« 解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(本編) | トップページ | ダスビダーニャ第14回定期演奏会 »

2007年2月28日 (水)

解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(前振り)

<前説>

この部分は、TMF団員の方に向けたお話ですので、ショスタコーヴィチの交響曲第5番がどうなっているかだけに御興味があって覗いて下さった方は、お読みにならなくても構いません。ムダを綴って本当に申し訳ございません。

団員の方は、できましたら、ネットをなさっていないかたにもお伝えしたいと願っております。

2月25日に、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」の全体像を(少なくともTMF団員の方には)把握して頂きたくて、長々と綴りました。
あまりに長いせいか、中身がまだまだ抽象的に過ぎるせいか・・・いちおう、自分の文章力のなさはやむを得ないとして・・・、この記事、人気がありません。

アクセス数なんか、家内の逝去後ピークに達した後は日に平均70人くらいの方が2,3回読んで下さるくらいのマイナーブログですから、別にどれがどれくらい読んでいただけているかなんて気にしても詮無いことです。本人も、
「あ、仲良しの方が読んで下さったかな?」
以外のことは、あまり気にしていません。

が、しかし、団にとっては次回はスペシャルゲストがいらっしゃるとはいえ、交響曲がメインの演目ではありますから、

「やっぱり、作品設計への展望は、どなたにも持って欲しい」

と思っております。

練習をお休みしがちになってしまう環境下でもあります、お会いすれば消える心配もたくさんあるのだとは思います。
が、今のような環境下になってみて初めて、
「うーん、もう長いこと、伝えるべきことを伝えずに練習に臨んできたのかなあ。ボクのお役目からしたら、義務の不履行だなあ」
と、痛切に思うのです。以前は家内に愚痴をこぼして、
「ああ、そう。まあ、仕方ないんじゃないの?」
って言われて(プロセスはまじめに聞いてくれての話なのでしたが、結論はこれに決まっていました)自分の気持ちが収まればそれでおしまい、にし続けてきましたから。・・・それではいけなかったのです。オイラはバカだったなあ、と、つくづく思います。

アンサンブルの技術(純粋に技術的なことだけ)については前回、管楽器では(不足は多いものの)集中的にお伝えできたとは感じております。あとは敷衍して頂ければ、いろいろお気づきいただけるはずです。
弦は・・・自分自身、マンネリなのかなあ。。。今の状況があたりまえ、と思い込んでいるのかなあ。。。それなのに背伸びをして
「本当は、もっとこうなんだよ!」
という点まで欲張ってしまうから、結果的に空回りするのでしょうか? たしかに、後で振り返ると、「アンサンブルの技術」でじはなくて、次に述べる問題点のうちのふたつめにまで踏み込んでしまっていました。もう少し頭を整理して臨めば良かったと反省しております。

一時期TMFで一緒に演奏してくれて、まもなく富山へ引っ越してしまった後輩が、後で録音を送ってやったら
「おかしいな〜、もっとうまく出来ていたはずなんだけれど。。。」
ごく素直な、戸惑った口調で言ってくれたことが思い出されてなりません。

彼が首を傾げてしまった原因を反省してみますと、大きく二つあります。

ひとつめが、先日の分奏で管楽器の方で重点的にやった「アンサンブルの技術」の欠如です。
こちらは、音の気配を感じ合える連帯感を養うことで、かなりの程度解消できていくはずです。

ふたつめは、演奏する作品への、ヴィジョンの不揃い及びそもそもの無認識です。
この問題の発生には次のような要因があります。

・自己の音楽受容のみへの偏執
 (自信過剰・不自信過剰、他者を聴けない耳、作品を受け入れない精神)

・特定の個所のみへの過度のこだわり
 (演奏できない個所、「分かった」と思い込んでいる個所、無意識で「やれちゃってる」個所)

すなわち、せっかく何十人も集まっているのに、もしくは何十人もが無秩序に集まってしまっているがゆえに、何十もの
「木を見て森を見ず」
が発生する。仮に技術が身についたとして、それで解消する問題ではないことはご了解いただけるのではないかと思います。

これは、
「指揮者が指揮者の解釈で家事を取ってくれるから、それでなんとかなる」
そう簡単に結論付けられがちですけれど、そう簡単ではありません。

「解釈」はディレクター、即ちオーケストラならば指揮者の領分であるのは間違いないことです。
ですが、たとえば演劇に事態を置き換えてみて下さい。
ディレクターは統合的な演出と、それに必要な演技指導は行ないますけれど、ディレクターの実現したい「全体像」は、個々の演技者が配された役どころをどのように理解し、どう演じて見せてくれるか、が点検できない限り、ディレクターにとっても実現不可能な全体像のままで終わるのです。

ここのところを念頭においていただければ幸いです。

以上をご理解頂いてはじめて、次項の<本説>で申し上げることの主旨をも分かっていただけるのではないかと思います。

今回は、第1楽章のみについて綴ります。スコアの必要個所も掲載し、該当個所の演奏例もつけます。
どうしても「比喩」を用いなければならず、そのせいで「解釈」になってしまっていると誤認されては元も子もないのですが、場合によって、ヒントとなる美術作品の画像も添付します。

分析が目的ではありませんので、「構造」云々は致しません。
ですが、ショスタコーヴィチが第1楽章をどのように設計したのか、なるべく充分に分かるように試みます。

本来全楽章を一度に俯瞰できるのが望ましいのですけれど、まずは第1楽章の展望を見出して下さる一助となれば、このうえない幸いです。

|

« 解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(本編) | トップページ | ダスビダーニャ第14回定期演奏会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/5523445

この記事へのトラックバック一覧です: 解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(前振り):

» ミュージカルに行きた〜い!! [ミュージカルに行きた〜い!!]
ミュージカルが大好きな私、fantineの観劇記録です [続きを読む]

受信: 2007年3月 1日 (木) 08時17分

« 解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(本編) | トップページ | ダスビダーニャ第14回定期演奏会 »