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2006年6月25日 (日)

評価するとは(CD等・他演・自演・作品)5

最後に、そもそも、演奏される「作品」とは何なのでしょうか?
「評価する」という行為の中に、「作品」そのものは、私たちの心の中でどれだけのパーセンテージを占めているでしょうか?

病休に入る直前から、
「そういえば、モーツァルトの伝記は色々出ているけれど、作品を網羅的に分析した本にはあまりお目にかかっていないな」
などと感じ、
「じゃあ、自分で全部接してみようか」
と大それたことを考え始め、楽譜・CDを片っ端から収集し、たどたどしいピアノで、なんと、ものによってはスコアまで弾いてみるという愚挙に出始めてみました。
ああ! なんと私は、モーツァルトをちゃんと知らなかったことか、と痛感しています。
最初の作品からたどっていってみると、彼の音楽は単なる「天の授けもの」では全くありませんでした。肉体の成長とともに、彼の精神も如何に成長していき、苦悩していき、時に浄化され、時に地獄に堕ちているか、が、まだほんの少しですが、感じられるような気がしてきました(まだまだ「気のせい」ですが)。

高校時代だったか、吉田秀和さんのある評論に、つい腹が立ってしまったことがありました。
譜例にモーツァルトの交響曲第39番第1楽章主部のホルンの「ドミソー」を引き、併せてヨハン・シュトラウスの「青きドナウ」の「ドミソソー」を並べて曰く、
「モーツァルトの方が耳が良かった!」
そもそも音楽に求められる性質(聴衆のニーズ)が違う作品に対し、なんたる差別的発言か、と、長年これには怒りを抱いてきました。
それが最近、別の方の若かりし頃の回想に、
「『君はモーツァルトの専門家だが、モーツァルトの何処が面白いんだい? どれをとってもドレミファソラシドかドミソばっかりじゃないか』、というのが当時の雰囲気でした」
とあったのを見て、ああ、そうだったのか、と思いました。「当時」とは吉田さんが上の評論を書いたのとほぼ同時期にあたるはずです。

評論をするということには、その文が書かれる本の一瞬の「時代」の反映もあるのです。そのことを、やっと知らされた思いでした。

「作品を見る」〜楽譜としてか、舞台としてか、音としてかの違いはあるものの、それそのものを素直に正直に成し遂げることは如何に難しいか、と感じています。
ついでに言えば、「音」というものは、決して「見えない」ものではありません。
コウモリは、我々には聞こえない叫びを発し、それが反射してくる音を「見て」、えさとなる昆虫を捕まえるのです。
人間である私も、演奏会で何度か、「音が見える」経験をしたことがあります。「色聴」というものとは違います。
たとえば、ある素晴らしいバイオリニストがコンチェルトを弾くのを伴奏したとき、そのバイオリニストがならした音が、ホールの最奥の壁の「この箇所にぶつかって」「こちらへ跳ね返って来た」のも見ました。
ロシアの名もない合唱団のコンサートで、バス歌手の声が耳に達する前に、まず低い音の波が同心円で広がってきた様子も、ありありと目に見えました。
「作品」は「楽譜」だけで見えるものでもないし、なおいっそう「演奏を通して」見える、というものでもありにくいのですが、究極は「作品の姿」が私たちの前に彫像のように、あるいは神々しい生物のように浮かび上がってくるさまを、是非目撃してみたいとはお思いになりませんか?
そうした思いで、自分が乗り番であるか降り番であるかに関わらず、自分たちの演奏会を厳しくみつめ、そこに浮かび上がる像の出来不出来をあとあとよく省みられるように臨んで頂けることが、私の心からの願いです。

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