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2006年6月15日 (木)

定家と千載和歌集(8)

撰入歌のもうひとつの特徴、選ばれた定家の歌の年齢的な範囲について、です。
出処を突き止めた七首中、1004番の歌を例外として、残り六首が「初学百首」と「二見浦百首」からとられていることには、父からの、後継者としての定家への大きな期待が込められていると解釈したいと思います。
ただ、なんといいましても私自身和歌の知識は皆無に等しく(いえ、皆無そのものです)、ただ感覚的に鑑賞するのが関の山ですので、主観的なことを述べるに留まる点はご了承下さい。

まず「初学百首」については、堀田善衛さんの『名月記私抄』(文庫本57頁)にある素晴らしいコメントにただ唸るばかりで、他の資料を読んだこともありませんので、私には言えることは何もありません。


Book

定家明月記私抄


著者:堀田 善衛

販売元:筑摩書房

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その文中、堀田さんが「初学百首」秋二十首の最初の七首を続けて掲載し、
「一首一首を、というよりも、むしろ一気に「をしなべて」から「秋こそ月のひかりなりけれ」までを読みついで行って頂きたい」という言には確かに従うべきで、春、夏、冬、恋に至るまで、そのかたまりごとに詩としての一貫性を読み取ると、二十歳の定家の感性がひしひしと伝わってくる気がします。
堀田氏が「マダマダだな」という具合に扱っている恋の部についても、現在だって二十歳くらいじゃこのくらい歌うのが精一杯じゃないか、と、定家に味方してあげたくなります。
たとえば
「夢の中にそれとて見えし面影を この世でいかに思ひあはせん」
とか、
「いかにせん 憂きにつきても辛きにも 思ひ止むべき心地こそせね」
なんていうのは、現代語訳したらちょっとした流行歌の歌詞として通用するのではないかしら。
・・・いや、演歌向きかなあ。。。
ただし、堀田氏が仰る通り、この「初学百首」が成った年は京都では多くの餓死者がでていた(養和の大飢饉)という事実を記憶しておかなければなりません。
「それなのに、なんと呑気な」
とお思いになるでしょうか?
ここの受け止め方が、当時の世間の仕組をどう考えるか、重要な鍵になるはずです。その鍵が、現代にも通用する問題点を持っているのではないか、と私は感ますが、これについて結論めいたことを述べるほど認識が深まっていませんので、ここはお読み下さった方のご意見等も伺いたいところです。

四年後の「二見浦百首」は、堀田氏は詳述していませんが、定家の読みぶりには、この百首の勧進者である西行のなだらかな歌い方を意識しつつ、一首一首丁寧に取り組んでいるさまが見て取れるような気がします。年齢も少し加わったせいか、後年の定家からは想像しにくいほど素直な歌の多かった「初学百首」に比べ、「二見浦百首」には「機知」を取り入れようとする苦心が随所にあるからです。
たとえば、季節は異なりますが、「初学百首」冬歌中の
「友ちどりなぐさのはまの浦風に空さえまさる有明の月」
を、「二見浦百首」秋歌中の
「有明の光のみかは秋の夜の月はこの世になをのこりけり」
の作りを比較してみて下さい。
どちらかというと伝統の技法をストレートに利用した前者に比べ、後者は父俊成も重視した「イメージの明瞭さ、そこからもたらされる深み」の世界に向かって静かに歩を進め続ける定家の、強靱な集中力を感じ取らずにはいられません。
なお、この前年、定家は宮中で喧嘩をして除籍の憂き目にあっています。集中するにはいい環境、だったでしょうか。

父、俊成は、そうした定家の、歌に対する素直な姿勢、工夫への努力を常に見守り、大事に育てていきたい、という願いを込めて、定家の処女作「初学百首」にも遡り、西行から課せられた厳しい課題のひとつである「二見浦百首」から、あえて中心的に我が子の歌を選んだのではないでしょうか。

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