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2006年10月 7日 (土)

定家:「六百番歌合」の世界 (2)

判者は定家の父、俊成。詠み手は主催者の良経とその叔父で後鳥羽上皇を諌める歴史書『愚管抄』を書いたことによりこんにちまで名を残している慈円を中心とし、左に藤原季経(六条家)、藤原兼宗(定家と親しかった)、藤原有家(六条家)、顕昭(六条家)、定家が、右に藤原家房(良経従兄弟)、藤原経家(六条家)、藤原隆信(定家異母兄)、藤原家隆(俊成門弟)、寂蓮(俊成甥)が配されています。それまで歌壇の主流だった六条家関係者が4名、新進の御子左家(俊成、定家に始まる歌の家)関係者が4名で、そのパトロン筋(良経、慈円、家房、兼宗)も4名。こうして見てみると、歌を巡って九条家と深い関係を結んでいた人達が、じつにバランスよく存在していた事が伺われます。

また、この中には『新古今和歌集』の撰者となる人物が、有家、家隆、寂蓮、定家、と、6名中4名まで含まれていることも注目されます(寂蓮は任命後早くに死去)。主催者の良経も、慈円も、新古今集の主要作家でしたね。

九条家に歌の指南をしてきたのは、良経の父、兼実の頃までは六条家だったようです。そこへ俊成が参入してきた様子は、兼実の日記『玉葉』から伺い知ることが出来ます。先に見た通り、俊成はその後『千載和歌集』のたった一人の撰者となることに成功しています。そしてこの『六百番歌合』では判者となり、六条家の人々の歌までを堂々と裁くことになったのです。六条家の年長者であった季経、顕昭は、不愉快な思いをしたのではないかと推察されます。

六条家側の顕昭がこの歌合せのあとで御子左家側に対し強烈なライバル意識を見せ、陳状をしたためたのは、御子左家側の大ボスである俊成が判者だったせいもあるのでしょう。俊成の判定は、専門家によれば、数を調べると案外公平だ、ということになっているのですけれども、判辞を読んだ印象ではとくに顕昭に対しては冷たいなあ、と感じられる場合が多い気がします。
顕昭を「勝」と判じた場合でも、俊成の言葉には「マア、オマケヲシテアゲタヨ」みたいな毒がある。・・・中にはそうでは無い例もありますから、俊成の真意は、なかなかはかれません。

顕昭が勝ちとなっている例を3つあげておきましょう。最初は六条家同士、次は慈円と番ったもの、最後は御子左家陣営の隆信とのもので、素直な判辞を得ているものです(本文は岩波文庫による)。

春十五首
十三番  春水
  左 勝                    顕昭
つららゐし灯を渡る春風に池の心もとけやしぬらん
  右                     経家卿
雪積る嶺に春日やさしつらむ谷の小川の水まさりゆく
(略)
判云、左右の風体雖為同科、右の春日猶不可庶幾。左、少しはまさりはべらん。

夏  下
一番  夏夜
  左 勝                    顕昭
うらも無き名は立ちながら夏衣袂に風は猶隔てけり
  右                      信定
夏衣ひとへなれどもなかなかに暑さぞまさるうらとなりける
  右方申云、名は立ちながら、心得ず。
(略)
判云、(中略)左の名の立つ事は何事ぞと聞ゆれど、末句よろしく聞え侍り。以左為勝。

恋  六
一番  寄月恋
  左 勝                    顕昭
慰めし月にもはてはねをぞ泣く恋やむなしき空にみつらん
  右                    隆信朝臣
月よなほ隈こそなけれかきくらす恋の涙は雨とふれども
(略)
判云、左歌、月にもはてはといへる、優なるべし。右歌、月よと置きて末させる事なくや。以左為勝。

1・2・3

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