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2007年2月16日 (金)

おもふ思のおもがわりせで(2)

この時期の定家の作歌が少ないのには、政情と主家である九条家の動向との関係が反映しています。

建久年間から正治元年にかけては、源平合戦の終結・鎌倉幕府の成立(おそらく、こういう紋切り型の要約は当時の人々の時代感覚とは合致していないはずです)後の、新たな世情不安が、歴史の子宮の中でもぞもぞと動き出している期間です。この不安が、まさか承久の乱の年までという長きにわたって成長しつづけることになるとは、まだ誰も・・・乱の当事者となった後鳥羽上皇も北条義時も・・・想像だにしなかったでしょう。

関東側の視点で、「吾妻鏡」から、主だった事件で興味深いものだけを、ざっと拾ってみます。

・建久四年五月~頼朝の富士の牧狩のさなかに曽我の仇討が発生
・同年八月に頼朝の弟、範頼が、十二月にはやはり有力親族の安田義定が失脚
・正治元年、頼朝没(「吾妻鏡」記事欠落)
・同年十二月、頼朝の股肱の臣、梶原景時失脚。翌年正月、追跡され敗死

頼朝没の前後の事件は、クーデターの匂いを漂わせています。
曽我兄弟は仇である工藤祐経を討ってしまえばそれで用済みのはずなのに、さらに頼朝の幕営を襲撃しようとしています。
引き続いて起こった範頼の失脚の際には鎌倉の重鎮だった大庭景義や岡崎義実が出家したりしています。
梶原景時の失脚と敗死は頼朝の死から一年も経ていないときの事件です。

これらの出来事から伺われるように、関東側では、平家亡き後の新体制を求めて、顕在的にも潜在的にも、自分たちの立場固めへ向けての政変欲求が渦巻き始めていました。

そのあおり、と考えられるのが、京側では建久七年十一月に起こった定家のあるじ九条兼実の関白解任劇で、九条家は以後数年間、陥れられた谷から這い上がれないことになります。
当然のごとく、定家も公式の場で詠歌する機会をうしなうこととなったのでしょう。

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