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2006年6月14日 (水)

なぜ『響き」あわない?

隣の市で、周辺地区の中学・高校の吹奏楽演奏会があり、娘も出演するので、家内が一定時間休暇を取って私を連れていってくれました。残念ながら、いまはまだ乗り物での移動でも疲れてしまうし、ずっと聴いているとこたえますので、娘の学校を含め3団体しか聴けませんでした。
共通して思うのは、大きくは
「なぜ、もっと音が伸びないんだろうか」
「なぜ、キレイに響き合うということに対して鈍感なのだろうか」
という2点です。
うまい学校に対しても、不思議ですが、この印象は変りません。ママさんコーラスの類いにも同じ感想を持つのが常です。
手先の技術をアクロバティックに聴かせることには誰でも夢中になりますが、それがほんとうに「音楽の目指すもの」・「音楽で身につけるべきもの」なのでしょうか?
中世のヨーロッパでは音楽は[調和]を体得するための学問だったそうですが(ホント?)、日本でも『古今和歌集』の序の趣旨は(和歌が歌われるものだと前提すれば)人の心から自然に出るものを巧まずに『歌う」ことが大切だ、ということではなかったか、と理解しています。
そのくせ、人間の妙なところは、『自然な表現」をするのにまた様々なルールを作ってしまい、それに縛られていく習性。
ほんとうは、体が無理なく働けば、声でも楽器でも、個々の体にふさわしいだけの『美しさ」で響くはずだし、その集合体が響き合えば豊かな「音楽」が生まれてくるのが当然なのではないだろうか?
ふとそんなことを考えているうちに、今日は帰宅してからさっきまで眠り呆けてしまった次第です。

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