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2007年2月16日 (金)

おもふ思のおもがわりせで(1)

<定家関係記事> 千載和歌集:123456789 後白河法皇:1234 松浦宮物語:1234 六百番歌合:123 仁和寺宮五十首:123 (空白期):123 正治二年後鳥羽院初度百首:123 千五百番歌合:

「六百番歌合」について綴ってから、またもやだいぶ時間があいてしまいました。

定家は正治二年(1200)八月、後鳥羽院の「初度百首和歌」に詠進することによって大飛躍を遂げることとなるのですが、今見ていく建久年間の時点では、まだ数年先のことです。
人間は往々にして、記念碑的な業績でのみ自他を強く記憶します。けれども、そこに至る地味で長々しいだけの時間のほうが生きている意味に占める割合は高いのであって、それに比べれば、記念碑などというものは、所詮は生の営みの断片に過ぎません。

「六百番歌合」の歌を召される前、定家は母の死に遭遇しています。建久四年(1193)二月、定家三十二歳のおりのことで、この年の秋には父・俊成と、母の死をめぐって歌の贈答をしています。この贈答そのについては、様々な人がその心の深さを云々しているにもかかわらず、とりたててのものではないかと思います。むしろ、母の死を通じて、定家の想いがじわりじわりと切り刻まれ、ヒビだらけになる・・・そこへまた、天から慈雨が降り注ぎ、思いの裂け目に初めは淡く緑が芽吹き、徐々に濃さを増していく。こちらについてよく見ておいたほうがいいのではないか、とも考えます。

母の死そのものについても、その後の心の移り変わりについても、残っている限りの「明月記」中には何も語られていません。ですが、「六百番歌合」で既に芽吹いている彼独自の耽美的な詠歌法が、この時期から「新古今」時代に向けて着々と徹底されていくのを眺めるのは、思いのほか壮観でもあります。
定家の編纂した自作歌の集成「拾遺愚草」中に具体的に残っているのは「「建久七年九月十八日 内大臣家 他人不詠」の書き入れのある「百二十八首和歌」、二年後の夏の「仁和寺宮五十首」だけですし、堀田氏「定家明月記私抄」によっても他に数首あるだけらしく、堀田氏はこの時期の定家について
「とても本職の歌人とはいえない」
状況下に置かれていた、とみなしていらっしゃいますけれども、「百二十八首和歌」と「仁和寺宮五十首」の歌ぶりの違いを目の当たりにしますと、この時期あまり外的な歌作活動をしていないことが、定家にとってはむしろ幸いしたのではないか、と、感じられてなりません。

1・23

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