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2006年6月15日 (木)

定家と千載和歌集(2)

文治四年四月二十二日は申年で、西暦でいうと1118年5月20日、干支は戊子(こういうのが簡単に調べられるツールが、いまはあるんですね!)。
ちょっと脱線して、この日、鎌倉の方では何があったか、と『吾妻鏡』を覗いてみますと、

「夜に入りて、御台所(=北条政子)の御方の女房[千手前と号す]、御前において絶入(ゼツジュ、気絶すること)し、すなはち蘇生す。日来させる病なしと云々。暁におよび、仰せによって里亭に出るづと云々」(この日の天気の記載は無し)

とあります。彼女は三日後の二十五日に二十四歳で亡くなります。
かつて一の谷の合戦で捕虜になった平重衡が鎌倉に幽閉された時、その身辺の面倒を見たのが、
この千手前でした。壇ノ浦で平家主流の滅亡が決定づけられたときまでは、重衡は源氏方の外交道具として生かされ続けたのですが、結局は元暦二年六月二十二日に京近郊で斬罪に処せられました。源頼朝は彼には心服していたらしく、殺す意志はなかったようです。しかし残念ながら源平争乱の発端の一つでもあった南都焼討ちの総大将だったこともあり、刑に処さなければ東大寺などの連中が納得しなかったのだ、と言われています。それから四年後に、千手前は急死したわけです。日頃、重衡の悲劇に切々たる思いをつもらせていたのが死因ではないか、と、世人は噂をし合ったようです。

重衡は人柄も良く、女性には人気が高かったようで、まだ平和な時期に内裏で冗談を言っていた姿が『建礼門院右京大夫集』に活き活きと描かれているのも有名です。同じ書の中で、やはりその最後が悲しまれ、惜しまれています。
また、重衡が刑死を目前に法然上人の指導を仰いで念仏を唱えた、というエピソードもありますが、真偽のほどは分かりません。

野次馬ついでですから、同じ日の京都の様子はどうだったんだろう、と『玉葉』を覗いてみますと、
「此の日、吉田祭なり」
とあります。兼実は物忌みの日かなにかで、出掛けません。・・・物忌み、というのは、とくに重役貴族には体のいい休みのいいわけだったような気がしないでもありませんが、専門家の方から見たら、どうなのでしょう?
それはともかく、「平安時代 儀式年中行事事典」なるものの目次を見ただけで、京というのは年がら年中祭礼ばかりで、世が武士に牛耳られ始めようとしているのに、なんとまあ、あいかわらずな、と思わざるを得ません。
吉田祭は、藤原北家出身の中納言山陰が創祀した吉田神社(春日大社の四神を勧請した神社。ここの神主の後裔が『徒然草』で有名な兼好法師)の年二回行われる祭で、式日は年二回。うち一回目が四月中申日ということですから、本来は五日前でなければならなかったはずですが、その日の記事を見ると、そこには「平野祭也」、と、また別の祭が行われているありさまです。もう、お祭りラッシュです!
それから、二位中将なる人物が師匠について「論語」を読み始めた、という記事もあり、兼実がそれに感服していることから、当時既に「論語」は少なくとも勉強するのにふさわしい本だと思われていたことも分かります。二位中将は兼実の何れかの子息をさすのでしょうが、私は当時の彼らの位階を知る為の史料を持ち合わせていません。ただ、長子の良通は同年中に内大臣兼左大将という地位で若死にしてしまいますから、位階と「中将」ということから、次子の良経を指しているものと考えています。もし正しい情報があれば、どなたかご教示頂けると幸いです。


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