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2006年7月17日 (月)

音程=音の彩り

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この前は文がクドくて分かりにくかったかもしれません。
今回は、「聴いてもよく分からん!」かもしれません。文も相変わらずクドいな!

すこしのあいだ、音楽の要素ごとに見て行く試みをしたいと思いますが、まずは「音程」を採り上げてみます。音の例をつけますので、併せてじっくりお聴き頂き、是非、何でもコメントして下さい。(なお、「音の3要素」、いわゆる高さ・強さ・音色、では考えません。)

「音程」は「音高(ピッチ)」ではありませんので、あらかじめご理解下さい。このふたつを混同している方が、不思議なことに結構いらっしゃいます。ただし、「音程」と「ピッチ」の違いを知っている、という方も、そんな混同を安易に「アホか」と言わないで下さい。これにはやむを得ない背景があるからだ、と思われるからです。

まず、モーツァルトの曲から、弦楽はK157の演奏のこの2例をお聴き下さい。

管楽器もモーツァルトですみませんが、グランパルティータの変奏曲楽章の最終部です。

いずれにも旧は旧で、新は新で共通する特徴がありますが、以下の文の最後の方にそのポイントを綴ります。
それをお読みになったら再度お聴き頂ければ幸いです(また長文ですが・・・)。
ただ、弦、管、それぞれ「最近の演奏の方が彩りが鮮やかな感じがする」という印象はお受けになりませんか? これは断じて録音の質のせいではありません。音程の取り方に起因するのです。

「程」という字には「モノとモノのへだたり」の意味もありますね。「音程」の「程」は、音と音のへだたりを表しているということですよね。西洋音楽の体系から見れば、したがって、「音程」という言葉には必然的に「和声」の概念が付随します。一方、それ以外の地域の「音程」観に「和声」の考え方が伴うことは稀です(あるのを知らないので「ありません」と言いたいところですが、私が知らないだけかもしれませんので、断言まではしません)。
そうは言っても、前にも綴りました通り、音程観というのは人の数だけあります。これが極端すぎる言い方だとしたら、少なくとも、地域の数、民族の数だけはあります。
こんな例を思い浮かべて下さい。
ロシアの合唱団がイタリア民謡を歌い、イタリアの合唱団がロシア民謡を歌う。和音はつけず、斉唱で歌う。
・・・それぞれ、どんな歌が聴けるでしょう?
・・・それは、各々が自国の民謡を歌った時とどのように違うでしょう?
残念ながら、これにぴったりの録音例は探し得ていません。が、容易に想像がつくのは、たとえ斉唱であっても、ロシア人の歌うイタリア民謡は湿っぽくなって、地中海にふさわしい陽光を感じさせない。イタリア人の歌うロシア民謡は明るくなってしまい、ロシアの冬の重さにも負けない底力が失われる。そういう結果になる気がします。これは、この二つの民族の「音程観」の違いがもたらす結果です。

「和声」の体系創造までには、西欧も実は大変な時間をかけています。いまのグレゴリオ聖歌が定着したのが9世紀頃で、聖歌の旋律に別の音を(オーソドックスな意味で)被せるようになったのは13世紀頃ですから、それだけで4百年です。詳細は省いて、それが今の「ドミソ」「ファラド」「ソシレ」といった和音の概念に結晶するまで、さらに2、3百年かかっています。ですので、「音程観」=「和声観」というのは、もともと西欧にも無かった、近世以降の特別な発想だということは、理解しておかなければなりません。

「音程」にいろいろな種類があるんだ、というのは、民族音楽を聴き比べればわりと理解しやすいのです。オムニバス的なCDもありますので、お聴きになってみて下さい。
ですが、民族音楽に走りますと焦点が定まりませんので、やはり西欧音楽の例で行きたいと思います。

私は純日本的音程観で育ちましたので、東北での学生時代、オーケストラではかなりキツく音程を矯正されました。ところが、東京というところへ来て驚いたのは、
「音程なんて何とかなる。和音さえうまく鳴ればいいんだ」
という言葉を、結構たくさんの人に聞かされたことでした。
ですが、「和声ありき」の「音程」というものは、実はそもそも存在しないのです。まずは、それを知って頂きたいと思い、この話題に触れてみようと考えた次第です。
西欧音楽であっても、まずは「音程」が良いから「和声」もきれいに響くのです。ここを誤解すると、自分が憧れる演奏を心の規範にしていたとしても、規範の「音程観」を理解していないばっかりに、いつまでたっても狙った通りの「彩り」で演奏をすることが出来ないことになります。
17世紀以降に鍵盤楽器が隆盛しだし、それに伴って様々な調律法の試行錯誤が繰り返されることになったのも、「和声」と「音程」という、意外に「美しさ」の両立しにくい理屈に対し、西欧人がいかに格闘を挑まなければならなかったかを現わしているのだと、私は思っております。

物の本によると、「和声」以前の遥か昔から、西欧には、ご存知のように紀元前6世紀頃には「ピュタゴラスの音程理論」が存在しました。これは「純正律」と呼ばれる自然な倍音関係(自然倍数比)から導かれる音階を元に、ちょっとだけ調整を加えた音程間隔を定めたものです。これには3度が不協和になるという欠点があります。
やはり純正律がいい、という見方は2世紀に確立しますが、今度は「ドミソ」「ファラド」「ソシレ」がどれも唸らずにきれいに響く反面、五度自体は狭くなってしまうため、せっかくの協和音も、和音で鳴らせばどこか調子っぱずれになります(あとでサンプルをつける「グレゴリオ聖歌」のウィーンの歌唱の方を聴いて下さい)。
それでも「和声」が確立するまでは旋律が美しければ良かったのでしょう、純正律は長い間西欧音楽を支配したものと思われます。
「和声」支配が前面に出始める15世紀以降になって、「音程理論」は様々に火花を散らし合うことになります。
アーノンクールは「私は中全音律に耳が馴染んでいる」と述べていますが、この「中全音律」にも、私の手持ちの本に載っているだけで4種類はあり、しかもそれがさらに多様に混ぜ合わされて使用されたそうですから、「中全音律」というひとつの名前で現わされる音程理論は、最低でも4の階乗分(24)、実際にはまた細かい調整理論がありましたから、数百の種類があったかもしれません。
「中全音律」でポイントとなった「音程」は、とくにどの部分だったのでしょうか?
12音を100刻みで配分した「平均率」と比較しながら見てみましょう。
ハ長調を前提にします。下のドが0とすると、レが200、ミが400、ファは500、ソは700、ラは900、シは1100、ドは1200です。すなわち、半音ごとの差が100となります。
平均率では、ミとファ、シとドの差は、それぞれ100です。
手元で分かる限りでいちばん古い中全音律ではこれがそれぞれ、117、117と広がります。
16世紀の例では121、122となります。
さらに18世紀には、108、108で調整されます(バッハと親交のあったジルバーマンによるもの)。
こうするには他の音程も細かく調整されているのですが、ファとミ、シとドは導音の関係にありますので、そこにだけ着目しました。傾向としては、一旦広がったのが、また距離を縮めて来ているのが見て取れます。
18世紀末にはこれがだいたい112、112というところで落ち着きます。

で、最初に上げたモーツァルトの演奏の新旧対比ですが、もうお気づきでしょう?
導音と主音の関係の広さが違うのが、最も目立つ違いですね。3度についての「広い狭い」にも同じような特徴が見られます。
調律は専ら鍵盤楽器などの話だ、ということだったのでしょうか、少なくとも20世紀中葉の音程観では、導音は主音になるべく寄り添い、長三度は可能なだけ狭くとり、そのことによって緊迫感を生む、という風潮があったのではないかと推測されます。私が学生オケ時代は、実際にそういう要求が常になされました。ジルバーマン的だった、ということでしょうか。ということは、バッハ的音程観に近かった、とも言えるのでしょうかね?
最近は、導音と主音の関係が中全音率的に広がり、それに対する批判も当初はずいぶんあったと記憶しております(平均率になってしまった!という表現でした。上記の導音と主音の幅を見ると、「いえ、その逆です」ということが明確に言えます)。導きだされる和音の響きがそれだけ異なるからです。
もともと、世代的な差というだけでなく、導音と主音、三度の幅に対する音程観の違いというのは演奏者の出身地域によって結構差があったもので、イタリア弦楽四重奏団という名カルテットは上のカザルス四重奏団と実に似た音程観の団体でした。したがって、単純に世代差と言い切ることも出来ないのですが、室内楽に限らず、たとえばワーグナーの音楽の色彩までが明るくなる傾向にはあります。1950年代のバイロイトのライヴがたくさん出始めていますから、これをたとえばレヴァイン/メトの音楽の「彩り」と比べて見るのも面白いと思います。

どういう音程観を持って行くべきか、に正解はありませんが、ある団体が「まともな」音楽をやろうと思ったら、その団体内で音程観を統一しておかないと、結局はその演奏から生まれる「彩り」はくすんだものになってしまうでしょう。私たちはどういう音程観で進むべきか?
それを、次のグレゴリオ聖歌2例(同じ曲です)とその有名な引用をお聴きになりながら、また少し頭をひねってみて下さるようでしたら、これに勝る喜びはありません。




(最後の曲が尻切れとんぼですみません。)

(7月20日付記)以上を踏まえ、先日のTMFの「さまよえるオランダ人」序曲の演奏を聴いてみて下さい。和音がハマらない箇所では誰かの音程が浮いているのが明確に特定出来るはずです。

次は何で考えて行きましょうか・・・フレーズ、でしょうかね。

*下記は、アフリカ、ブルガリア、トルコ、南・東南アジアに東アジアを網羅した民族音楽のオムニバスで、この手のアルバムの中では最もお奨めです。それぞれ、より詳しく知りたければ別にその国ごとなどのCDも出ていますので、いいガイドにもなります。ホーミーや「スーホの白い馬」も収録!



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