウォーンズ 創元社 2001C 

CD等:グラズノフの作品
(ドイツ語ウェブサイトには192作品が掲載されています。うち劇音楽・管弦楽・協奏的作品が約80あります。その、およそ2分の1を店頭で発見できました。予想より多い数だった、といっていいかも知れません。パンフレットは、でもあまり伝記的資料を提供してくれませんでした。なお、ナクソス盤はグラズノフ管弦楽曲全集と称して17枚のCDを発行しており、52曲を収録しています。廉価に揃えるにはいちばんいい手段でしょうが、ネット販売でないと揃えられないでしょうネ。)
51.交響的絵画「クレムリン」作品30、交響詩「ステンカ・ラージン」作品13、バラード作品78、祝典行進曲作品50ニュルンベルク交響楽団(フロイデンタール/ナイトリンガー指揮)輸入盤 COLOSSEUM CLASSICS COL9028.2 2003
52.管弦楽のための組曲「中世より」作品79、「叙情的な詩」作品12、管弦楽のための幻想曲「森」作品19、ボロディン「イーゴリ公」序曲(グラズノフ補作[或いは創作?])ニュルンベルク交響楽団(デアーキ/フロイデンタール指揮)輸入盤 COLOSSEUM CLASSICS COL9032.2 2004
53.交響曲第5番作品55、チャイコフスキー「眠れる森の美女」からムラヴィンスキー/レニングラード・フィル 日本公演(1979年実況)国内盤 キングインターナショナル ALT064 2003
54.バレエ音楽「四季」作品67、演奏会用ワルツ1・2(作品47・51)スヴェトラーノフ/フィルハーモニア管 1977年録音国内盤 EMI CLASSICS TOCE-3427
55.(劇音楽)「ユダヤの王」作品95ロジェストヴェンスキー/ロシア国立合唱団/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9467 1996
56.ピアノ協奏曲第1番作品92、ピアノ協奏曲第2番作品100併集:ゲディッケ 協奏的断章作品11クーンブス(Pf)/ブラビンス(指揮)/BBC Scottish Orchestra輸入盤 Hyperion CDA66877 1996
57.サクソフォーン四重奏曲作品109(その他ロシア作曲家の作品併集)輸入盤 Challenge Classics CC 72039 1994
58.交響曲第1番作品5、ヴァイオリン協奏曲作品82クラスコ(Vn)/ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9751                  1999
59.交響曲第2番作品16、第7番作品77Anissimov/Moscow Symphony Orch. NAXOS 8.553769 1996
60.交響曲第3番作品33、第9番Anissimov/Moscow Symphony Orch. NAXOS 8.554253 1997
61.交響曲第4番作品48・第5番作品55ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9739 1999
62.交響曲第6番作品58、「ライモンダ」組曲作品57aブット/ロンドン交響楽団・ロイヤルフィル輸入盤 ASV CD DCA 904 1987/90
63.交響曲第8番作品83、祝典序曲作品73,結婚行進曲作品21ネーメ・ヤルヴィ/バイエルン放送交響楽団輸入盤 ORFEO C 093 201 A 1984
64.Concerto Ballata for Cello & Orch.Op.108、Chant du menstrel Op.71Two Pieces for Cello & Orch.Op20、A La Memoire Op.87 & Op.8 1996Golovschin/Moscow Symphony Orch./A.Rudin(Cello) NAXOS 8.553932
65.Concerto for Alto Saxophpne and Strings Op.109 etc.(Debussy他)Brabbins/Philharmonia Orch./T.Kerkezos(Sax) NAXOS 8.557063 2002
66.(DVD)ボリショイ・バレエ「ライモンダ」作品57国内盤 Pioneer PIBC-1048 収録1989
67.幻想曲「海」作品28、オリエンタル狂詩曲作品29 他ゴロフスチン/モスクワ交響楽団 NAXOS 8.553512 1996
68.性格的組曲作品84、運命の歌作品84、2つの前奏曲作品85ゴロフスチン/モスクワ交響楽団 NAXOS 8.553857 1996

CD等:他作曲家等の参考作品(伝記的に関係の深いものを中心に)
71."Kalinka" Russian Folk Songs Schwarzmeer Kosakenchor 輸入盤2枚組Brilliant 92341(ロシア民謡集。2枚で990円なので試し買いしました。正体不明。)
72.Liszt "Eine Fausut Symphonie" Sinopoli/Staatskappelle Dresden輸入盤 Deutsh Gramophon(UNIVERSAL) 476 219-5 1996
73.Liszt PianoConcerto No.2 etc. Ferencsik他輸入盤5枚組 Capriccio 49 950 発売2005
74.Balakirev Symphonies 1 & 2, "Russia", "Tamara"Svetlanov/The Philharmonia Hyperion CDD22030(2枚組) 1991
75.リムスキー=コルサコフ 交響曲第1・2・3番、「サトコ」、「貴族たちの行進」・序曲「プスコフの娘」・序曲「皇帝の花嫁」・「サルタン皇帝の物語」から3つの奇跡国内盤2枚組 スヴェトラーノフ/ロシア国立交響楽団 RCA 1993
76.Prokofiev "Scythian Syite Op.20" etc.輸入盤2枚組 VENESHA(?)MOCKBA CDVE03224 発売2005
77.Rachmaninov Symphony no.1 Op.13 etc.(交響曲全集)プレヴィン/ロンドン交響楽団 収録1973〜76輸入盤3枚組 EMI CLASSICS CMS 7 64530 2
78.「ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ」(1925〜1942)国内盤RCA BVCC-5116※他に4曲のピアノ協奏曲の自作自演CDも、まだ出ています。国内盤 RCA 1・4番はBVCC-5114、2・3番はBVCC-5115
79.ショスタコーヴィチ交響曲全集 コンドラシン/モスクワフィル AULOS(交響曲第1番は1972年録音
80.(DVD)ボロディン「イーゴリ公(映画版)」 1969(演技者と歌手は別)ニホンモニター(株)ドリームライフ事業部
81.ボロディン:交響曲第2番(クライバー親子の演奏対比)  1947/1972輸入盤 hanssler CLASSIC CD93.116
82.ボロディン:交響曲・管弦楽作品集 グラモフォンPOCG-1642/3(2枚組)ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 1989
83.タネーエフ:交響曲第2番・第4番 CHANDOS CHAN 9998ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団 2001
84. Russian Fairy Tales(リャドフの全管弦楽曲、他ロシア管弦楽の有名曲Shpyller/Krasnoyrsk Symphony Orchestra(LIADOV's Works) DDD 2001
85.シテインベルク:交響曲第1番 他2作 グラモフォンUCCG-1032ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 1997
86.シテインベルク:交響曲第2番、管弦楽のための変奏曲ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 グラモフォンUCCG-1062 1998
87.ミャスコフスキー:交響曲第6番(1923年) グラモフォンUCCG-11116ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団  1998※ 最近、全集が4万2千円くらいで出ているのを見かけました・・・
88.(DVD)チャイコフスキー:3大バレエ  ジェネオンGNBC-4027ボリショイ・バレエ 収録1989

ついでに、ロシア19世紀末〜20世紀初頭音楽のCD情報のおまけを。
ラフマニノフと親交の深かったメートネルのピアノ作品(DENON)も国内盤で出ました。メジェーエワという可愛いピアニストが1998年に日本(岩井市)で録音したものです(メートネルについては書籍14・15参照)。
「5人組」最弱(!)の作曲家兼最悪(!)の批評家キュイの曲もナクソスに録音があるのを見かけました。買わないうちに見失いました。
プロコフィエフやスクリャービンの交響曲全集や、後者のピアノソナタ全曲盤は、輸入盤の方が安いものがあります。スクリャービンを「知りたい」のだったら「ピアノソナタを全部聴けばいい」そうです。11曲ありますが、ベートーヴェンとは違い、CD2枚に全部収まる長さです。・・・でも、いつも寝てしまって、私はちゃんと聴いていません。(CDは寝る前しか聴けません!)
チャイコフスキーの第1番以外のピアノ協奏曲の録音を探すのは面倒でした!EMI 7243 5 85540 4 という番号でバルシャイ指揮のものがありました。
音楽面でアバンギャルドの象徴となったモソロフ「鉄工場」はスヴェトラーノフの指揮で出ているのを見かけましたが、聴き損ねました。
輸入盤でロシア・アバンギャルドの作品集成がTELDECから3枚組で出ていて、かつてショスタコーヴィチに強く興味を惹かれた時期に買いましたが、ちょっと聴いただけでお蔵に入れてあります。ロシアものではないですけれど。
リストについては、オラトリオ「キリスト」が韓国盤で出ています。スヴェトラーノフ指揮で、DVDと間違うようなケース入りです。

ウェブ:
101.http://www.glasunow.org/
(グラズノフの一人娘、エレーナの関係者たちにより作られており、信頼度高し)
102.http://www.eonet.ne.jp/~hide160/music_50.html
(日本のグラズノフ好きの人が作ったサイトですが、グラズノフの伝記については深くお調べではないようです。)
103.http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/index.html
(梅沢敬一さんが作成した、様々な作曲家の作品表。グラズノフもあります。)

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2007年3月14日 (水)

グリーク:ピアノ協奏曲読解の参考

・・・なんて、建前だけは立派そうですが、
1)ショスタコーヴィチは実は終楽章が最も読解が難しいので悩んでいる
2)グリークのピアノ協奏曲は25歳という早い時期の作品で、どう読むかに悩む
の2点があり、どうせだから後者の事前準備を、と思った次第です。

悩みの種は、グリークの他の有名な管弦楽作品が、協奏曲に比べると、彼が作曲家としてもっと熟練度を増してからのものである事です。
列挙しますと、

十字軍の兵士シグール(シグルド)〜1865年(3曲にまとめたものの作品番号は56だが)
ペール・ギュント 〜1872年(第1組曲は作品46、第2組曲は作品55)
2つの悲しき旋律 作品33〜1880年
ノルウェー舞曲 作品35〜1881年
叙情組曲 作品54〜ピアノ作品<叙情小曲集>第5集(1881年)の管弦楽編曲
ホルベアの時代から 作品40〜1884年
変奏曲を伴う古いノルウェーのロマンス 作品51〜1891年
交響的舞曲集 作品64〜1898年
2つの叙情的小品 作品68〜1898年

といったところです(作品33、作品40、作品51、作品54、作品68はドーヴァー版で1冊にまとまったスコアが出ています)。
したがって、読解上オーケストレーション上で参考になるのはせいぜい「十字軍の兵士シグール」と「ペールギュント」だけ、ということになります。
が、お聴きになってすぐお感じになる通り、「ペール・ギュント」とピアノ協奏曲ではオーケストレーションにあたってのグリークの方針は全く異なっているとしか考えられません。
ピアノ作品で協奏曲と最も年代が近いのは「叙情小曲集第1集」作品12で、協奏曲全体の音楽を読み取る際には、むしろこちらを参考にすべきでしょう。全音の「グリーク名曲集」(全2巻)ではこの集の曲は第1巻の方に記載されています。ただし、原集の順番通りではありませんので、ご留意下さい。

グリークのピアノ作品は今回もソリストをお願いするブローテンさんが全集録音をしているのですが、発行元倒産で現在は入手出来ないのが残念です。

ドビュッシーが残している評論では、グリークはあまり好意的に扱われていないのが面白いところです。
「前から見ると彼は天才的な写真家といった様子をしている。うしろからだと、紙ののばしかたが、<ひまわり>と呼ばれる、鸚鵡とか田舎の小駅をかざる庭とかにおなじみの植物に、彼を似通わせている。年にも関わらず敏捷で痩せており、神経質に細かく気をくばって管弦楽を指揮する。その指揮ぶりは落着きがなく、あらゆるニュアンスを強調し、つかれを知らない心づかいで感情の動きを配分する。」(平島訳「ドビュッシー音楽論集」岩波文庫)
あまりいい訳だとは思えませんが、原文が読めないので何ともいえません。
ここでドビュッシーに戯画化されたグリークは、当時60歳を目前にしていたはずです。
が、描かれた指揮姿は、熟年後の作品から伺われるグリーク像よりも、むしろピアノ協奏曲に似つかわしいような気がするのは・・・思い込みが強過ぎるでしょうかネ?

これだけです、スミマセン。

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2007年3月12日 (月)

管楽器のためのディヴェルティメント(1773)

1773年に書かれた「ディヴェルティメント」は3作品、それも管楽器(K.188はティンパニを含む)ものです。
この年、他に大きめなセレナーデ(アントレッター・セレナーデ)と幾つかのメヌエットを書いていますので、それらと一緒くたに「1773年の機会音楽」として扱ってしまっても良さそうなものですが、スコアおよびアルフレート・アインシュタインの記述を参照すると、そう言うわけにはいかないなあ、と思いましたので、独立で考察(なんて、大げさか!)します。

取り上げるのはK.186、K.166、K.188の3つのディヴェルティメントですが、アインシュタインの述べるところに従ってみても、またそれ抜きで楽器編成のみに着目しても、初めの2作とK.188は別の目的で書かれた事は明確です。

裏付け資料が手元に無いので、アインシュタインの言うところに全面的に従うと、まず、管楽器のためのこの種の作品は、野外音楽として書かれたという事になります。根拠は2点。
・入場・退場の行進曲を持たない
・当時は従僕からホルン奏者やファゴット奏者になる事の方が、ヴァイオリニストやチェリストになるより容易だった〜すなわち、管楽器奏者は「いつでもヴァイオリニストより原始的な音楽家である」
・・・管楽器演奏者の方、お怒りにならないで下さいね。これは当時の情勢を鑑みてアインシュタインが言った事です。まあ、残念ながら、今私にはそのまま受け入れるしかありません。
「われわれは、これら管楽器のためのディヴェルティメントを一つ一つ扱う必要は無い。それらは純粋に庭園音楽であり・・・気難しい案出も緊張も無い、形式の遊びである。」(アインシュタイン281頁、白水社)
ただし、続けてアインシュタインはこうも言っています。
「十八世紀の作曲家としてのモーツァルトを特徴づける作品があるとすれば、フランス革命の<失楽園>以前に書かれた、あらゆる意味で<無邪気な>これらの作品である。それは松明やランプの静かな灯に照らされた夏の夜の音楽である。近くで聴いても遠くで聴いてもよい。そして遠くから聴こえてくるのが最も美しい。」(同)

この記述の後、アインシュタインは『ドン=ジョヴァンニ』や『コシ・ファン・トゥッテ』劇中の、たとえば前者の中でテーブルミュージックとして演奏される「フィガロのアリア」の木管合奏を想起していますが、これはNMAの解説を参照すると、実に妥当な連想である事が分かります。
すなわち、K.166の第4楽章(アダージョ)は、K.166が作曲される直前のモーツァルト自身のオペラ「ルチオ・シッラ」のバレエ音楽の第30番を、またK.186の第5楽章(アレグロ)は同じオペラの同じバレエ音楽の第31番をアレンジしたものだ、とのことなのです。・・・もととなったはずのバレエ音楽の楽譜は、残念ながらオンライン化されたNMAにも楽譜が掲載されておらず、参照出来なかったために、私は確認がとれていません。もし音源ででも確認がとれれば、のちほどその旨を掲載したいと存じます。また、K.166第3楽章にはパイジェッロのオペラ「アネットとルヴィン」が引用されているとの指摘もあります。こちらも、パイジェッロの楽譜・音源は手軽に入手出来るものが限られており、確認をとっておりません。ただ、ナクソス盤でパイジェッロのピアノ協奏曲2曲(うち1曲はト短調)を収録したCDが出ており、彼が当時の流行作家であった事を裏付ける立派な作品だと知るにはいい材料ですので、機会があったらお耳になさってみて下さい。傾向としてはクリスチャン・バッハが似ています。

モーツァルトに話を戻します。
K.186は1773年3月の作であるらしく、K.166についても自筆譜に1773の年号が記されてます。『ルチオ・シルラ』との関連性を考慮するまでもなく、当時ザルツブルクの楽団では所収されていなかった事が明らかなクラリネットを用いている事からも、ミラノでの「最後の」作品群に含まれる事が明らかです。
編成もオーボエ2、イングリッシュホルン2、クラリネット2、ホルン2、ファゴット2、と同一であり、楽章の構成も如何に見るとおり、大変似ています。

K.186(変ロ長調)
i. Allegro assai 3/4 62bars
ii. Menuetto 24+16 bars
iii.Andante 2/4 24bars
iv.Adagio 6/8 24bars
v. Allegro 2/4 124bars

K.166(変ホ長調)
i. Allegro 4/4 107bars
ii. Menuetto 24+20 bars
iii.Andante grazioso 2/4 72bars
iv.Adagio 6/8 26bars
v. Allegro 2/4 107bars

いずれも全曲が一つの調で書かれています。また、上の表から、小規模な作品である事も分かります。聴いた印象も、アインシュタインの言う通り、極めて素朴です。

3つ目のディヴェルティメント、K.188は、小規模だという点では似ているものの、たしかにこれらとは全く違う傾向の作品です。編成がフルート2本にトランペット5本(!)、ティンパニ、と、こんにちの我々からすれば非常に珍しく感じられるものとなっています。この編成、日本にはラッパは無かったものの、笛と太鼓というあたりは明治維新期の「官軍」の軍楽を連想させませんか? アインシュタインの推測でも、K.188はザルツブルクの騎兵隊用音楽の仕事だとされています(調べた根拠があるのかも知れませんが、ドイツ語理解力の低い私にはNMAの解説からそこまで読み取れてはいません。)

作品はハ長調(全曲一貫・・・3月17日付記:これは誤りで、第3楽章のみト長調です。ランスロットさん、ありがとうございました)。
i. Andante(3/4, 40bars) - Allegro(2/4, 60bars)
ii. Menuetto 24 bars (トリオ無し)
iii.Andante 2/2 28bars
ii. Menuetto 20 bars (トリオ無し)
v. Gavotte 2/4 20bars

先の2作と比べて、また著しく小規模になっているのは、演奏された際の時間枠かなにかに関係があるのでしょうか?

以上、とくにK.188はモーツァルト作品としては極めて珍しい音色を持つので、音をご紹介したかったところですが、私の時間的理由から断念します。申し訳ございません。
小規模作品で編成も珍しいため、単独のCDは見つけにくいかと思います(私は見つけられませんでした)。
PHILIPS Complete Mozart Edition 3 "Divertimenti, Divertimenti・Serenades"
には収録されています。K.186とK.166はホリガー・アンサンブル、K.188はアカデミー室内楽団の演奏です。

楽譜は全集(NMA)では第17分冊に収録されてます。



モーツァルト?その人間と作品

Book
モーツァルト?その人間と作品

著者:アルフレート・アインシュタイン,浅井 真男

販売元:白水社

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2007年3月 7日 (水)

解読ショスタコーヴィチ第5-第3楽章

とりあえずの全体像はこちら
第1楽章についてはこちら
第2楽章についてはこちら

「むすび」


どうも、自分の今の「思い」に引き寄せた「解釈」とお受け止めになられてしまうきらいがあります。
現実問題として、精神状態からそのように採られて仕方の無い綴り方をしがちなのは否めません。
が、目的は「音楽の構成を理解して頂く事」
なので、私の思いに見える部分も、あくまで比喩としてご理解頂ければ幸いです。比喩を「解釈」として固定されてしまうと窮屈になりますが、言葉を使って表現しようとすると、やはり制約を感じざるを得ません。

第1楽章の説明が「屍を前にして」という事を前提にしたので、余計にいけなかったかな。絵も使ってしまったので、鮮烈過ぎたかしら。
・・・全体像では、そんな誤解がイヤだったので、敢えて別の比喩を使ったのですが、作曲時期の時代背景を考慮すると第1楽章で用いた比喩は私の今に関係なく「分かりやすい」と思っておりました。
この点、偽書ではありますけれども、ヴォルコフ「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)の記述をご参照下さい。
ヴォルコフの本書は気鋭の学者さんファーイの研究で偽書である事が証明された、というニュースもありますが、そうしたニュースを待つまでもなく、グラズノフに関する記述がショスタコーヴィチ本人なら知っていたはずの事実につき誤認されたものになっている事からも<ニセモノ>なのは明確です(グラズノフにはロシア在住中に設けた娘さんが一人ありましたが、「証言」ではグラズノフは結婚もせず子供もいなかった、といったふうに書かれています。亡命前のグラズノフの家庭事情はショスタコーヴィチはよく知っていたはずです)。それでもなお、ショスタコーヴィチの子息マキシムは、「『証言』は当時の雰囲気を良く反映している、と語っています。
さらに付言すれば、音楽が始まった瞬間から、音楽の中に「屍」はありません。もう1点は動機への命名の適切性に関わると思いますが、これは適宜各自で命名しなおして頂いて結構だと考えている事は、全体像の記事の中で述べた通りです。ただし、今回も、説明の一貫性を保つために、自分の命名をそのまま使用します。

前置きが長くなりました。

色のついたリンクは音が聴けます。
第3楽章概要は次の通りです。

冒頭部が(これも正統な分析では「非」となるでしょうが、この後に続く文脈を考慮すれば明らかに)第2の「拒絶」の動機の反転型を元としています。話はそこから始まります。
この楽章では、第1楽章冒頭の3つの動機がフル活用され、かつ、第1楽章の練習番号1の箇所を効果的に回想する事で、第4楽章で示される「解答」を周到に準備します。

なお、自宅スキャナ不調、職場のスキャナを使うゆとりが無かったので、スコア画像はケータイでとったものです。歪んでおります。汚い字が時々入っていますが、電車の中での書き込みですので一層判読しづらいかと存じます。ご容赦下さい。

(説明は順次加えます。)
から音楽が始まります。
冒頭部のスコアの、第3ヴァイオリンをご覧下さい。
200703082230000_1
2章小節〜5小節は「自問」の動機と「拒絶」の動機の融合したもので、この融合には1小節目の3拍が重要な役割を果たしています。命名したままの動機の性質を用いて文にすれば、
「拒絶したままでよいのか」
という、静かな反省の開始です。これが練習番号77に入ると第2ヴァイオリン主導で「拒絶」の動機がエスプレッシボかつクレッシェンドとディミヌエンドの短いサイクルの交替で「息づかい」をやや荒げますから、精神の基本はまだ「拒絶(直面の回避)」に留まっている事がはっきりします。

に至ると、「果たして、そのままでいいのか?」と、「自問」の動機が輪郭を明確にします。

から80にかけては、 の、第3楽章用に再現ですが、フルートで演奏されているのがひとつのミソです。フルートという楽器に、一般的にイメージされるのは、「思いの浄化」ですが、ここではまだ「思いの抽象化」を示していると受け止めるのが妥当かと思います。楽章の末尾に近い練習番号94で、この再現は再びなされますが、その際はヴァイオリンによって演奏されます。弦楽器は、オーケストラの中ではカンバスの地の色にあたりますから、抽象性が薄まる事になります。
練習番号79のスコアは次図の通り。
200703082231000

練習番号81から82は第3楽章の冒頭部を、静かなままに、ではなく、83以降の再々度の「自問」(これの「自問」が楽章の中でのターニングポイントとなります)へと昂揚させて行きます。

は、「直面」の動機の後半部を発展させたもので、もう目の前には無い事実に、心象として「直面」します。「心象」には実体的な生々しさがありませんので、いかに「直面」しようとも、像はさまざまに形を変えます。この「直面」が、まずオーボエでまず暖色系のイメージとして、次に(練習番号85)ではクラリネットで寒色系のイメージとして、最後(練習番号86)にフルートで透明度の高い・・・事実には最も遠い、結晶体としての透明度に限りなく近付いた色合いで、繰り返しなされます。ここにきて初めて、精神は「拒絶」する姿勢の非を自覚し始めると言えるでしょう。
練習番号84のスコアは次図の通り。
200703082231001

では、88冒頭の、クラリネットの低音による、非常に暗い「自問」によく耳を方向けて下さい。その暗さゆえ必然的に、「自問」は煩悶し、捻れ(練習番号88、次図参照)、切実な「直面」(練習番号90)に向かってクライマックスを築いて行く事となります。
練習番号88の<捻れ>た音符の模様をご覧下さい。
200703082233000

は、「自問」の動機のリズムを芯に吸え、それを「直面」の動機(チェロ、練習番号91からは木管が賛助)と「拒絶」の動機(練習番号91からのヴァイオリン、とくに144〜145小節)へと巧みに変身させ、さらに、「拳を壁に叩き付ける」仕草を思わせるコントラバスのスフォルツァンドフォルテシモの鋭く短い八分音符で、「直面」しなければならない精神の苦悩を悲痛に響かせる。
練習番号90の譜例です。
200703082233001

練習番号92は「自問」が、たどり着くべき頂点を見いだした事に「喜び」ではなく「悲しみ」を表明している点に留意しなければなりません(短調です)。悲しみは、下降音型で諦念へと向かい、93からふたたび冒頭部の音楽によりながら、浄化へ向かって上昇を始めます。

は、前述の通り、第1楽章練習番号1の、この楽章なりの再現です。第1楽章では「自問」を初めて提示するところに意味がありましたが、ここで再現されているときには「自問」を結論へ向けてどう締めくくろうか、との沈思黙考となっています。
練習番号94のスコアです。フルートによる再現お際もそうでしたが、ここでもハープが「直面」の動機を無限的に奏でている事には注目しておかなければなりません。
200703082234000

は、練習番号83以下でいったん進んでいた、しかしその後さまよう「自問」に妨げられていた、心象化した現実への「直面」の、最終で、天国的な浄化です(チェレスタとハープ)。
練習番号96の譜例です。
200703082235000

極力、絵画的イメージを回避する記述にしてみましたが・・・自分の「解釈」が反映されているようでしたらご容赦下さるとともに、割り引いてご理解下さい。あくまで、構成をご理解頂きたいと存じます。

以上を踏まえて、お手持ちの演奏で第3楽章全体をお聴きになってみて下さいませ。



ショスタコーヴィチの証言


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ショスタコーヴィチの証言


著者:ソロモン ヴォルコフ

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2007年3月 6日 (火)

東京アマオケ演奏会案内(ダスビさんのプログラムと一緒に貰ったチラシのもの)

ダスビダーニャ第14回定期演奏会にお邪魔したレヴューを日曜日に綴りました。

演奏会そのものと別に感心したのが、プログラムと一緒に配布されたチラシ。
いえ、数の多さに、ではありません、その並び順が、それぞれの演奏会が開かれる日付順になっていたことに、です。

当日は客席への案内・誘導も素晴らしかったのですが、まさか、チラシの並び順にまで気配りがされているとは・・・どなたのご配慮だったのでしょうか? ただビックリしております。

あまりに感心したので、つい、チラシ記載の演奏会を列挙してみたくなりました。
各団体へのリンクは、時間があるときに探して貼っていきますので、とりあえず、日付と団体名、主な演目と会場名のみ記しておきます。だいたい、土曜日の演奏会は夕方6時頃に、日曜の演奏会は午後1時から2時に会場に行けば間に合うようですが、例外もありますので、いってみたい演奏会があったら検索サイトで当たってみて下さいませ。


3月11日(日) 江東区民合唱団/江東フィルハーモニー管弦楽団
  〜ベートーヴェン「第九」:ティアラこうとう

3月17日(土) フロイデ・シンフォニーオーケストラ
  〜ブラームス「第四」:杉並公会堂

3月18日(日)「三宅島復興祈念チャリティコンサート」(複数の吹奏楽団体)
 〜演目不明:パルテノン多摩

3月25日(日)東京学友協会交響楽団
  〜バーンスタイン「キャンディード」序曲:すみだトリフォニー

4月8日(日) 国際基督教大学CMS管弦楽団
  〜「エロイカ」:府中の森芸術劇場どりーむホール

4月8日(日) アイノラ交響楽団
  〜シベリウス「第3」(グリークの交響曲もやる!):杉並公会堂

4月8日(日) レイディエート・フィルハーモニック・オーケストラ
  〜「白鳥の湖」全曲:大田区民ホール・アプリコ

4月21日(土) 東京外国語大学管弦楽団
  〜マーラー「巨人」:府中の森芸術劇場どりーむホール

4月22日(日) コンソルティウム・アザータ(管楽器13名のアンサンブル)
  〜メンデルスゾーン「ハルモニームジークのための序曲」他:三鷹市芸術文化センター

4月29日(日) ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン室内合奏団
  〜ベートーヴェン第1・第3:杉並公会堂(夜間)

4月29日(日) オーケストラ・ディマンシュ
  〜ベリオ「レンダリング」(1990):かつしかシンフォニーヒルズ

5月4日(金)  文京フィルハーモニック管弦楽団(第1回定期)
  〜ベートーヴェン「第7」:新宿区立四谷区民ホール(夜間)

5月12日(日) お茶の水管弦楽団
  〜プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」抜粋:ミューザ川崎シンフォニーホール

5月25日(金) 虎ノ門交響楽団
  〜ブラームス「第四」:大田区民ホール・アプリコ

7月1日(日)  シンフォニア・ズロッカ(第2回)
  〜「幻想」:横浜みなとみらいホール

11月24日(土) 明音(あかね)交響楽団(第1回)
  〜ショスタコーヴィチ「第1」:きゅりあん大ホール(昼)

微に入り細にわたり、ではなくてすみません。


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2007年3月 5日 (月)

解読ショスタコーヴィチ第5-第2楽章

・とりあえず、の全体像はこちら
・第1楽章はこちら

「むすび」


この楽章を聴くといつも思い出すのは、パドゥーラ=スコダがモーツァルトの解釈方法について述べた著書の中であげている、だいたい次のようなエピソードです。
「ある冬の日、友人がモーツァルトを訪ねると,モーツァルトと妻のコンスタンツェはダンスの真っ最中だった。部屋はとても寒かった。<こんなに寒いって言うのに,君たち,よくそんな陽気にダンスなんかしていられるね>友人が言うと,モーツァルトが答えて曰く<暖房費もないから,ダンスでもしてないとあったまらないんだ!>」

以下,この楽章は要素が定型的ですので、譜例をあげず、参考となるような絵画も上げず(適切なのが見つかりませんでした。この音楽は,決して「死の舞踏」ではありませんので・・・),音だけ聴いて頂けるようにしますが,それでも充分「読み切れる」のではないかと思います。

第2楽章について全音スコアの解説は
「スケルツォという名前通り、楽しいくつろぎの音楽である」
と記していますが、これは特に「くつろぎの」という言葉で、筆者の読み誤りが明確でしょう。
まず、主観的にはショスタコーヴィチファンはこんな言葉は信じっこありませんし!
客観的には、この楽章全体が、第1楽章冒頭で明示された主要3動機のうちの第3、 だけで創造されている、という事実に目を向けなければなりません。そして、時折あいだに現れる付点リズムは、(正統的な分析の手法では「そんなはずがない」ということになるのですが、作曲する立場からの心理としては同じく主要動機のうちの第2、 の変形だということを感じ取るのが適切だろうと考えます。

すなわち、第2楽章は「悲劇的な現実を、悲劇だと自分に言い聞かせるのを拒み,底抜けの陽気を装う」音楽となっています。

もう1点、スコアの解説文には「スケルツォ」とありますが、少なくとも全音版のスコアの第2楽章そのものには「スケルツォ」とはどこにも書いてありません。手元のCD5つ(他は貸し出してしまったので)を確認しても、スケルツォとは書いていません。では、ショスタコーヴィチ自身はどう見なしていたのか・・・家のどさくさで文献がほとんど(まあ、たいした数ではないのですが)行方不明なので、確認出来ませんでした。今参照出来るのはファーイによる伝記だけです。
そこに引用された、当時の何人かの見解をあげてみましょう。

まずトルストイ(大作家の方ではありません)の、最終楽章に対する見解ですが、
「交響曲の最終楽章は、最初の三楽章に置ける悲劇的なまでに緊張した瞬間を、人生肯定的で楽観的な構想に溶かし込んでいます」
終楽章に対するもの、としての見解としての妥当性は措くとしても、少なくとも第2楽章が「楽しいくつろぎの音楽」とは見なしていなかったことが分かります。
次に、当時最大の交響曲作家であったミャスコフスキーの日記。
「最高なのは第一、第三楽章。第2楽章は(メヌエット、レントラーの特徴が)マーラーの焼き直し・・・」
これも、マーラーの焼き直しかどうかは問わないこととしますが第2楽章をスケルツォとは考えていません。

では、なんなのか? メヌエットでもレントラーでも、あるいはワルツでもいい、舞曲なのは間違いないのではないか?
とにかく、どんな種類の「舞曲」なのかを特定しないでおきましょう。
今は、この楽章は「決して陽気なものではない」ということを承知しておきましょう。
ちょうど、チャイコフスキーの「悲愴」における第3楽章が陽気さの裏に狂気を秘めているのと類似した意味付けを持っている音楽だ、と見なしておけばよいのかと思います。ただし、チャイコフスキーとは文脈が違っています。あちらは滅びて行く貴族社会を象徴するような哀感を持つ5拍子のワルツの後でやってくる狂気です。ショスタコーヴィチのこの第2楽章の方には、「狂気」はありません。構造が極めて理性的です。

形式は古典的な複合三部形式で、極めて大まかに捉えるなら
第1部:A、B、B
第2部:C、C、D、C’、D’、D’’、C’’、D’’’
第3部:A、B、B、コーダ(Cによる)
という構成になっています。ダッシュを無視し,同じ記号だけに注目すれば,要素は4つだけです。(原子、ではなく分子レベルでの要素だと思って下さい。)

4つの要素の音は、以下にリンクしてあります。

(これのみ前半部が「拒絶の動機」の変形です。)

これが先に示した3つの部の中でどのようにオーケストレーションを変化させているかを、どのように読むかがポイントですが、大切なのは第3部のA(練習番号63)は、冒頭のモーツァルトのエピソードで言えば,
「寒さを忘れようと踊っていても,確実に訪れてくる寒さは無視出来ない」
ということにあたりますし、続くBの後半がまずトランペットに割り当てられているというのは・・・トランペットという楽器の象徴するものを考慮すれば・・・「寒さという現実を前にしてなお,軍人的決意で寒さを強制的に忘却する」のです。このあたりはソルジェニツィンの小説「イワン・デニソヴィッチの1日」あたりがムードをつかむ上で参考になると思います。

ということで、上の4要素をご承知の上で,全楽章をお聴きになって、読みをお深めになって頂ければ幸いです。

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2007年3月 4日 (日)

ダスビダーニャ第14回定期演奏会

自分たちの練習は夜で、家庭の事情で行けません。娘は期末試験の真っ最中でもあります。
が、百貨店に法事のお返しを仕入れに行かなければならない。
迷った末、ふるたこさんに無理を申し上げ、娘には
「勉強は土曜のうちに終わらせろ」
と無茶をいい、おかげさまでオーケストラ・ダスビダーニャの第14回定期演奏会をききにいくことが出来ました。

終演後楽屋に御礼にも伺えず無礼をしましたが、ふるたこさんにはいくら御礼を申し上げても申し上げきれない思いでおります。本当にありがとうございました。

一番の目当ては、今回演奏される交響曲第15番でした。

が、他の演目も大変に魅力的でした。
それぞれに簡単なレヴューをすることで、ふるたこさん、また、素晴らしいひとときを過ごさせて下さったダスビの皆様への感謝に替えさせて頂きます。(曲目標記はダスビさんはダスビさんの強いこだわりがあるので、プログラムのままとします。)

・映画音楽「ピロゴフ〜先駆者の道〜」の音楽による組曲
アトヴミャーン編のものだそうですが、組曲としても音楽そのものも、私は初めて耳にしました。ジダノフ批判で不遇をかこった時期のショスタコーヴィチが映画音楽を量産した話はどんな伝記にも語られているところですが、作品としての評価もそれに伴い低いのが一般的のような気がしております。
しかし、この作品、聴衆のかたが、たとえば「ベルリン陥落」の音楽をご存知の上でお聴きになったら、格段に質が良いのがお分かりになっただろうと思います。開演早々、さすが、日本一のショスタコ理解者集団であるダスビさんらしい、魅力のある音楽の、これまた魅力ある演奏でした。激烈な箇所と静寂な箇所の対比、歌う場面の過剰にならない旋律表現は、賛美に値します。

・ヴァイオリン協奏曲第1番
独奏者の荒井英治さんは、東フィルのソロコンマス。ですが、ショスタコファンの間では、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏全15曲を演奏する目的で「モルゴーア・クァルテット」を結成したことで名前を知られています。
初演者のオイストラフが音楽の厳しい孤独に焦点を当てたものだったとすれば、荒井さんのアプローチは「孤独ゆえに見いだされる深い愛の精神」に迫ろう、というアプローチではなかったか、という受け止めかたをしましたが、いかがでしょうか?

・交響曲第15番
ショスタコーヴィチが「自分自身」に還ったときの独特の音響は、交響曲では第1、第9、そしてこの第15ではなかろうか、というのが私の個人的な思い込みです。第9は意味合いとしては別のものをもっているのではずして考えますが、「トリスタン」の引用を含む第1に始まり、「神々の黄昏」の動機を用いる第15で幕を閉じるショスタコーヴィチの交響曲創作過程は、これら最初と最後の交響曲を枠組みに据え、この2曲の間にある「類似点」と「相違点」それぞれの謎を、間に挟まれた13曲の交響曲で解き明かして行かなければならない、「人類に残された最大の知恵の輪」である気がしてなりません。
管、弦、それぞれに効果的なソロを持ち、何よりも全篇を通じてこれ以上ないと思われるほど巧みに打楽器を駆使している第15番は・・・いろいろな解釈はあるのでしょうが・・・非常に「楽しめる」作品であり、同時に「胸を打たれる」音楽に溢れてもいます。
最初の3楽章でもそれが見事に再現されていましたが、私が最も打たれたのは、終楽章でスネアが力強くナタを振り下ろす箇所以降です。スネアが鋭く響いた瞬間、私は客席で、同時につい「ウン!」とうなり声をあげてしまい、隣の人に顰蹙の目で見られました。・・・しかし、その鋭さの後、スネアが見事に静寂の中へと姿を消して行くさまには、ほんとうに、涙がこぼれました。
賛美したい箇所は多々あったのですが、これをその中の代表例として綴っておくことでご容赦頂きたいと存じます。ソリストの皆さん、コラールを奏した金管の皆さん、そして精妙なアンサンブルを見せて下さった打楽器の皆さん、どなたも、素晴らしかった。

指揮者の長田さんも、実は初めて拝見した方ながら、堅実な棒、抑制を効かせた演出、でいながらメンバーが望むままに伸び伸びと誘導する懐の深さには、大変頭が下がりました。

全体として惜しむらくは・・・これはアマチュアオーケストラのほとんどすべてに当てはまることで、これを言ってしまうと私が私自身の首を絞めることにもなるのですけれど・・・とくに弦楽器は合奏がブラスバンドのように普遍的な機会を持っていませんので、和声感覚の欠如が曲の最も美しくあるべき箇所の緊張感を緩めてしまう結果になりがちです。これは、ですからプロであるはずのトレーナーの方にお願いをしたいことですが、
「弾ける・弾けない・どうしよう」
に焦点を置いたトレーニングは、そろそろ卒業ということになさって頂きたく存じます。
今回の録音を後でお聴きになると、緩徐楽章や弱音で歌う際に、弦楽器の音程がしばしば低くぶら下がってしまっていることにお気付きになると思います。また、ソリストの方は私など到底及ばないほど巧みにお弾きになっていらっしゃるのですけれど、「音程を指の位置で取らなければならない」という先入観をお持ちではないかな、と危惧します。単純な長音階・短音階ならば、それでもなんとか「耳」が補正を手伝ってくれますが、ショスタコーヴィチの書法は既に長短の音階を超越していますから、たとえハイポジションで苦しい、という箇所でなくても(いえ、ハイポジションでご苦労はなさっていませんでしたね)、ごく普通の位置のポジションでも、音楽にそぐわない音程になってしまっている箇所があります。
そのあたりを、是非、演奏なさった方もトレーナーの方も真摯にご確認頂き、「響き」を大切に音楽を構築して行ければ、これだけの技術を保持しているダスビの皆さんのことです、一層素晴らしいショスタコーヴィチ、世界に胸を張れるショスタコーヴィチを高らかにアピール出来るようになって行かれることと信じております。

失礼を綴った段は平にご容赦下さいませ。

とにかく、全体としては、大変に満足、かつ、感動した演奏会でした。
15番の後、拍手までの静寂が長かったことが、聴衆すべての、今日の演奏でおのれの「祈り」が満たされたことを悟った至福のひとときを、よく象徴していたと思います。

ほんとうにありがとうございました。

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