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2006年8月23日 (水)

Schostakovich第5CD(6):テミルカーノフ

「いつでも聴ける音楽なんて邪道だ!」
というのが、LP時代のレコード反対派の意見でした。いまは、どうなのでしょう?
いくら録音技術が発達しても、ライヴ録音の場合は特に、ホールやそこの録音可能環境の影響で、どうしても拾いきれない音がある事は、常々感じます。
テミルカーノフ/サンクトペテルスブルク・フィル(前レニングラードフィル)による、2005年11月25日バーミンガムでのライヴを収録したショスタコーヴィチ「第5」も、おそらくはホールで響いていたはずの「何か」を拾い漏らした録音なのではないかと思います。弦楽器の低音が異様に弱い。それが最大の理由ではないのですが、低音の拾いが小さいせいで、演奏がかなり軽めに聞こえます。それでいて、終楽章が終わると大歓声を交えたかなりの喝采・・・納得がいきかねました。
しかし、そんなこと以上に、テミルカーノフ指揮下のこの演奏には、様々な感慨を抱かざるを得ませんでした。
もうすぐ職場復帰しますし、すると、
「なんでこんなに複雑な思いなんだろう」
などと自問自答・試行錯誤するゆとりは確実になくなりますので、少し必死で、自分の感慨の究明に努めました。

その前に、一つはっきり言えるのは、たとえCDで音楽を聴くのであっても・・・それが既知の曲であればなおさら・・・努めて客観的な評価を加えるためには
「最初の一聴が大切」
だということです。
繰返し聴いていると、人間、その演奏の微細な特徴にも慣れてしまうため、演奏の独自性を捉えようと思っても、時間が経つほど感覚が記憶の「抹消作用」に影響されて純粋な鋭敏さを失ってしまいます。この点は肝に銘じなければなりません。

テミルカーノフという人について、私は、前回、スヴェトラーノフ盤の特徴を述べる際ついでに綴った程度の知識しか持ち合わせていません。それでも「彼の就任と同時にムラヴィンスキー夫人の解雇」という事実が、ムラヴィンスキーびいきの傾向がある私には、サンクト・ペテルスブルクフィルと彼の関係についてマイナスの先入観になる可能性は大いにありました。
「第5」の実況を聴いた第1印象は、正直言ってあまり好意を持てるものではなく、やっぱり自分の先入観を逃れえなかったのかな、と、少し悩んでしまいました(別に悩む事ではないのだけれど)。
で、二度三度と聴きましたが、やはり、どうしてもスッキリしません。
「何故だろう?」

スッキリしなかった原因は、続いて収録されている「第6」のライヴが非常な好演であることでした。
となると、「第5」の演奏に納得がいきかねる原因は、指揮者にだけ求めるべき問題ではない、との仮説を立てざるを得ません。

サンクト・ペテルスブルクフィルは、ムラヴィンスキー晩年の「第5」録音時でも水準が上がってきている事が伺われていましたが、それから20年経った現在は、一層レベルアップしています。
と同時に、「第5」の演奏では、ムラヴィンスキー時代のような
「音一つ一つを慈しむ」
演奏法ではなくなり、遅い楽章だろうが速い楽章だろうが、器用な人たちにありがちな横流れで輪郭のない発音になりやすい傾向が感じられます。
これは実は、時代性によるものなのではないかな、というのが私の仮定でした。
確認のため、今回は触れずに置こうと思っていたゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場管弦楽団の演奏も聴きました。結果としてテミルカーノフとかなり類似した傾向が、オーケストラの音の出し方にみられました。

音程感の変化も、非常に重要なポイントです。
ソ連時代のロシアのオーケストラは、「狭い・低い」音程感を貫いているのが特徴です。プロコフィエフが1943年にモスクワフィル(だったかな)を指揮した「ロミオとジュリエット」組曲の録音が残っていますが、音程の「低さ」・「狭さ」についてはこの傾向の例外ではありません。ただし、彼のフランスにいたという経歴、人柄とは違って(!)優雅な作風もあって、「流れ」という点では、これまで聴いてきたソ連の指揮者たちによるショスタコーヴィチ演奏に比べると柔らかく、どちらかというと近年のゲルギエフやテミルカーノフに近いように感じます。
プロコフィエフの自演を収録したものとおなじCDに、それからまた20年ほど遡る、グラズノフの「四季」自作自演が収録されています。こちらはロンドンのオーケストラを振っているもので、音程は幅広く、「明るいのが当然」といった演奏です。同様の事は入手しやすいラフマニノフの協奏曲自作自演(フィラデルフィアと共演)にも言えます。

こうしてチェックしてきてみると、私は大きく首をかしげざるを得なくなりました。
「今のロシアのオーケストラの方が、ソ連時代以前のロシアの音に戻っているのだろうか?」

「第5」ではなく、ショスタコーヴィチの「第6」のほうに関しては、私はいままでムラヴィンスキーとコンドラシンの指揮した演奏に耳慣れてきましたが、一方で
「この音楽は彼らの演奏ほど硬質に仕上げるのでは魅力が半分なのではないだろうか」
という疑問も持っていました。
テミルカーノフ指揮のライヴは、この疑問を見事に解決してくれました。幅が出来て明るくなった音程感のおかげで、和声が非常に豊かに、滑らかに響きを推移させるのです。

「同時代性」や、さらに兄弟関係と考えて良い「第7」・「第8」までを視野に入れると、「第5」には硬質な演奏が合っているはずだ、という思いは、なお変わりません。ましてや、「第6」だけが「豊か」でいいのか、と自問すると、
「いやあ、こちらもストーリーは第5と大きく違わんからな・・」
と、また考え込まざるを得ません。
「第5」も「第6」も、極端すぎる要約をすれば、
<鬱から躁へ>
の世界です。
しかし、それぞれの「鬱」・「躁」の性質が、どうも違うように思うのです。
どう違うか、は伝記的事実、社会的背景を考慮すれば明らかになるはずですが、そこまで深入りするとキリがありませんので、いまはただ、ショスタコーヴィチにとって
「第5は周辺の人々の墓標の上にあり、第6は個人の内面の浄化へ向けた葛藤を記録している」
と要約して、その場凌ぎとしておきます。

話がだいぶずれました。
指揮者が入る事のできる余地を考慮すれば、テミルカーノフだけでなく、ゲルギエフも、およそ彼らの先輩たちの正当な後継者であると思われます。ただし、いずれも「作曲者との同時代性」という呪縛から逃れている分、独自にスコアを読むことから出発しています。結果として、ゲルギエフは「ロマン的側面」を読み取り(キーロフで仕事をしている点が大きく作用しているのでしょう)、「横流れ」の音を出すようになった現在のオーケストラではそれが誇張される結果になっているものと推測されます。

テミルカーノフは、「第6」の演奏も併せて聴く限り、オーケストラに対して無理な注文をあまりしない、おそらくは優しめの人柄なのではないかと思います。こだわりを見せているのは一部のリズム、たとえば第1楽章の冒頭部、複付点ではない記譜の部分まで複付点で演奏する(何故そうしたのか、必然性も感じられず、非常に疑問ではあります)といった点くらいで、テンポの起伏がバルシャイより一層緩いかな、と感じさせるほどです。そのため、第1楽章は17分もかかるという記録を残しながら、別段変わった訴えかけもなく、
「なんでこんなに時間をかけるの?」
と首をかしげざるを得なかったりします。第2楽章は対照的にあまりにさらっと走り過ぎ、こちらは様々な録音を平均しての5分20秒〜30秒程度という記録を大幅に更新し、4分53秒で終わらせており、その分音も一層軽はずみになっているキライがあります。
その他、ムラヴィンスキーの演奏に刻印されている終楽章の「(移調で読んで)ソ・ラシドシラミ」の部分は、出版譜の「(移調で読んで)ソ・ラシドシドミ」になってしまっていて・・・これもツマラナイ。。。
それでもオーケストラ側はムラヴィンスキーの「呪縛」から完全に開放されているわけではなく、おそらく受け継がれているパート譜に書かれた事を守っているのでしょう、随所にムラヴィンスキー生前の奏法の名残を聴く事が出来、興味深く思いました。

長い上に支離滅裂だったかも知れません。
このCD。「第6」をも併せて聴きたい、というのであれば、お勧めします。「第6」に関しては、今のところ私はこのCDの演奏に大変満足しています。
あるいは、「第5」の演奏史・受容史を考えたい方にも絶好の史料なのではないか、と思います。

・・・単独で「第5」をお聴きになりたい場合には、ちょっと推薦したくない気はしますが。。。
ファンがいらしたらごめんなさい。

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