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2006年10月 9日 (月)

曲解音楽史5:音楽とトランス

前の回:1)音という手段  2)リズムの成立 3)音程から音階へ 4)言葉と音楽

音楽の、かたちとしての特徴は、これまでざっと見てきた通りかと思います。
では、そうして成り立ってきた音楽は、人の心にどのような働きかけをするのでしょう?

はじめは、音楽が「楽器の発見」や「宗教の創始」に直接起源を求める必要はなさそうだ、というところからスタートしました。
近年驚くほど研究が進んでいるネアンデルタール人(今年、発見から150年です!)の、脳の働きの推定からは・・・それはホモ・サピエンスほどの抽象能力を持たなかったと考えられています・・・もし彼らが音楽を発見したのであれば、これまで確認したスタートラインは、そうマト外れではないようです。
けれども、いまを生きている私たちにとっての音楽は、神秘的とでも表現したい心理的な事象の数々と密接に関わっていることを認めなければなりません。すると、単純な合理主義だけで音楽の成長や生長を把握しようとするのでは、ちょっと無謀です。

とはいえ、ヒトの原初的な精神構造を史料から解明したくても、この構造は文字の発明より最低でも2万5千年から3万年遡った頃には出来上がってしまったらしいですから、正確な確認はたいへん難しい。このへんはササッと話を進めたい私のような素人には、大変困った事態です。

そこで、ひとつの事例を挙げるくらいで、お茶を濁しておこうかと思います。

(参考)赤坂威編著「ネアンデルタール人の正体」朝日選書769、2005年



避けて通れないのは「エクスタシー」の問題です。クラシック音楽ではお目にかからない光景ですし、最近はロックでもどうなのか知りませんが、ビートルズ来日した頃は彼らの歌を聴いている最中に失神する若い女性がたくさんいました。その後のハードやパンクに比べればおとなしいものだったのですけれど。
グループサウンズでもおなじことが起きていました。あんな頃からもう40年も経ってしまいました。エクスタシーとは、しかし失神してしまうよりは、何かに憑かれた状態になる(トランス)ことをさしています。

人々がトランスに入る様子はいろいろ紹介されていますが、たいていはその境地に入るため乱痴気騒ぎをしたり薬物を利用したり、という場面がピックアップされます。ビートルズメンバーをも虜にしたインドは、やはり薬物を使用してトランスを求める側面が彼らの心をつかんだのでした。ヒンドゥー教でバラモンが恍惚に至るために飲むソーマも本来キノコの毒を使うものだった、との研究があります(中沢新一「人類最古の哲学---カイエ・ソバージュI」講談社選書メチエ231、2002年で言及)。

音楽には、薬物に頼らずトランスになれる力があります。

久保田麻琴「世界の音を訪ねる」(岩波新書1011、2006年)では、一章を割いた「天然トランスは世界を魅惑する」に、モロッコのグナワ・フェスティバルの様子を詳しくレポートしています。アフリカは人類発祥の地ですが、モロッコはイベリア半島の向かい側に位置しますから、もともとブラックアフリカではありません。グナワ(ギナア)という民族はそこへ連れてこられた黒人さんたちに由来します。同じ言葉で表される彼らの音楽も、イスラム教化されているものの、もっと古い時代の音楽の性質を持っているかも知れません。その音楽会には1万人もの聴衆が集まり、人々はロックコンサートよりも激しくトランス状態に陥って、頭を上下させ、体を揺する催眠状態に陥るようです。
コートジボワールには仮面を被ることにより神々になり切る風習がありますが、これも仮面という別手段は用いるものの、そのとき歌い踊られる音楽が、憑依に至る上で大きな役割を果たしています。

トランスについて明確に時期を遡れる記録は、ギリシャ悲劇『バッコスの信女』(エウリピデース作)に現れるディオニューソス教徒のふるまいの描写です。これは好意的な描写ではありません。髪を振り乱し太鼓を鳴らして熱狂的に踊る信徒たちは、狂った存在として、どちらかというと軽侮の対象になっています。トランスは現代人(といっても二千五百年前以降、という長いサイクルで捉えた現代人です)には「野蛮な」ふるまいとして軽んじられ気味になってきたことが、『バッコスの信女』からは伺えるわけです。



本来、トランスは狂気ではなく、神に近づく手段であったことが、中沢新一「神の発明---カイエ・ソバージュV」で詳細に述べられています。中沢さんのこの一連のシリーズは、考古学や神話学の成果を豊富に取り入れており、その説は私たちを惹き付けて話さない強烈な魅力を持っています。ですが、ネアンデルタール人やクロマニヨン人についてなおも続いている新発見や新論争とは必ずしも整合性がとれておらず、読解には注意を要するかと思われます。
それでもご自身がチベットでのトランス体験者だけに、トランスを求める際の注意点について中沢さんが述べていることには重い意味があります。
「神の発明」で引かれているトランスの例は薬物を使うものですが、シリーズ全般を通して、数々の神話を併記しながら中沢さんは危惧の念を述べています。

薬物の使用などに頼ってトランスを求めると、行き過ぎに陥りやすい。行き過ぎはいけない、というメッセージは神話の多くに込められている。
求めるべきものは、自己の内部から呼び起こされ、世界から呼び起こされる、自然なトランスなのだ。
その自然さが、どこからか、何かの・・・おそらくは神話の忘却という・・・理由によって、崩れてしまったのではないだろうか。

もっともこれは中沢さんの記述通りではないし、中沢氏自身はトランスという語彙は全く用いていませんから、私が勝手にそう解釈してしまっているのかも知れません。かつ、ここでトランスという用語が許されるとしたら、その訳語は「憑依」ではなく、神々や自然の精霊たちとの「交感・交歓」でなければなりません。
同じシリーズの「熊から王へ---カイエ・ソバージュII」に、ルソーからの引用として、

*いちばん最初の人間たちは、詩と音楽によってたがいに語り合っていた

と述べられています。
ルソーが考えていたのも、中沢氏が信念としているのも、次のようなことかと思います。

*ヒトと神々とのトランスが自然に行なわれるのは実に詩的で音楽的な世界だ。

トランス、という言葉にこだわるのはよくありませんが、文脈上そのようにしておきます。
音楽は本源的に人をトランスに導く要素がある。しかし、安易なトランスを、人間は戒めて来た。
それが何かの拍子でタガが外れたり、規制が行き過ぎたり、と、バランスが上手くとれなくなってしまった。
そのあたりに注目しながら音楽の歴史を見ていくベきなのかもしれない。

トランスを「自然な」バランスでもたらしてくれる作品は、宗教的なものに多くあります。
キリスト教音楽で最近で最も美しい作例はエストニアの人、ペルトの手になるものですが、自然なバランス、ということを念頭に置いて聴いた時、彼の作品( 、Naxos 8.557299から。モノラルにしてあります)はあまりに透きとおった氷のガラスのようです。ルネサンス後期、パレストリーナの「 」(Wiener MotettenChor、モノラルにしてあります)の響きと比べてみて下さい。挙げて来た時代からはかなり遅い時期にずれ込むものの、この二つの違いが、見ていくべき歴史の性質を端的に物語っていると感じております。

自然さが崩壊へ至る歩みは、
*それが薬物(薬物的手段)の使用でしか得られなくなったのが、最初の一歩。
*詩を文字に書き留めなければ、もはや次世代に伝えられなくなったのが、第二歩。
*詩がとともにあったはずの音楽の調べが消えてしまったのが、とどめの三歩目。
・・・こんな具合なのではなかろうか、と思います。これをモデルにしておきます。

このつぎから一気に時計を5千年前あたりまですすめて、古代文明での音楽のありさまを探っていきながら、音楽という側面においての人間の失墜や、ポテンシャル回復の試みを、どうにか追いかけていくことにしましょう。

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