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2006年7月19日 (水)

流行歌マニアの嚆矢:後白河法皇(1)

<定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:


「イタリア旅行前のモーツァルト」こちら
前回の『明月記』関係こちらで。


『明月記』関係、やっとこさ二回目を綴ります。

『明月記』を読むと、定家の野次馬根性ぶりには目を見張ります。
「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」
などという文句は本音ではなかった、と評価する人がいるのも当然です。
・・・まあ、えてして人間の本性などそんなもので、とくに定家だけが非難される筋合のことではありません。かくいう自分だって、どんなもんだか。

建久三年三月、「後白河法皇薨去」前後の明月記の記事がにわかに活発化するのも、三十一歳になってなお、いや、晩年まで衰えることの無かった、彼の世事への関心の強さを象徴しているかのようです。とはいえ、彼の世事への関心は専ら京の中の出来事に限られているようなきはしますけれど。でなければ家計と自分への処遇への愚痴ばかり。もっとも、それが面白いのですよね。

但し、このあたりの明月記の記事と周辺の事情については堀田善衛「定家明月記私抄」に要領良くまとめられていますから、記事そのものにはさほど注目するつもりはありません。このあたりの日々、明月記に記されているのは、院(法皇)はいつごろ亡くなったとか、葬儀の次第はどうで誰がそれに当たったとか、葬儀に当たっての設備の色合いだとか、外面的なことばかりです。
その薨去の日、定家の主家筋である九条兼実が、日記『玉葉』に法皇の人柄を評して
「タダ恨ムベクハ延喜天暦ノ古風ヲ忘ル」
と、暗主として生前の法皇を酷評していた程ではないにせよ、皮肉を一言加えるのを忘れずにいるのとは全く異なり、定家は法皇の人となりにはまったく関心が無かったようです。

一方、堀田氏は「定家明月記私抄」のこの条で後白河の今様狂い(他に色狂いや絵巻狂いの話もありますが、それは別として)に言及し、文末に
「この今様・郢曲等の流行歌は、当然自然にやがて和歌の中へも浸透していく。」
と述べていらっしゃる点、郢曲の方は全く分かりませんが、どうしても関心をそそられます。
その点をほんの少し追及しておきたいと思います。

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