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2006年6月15日 (木)

定家と千載和歌集(4)

俊成参院当日の条だけを読むと、定家の『千載集』との関わりは、あまり直接的ではなかったようにしか見えません。ですが、岩波文庫本『千載和歌集』の後書きにも指摘されている通り、後年、定家が『千載集』編纂時の思い出を『明月記』の中で述べています。

天福元年七月
三十日 壬申(1233年9月5日)
(前文省略)此集(=千載集)作者ノ位署・題ノ年月等甚ダ謂レ無キ事多シ。昔、諌メ申スト雖モ忽チニ(=せっかちにも)信用セラレズ、タダ任意ニ注付ケヲセラル。今之ヲ見ルニ慙思(=恥ずかしい思いをする)ノ事多シ。惣ジテ万事ニ付キ当時ノ存知ニ任セテ先例准拠ノ事ヲ勘見セザルノ故也。(後略)

明らかに、定家が父に対し、『千載集』の編集に意見を述べえる立場にあったことを証明する記録です。

この歌集を私たちがどう捉え、どう鑑賞したら良いかについては、幸いにして平凡社の「セミナー[原典を読む]」シリーズ3に、松野陽一教授のセミナーを記録した
「千載集 勅撰和歌集はどう編まれたか」初版1994
が発刊されています。ということで、このセミナーを頼りにしていきましょう。


定家が「甚ダ謂レ無キ事」のひとつに挙げている「題ノ年月等」については私程度では手も足もでない問題ですから、「位署」の件だけ勝手に推理します。

セミナーの43頁に、「日野切(俊成自筆の『千載集』の断簡)の中に
「頼政の表記がb「従三位頼政」とあることが問題になる」
と記されています。頼政については4頁前に「a前右京大夫頼政」と「b従三位頼政」とあることが、諸本の分類基準の上で大事である旨、述べられています。で、後者の「従三位頼政」の表記は従来は善本には現れてこないものなのだそうです。
ですので、俊成自筆の「日野切」のなかにbの表記があるのは大問題だ、ということになるわけです。

研究上の諸問題は専門のかたにお任せして、いまはごく単純に考えましょう!
(ホントはいけないんだと思いますが・・・)

源頼政の歌は『千載集』に14首採られています。その「位署」はどうか、と見ると、唯一私の手元にある岩波文庫本では、すべて「a前右京大夫頼政」に統一されています。これは底本が「総覧本の形状を有する近世書写の一本([校注者の久保田淳氏の]架蔵)」であって、おそらくは(久保田博士のことですから)善本なので採用されているのではないかと思われます。(残念ながら私には底本についての詳しい知識は皆無です。。。)
「善本」と呼ばれる系統が全て「総覧本の形状を有する」のかどうか知りませんが、いちおう「有する」のだと仮定すると、これは正式に承認された最終的な『千載和歌集』を反映している、ということになるのではないか・・・とすると、「位署」についても見直しの終わった後の、修正された記述が採用されているのではないか・・・
で、その修正には、当時必死で歌を勉強していた定家が相当に関与したのではないか、というのが、ごく単純で拍子抜けですが、私の結論です。

後述することになると思いますが、このころ、定家は西行から判を委ねられた『宮河歌合』に四苦八苦していました。翌文治五年に完了することになる『宮河歌合』の判辞には、定家の苦闘の痕がはっきりと読み取れます。
で、彼に判を任せた西行という人が崇徳院と関わりの深かった人物であることは、『雨月物語』
第1話「白峯」を待つまでもなく、周知の事実です。『宮河歌合』に戻って、その32番目を見ますと、ここにはわざとでしょう、崇徳院の配流に関係する回想とおぼしき歌が番えられていて、それに加えた定家の判がまたふるっている。
「左右ともに旧日之往事。故に判を加えず。」
些細に見えますが、『宮川歌合』の判を依頼されてから定家が何とかそれを終えるのに二年以上の月日がかかっていることを考えると、この「判を加えず」のためにも相当勉強の時間を費やしたことが伺われます。
『宮河歌合』の他の歌でも西行がわざと定家を試そうとして番えたのではないかと思えるような意地悪な番もありますから、もちろん、定家は広範囲の勉強をもってそれに応えたに違いなく、それを見て取ったからこそ、西行も大満足することになったのだろうと思います。

『宮河歌合』の件は定家の『千載集』位署への関与を示す証拠には全くなりませんが、その過程で彼はもちろん、あらためてそれまでの勅撰集をもよく確認しなおしたはずです。
すると、たとえば『千載集』の前に位置する『後拾遺和歌集』(『金葉集』・『詞花集』を考慮しない理由は、セミナーの第二講によりますので、ご参照いただければ幸いです)の位署には、「従三位誰々」などという表記は一切無いわけです。もちろん、『後拾遺集』から遡った他の勅撰集でも同様です。
そんな次第で、もう高齢だったうえに
「いいよ、そんなこと、いちいちこだわらなくたって」
の域に達していたとおぼしき俊成に対し、若い定家は勉強の成果に意気込んで
「だめです、そんなことでは!」
と鼻息を荒くしたのでしょう。そのことが天福元年、久々に『千載集』を手にした定家の胸にありありと蘇って来たのに違いありません。
で、こんにち「善本」とされているものには、定家の口出しが大きくものを言った結果が反映されていて、俊成が文治四年四月二十二日に院へ持参したもの通りでは勿論ないわけです。
なにも、定家を云々しなくても、(3)で触れた「もっと撰者の歌を増やしなさい」がこんにち残っている『千載集』にはきちんと数で反映されているわけですから、まあ、ごくあたりまえの結論にしかなっていませんネ。

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