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2006年5月 7日 (日)

クリスチャン・バッハ略伝

モーツァルト好きには有名な話ですが、レオポルド、ヴォルフガング親子が共通して「最高の作曲家」と評価したまれな存在が、この「ロンドンのバッハ」でした。

ヴォルフガングが、苦悩の時代をすごしたパリ近郊から父に送った手紙・・・
「お父さんも良く知っているように、僕は彼(=クリスチャン・バッハ)が心から大好きですし、また最高に尊敬もしています。」

父レオポルドが、息子の冗長な作品に注文を出した手紙・・・
「美しく、短く作曲できなければ良い作品にはならない。ロンドンのバッハのようでなくては。」

また、クリスチャン・バッハの訃報を聞いて息子が父に綴った言葉・・・
「イギリスのバッハがなくなったのをご存知ですか? 音楽の世界にとって最大の損失です。」

(記憶で綴ったので、正確な文ではありません。あとで英訳を確認しましたら、とくにレオポルドの文は不正確です。主旨は合っていますのでご了承下さい。)

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モーツァルト父子は、はたして、クリスチャン・バッハを過大評価していたのでしょうか? 父子がこれほどまでに言葉をきわめて賛美した人物が、現在ではほとんどかえりみられません。

クリスチャン・バッハは、生前、間違いなく高く評価された作曲家でした。彼の時代、バッハと言えば1にクリスチャン(ロンドンのバッハ)、2には兄エマヌエル(ベルリンのバッハ、またはハンブルクのバッハ)を指しており、決して大バッハ(ヨハン・セバスチャン)ではなかった、という話も、いろいろな本にしばしば言及されているところです。しかも、エマヌエルは知名度の点では異母弟クリスチャンには大きく水をあけられていました。
大バッハが息子たちの名声を圧倒するようになるのは、メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の復活上演以降のことだった、という事実は、どなたもご存知のとおりです。
エマヌエルのほうは、最近は父に続いてCDも楽譜も多く手に入るようになり、知名度はクリスチャンと逆転してしまいました。
エマヌエルの伝記は、日本人著者によっても1冊の本として書かれました。しかし、クリスチャンについては、18世紀ドイツオペラの作曲家列伝的な書物に、ほんの十数ページ掲載されているだけであり、それも真贋入り混じったエピソードの連なりに過ぎず(筆者はエピソードの出所が事実か噂かを全く明記していません。下記1989年の詳しい伝記を参照しているはずなのですが、きわめて残念です)、生涯の情報について、少なくとも日本語文献上では兄ほど明確になっていません。
クリスチャンに関する最新の伝記は1989年にドイツで書かれ、5年後に英訳されています。探した限り、海外でも、第二次大戦後ではこれ1つしかクリスチャンの伝記は見当たりませんでした。
その序文が象徴的です。
「歴史家たちは彼を無視してきた。・・・私(著者)はその理由を見つけることから始めてみよう。」

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1989年の伝記作者が記した「クリスチャンが無視された理由」の第1は、前述の『マタイ受難曲』復活上演を機に起こった大バッハルネサンスです。以降、大バッハの再評価が進むにつれ、反対にクリスチャンやエマヌエルがそれまで得ていた評価も、事実は彼ら自身の活動から勝ち得ていた名声だったことが忘れられ、
「父親の名声のおかげ」
ということにされていってしまったのでした。
それでも、作風がバロックに近く、かつドイツを離れたことがないエマヌエルは、
「父ヨハン・セバスチャンの正当な後継」
とみなされた分、権威を失墜させられるまでの不幸にはみまわれませんでした。
クリスチャンは、作風が父と大きく乖離しており、かつ作品が平明で単純に感じられがちなのが災いしました。
父が復権するにつれ、クリスチャンの方は
「父の存在がなかったら、彼は忘れられていただろう」
というのに近いほど、評論家たちから小物扱いされるようになってしまったのでした。

伝記の著者は前書きではほのめかし程度しかしていませんが、大バッハ関係の著作などから伺えるあと2つの理由は、
・クリスチャンは修業時代を過ごしたあと一度も故郷に帰らなかったこと(彼と経歴の似た先輩、父と同年生まれのヘンデルは、時々帰省していました。)
・クリスチャンはイタリアに行ってからカトリックに改宗したこと
です。
とくに、カトリックへの改宗は、それまでプロテスタントの中で活躍していたバッハ一族のイメージを壊すものとして、主にドイツでクリスチャンが無視されていく大きな要因になったかも知れません。

けれども、クリスチャンは、無視され忘れ去られるにはもったいない、ステキな性格の持ち主だったことが、モーツァルト以外の人々の記録からも伺い知れます。
特に面白いのは次のような逸話です。

クリスチャンは、父の死後、ベルリンで次兄エマヌエルの世話になり、音楽修行を続けたのですが、修行中に作曲したクラヴィア協奏曲の、とある2つの草稿に、非常に対照的な書き込みが残されているそうです。
ある1曲は、兄の手で、
「エマヌエルの監修(により仕上げられた)」
と無愛想な文言が記されているのですが、別の1曲は、草稿の末尾に、クリスチャンの手でこう記されているとのことです。
「このコンチェルトは僕が作った。・・・なかなかキレイじゃないかい?」

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ヨハン・クリスチャン・バッハは、1735年、父ヨハン・セバスチャンが51歳の時に生まれました。
私はキリスト教徒ではないので由来がわかりませんが(ご存知の方、お教え下さい)、子供が誕生すると、親は付合いのある有力者をその子の名付け親に仰ぎます。クリスチャンの名付け親に選ばれた一人は、父の上司でもあるライプツィヒ聖トーマス学校の校長、J.A.エルネスティでした。エルネスティは前年に校長となったばかりでした。
前任校長のゲスナーはヨハン・セバスチャンの強い味方でしたから、ゲスナーが後任に選んだエルネスティとも良好な関係を保っていけるだろう、という観測のもとに、父はこの新上司を末息子の名付け親に頼んだのでしょう。
しかし、ことはそううまく運びませんでした。
エルネスティは音楽教育に関して、セバスチャン・バッハの死までその最大の敵となったのでした。
背景には、時代の急激な変化がありました。
「啓蒙主義」の流行です。
「啓蒙」とは、「誰もが、自然で、平明に」を旗印とした思想を軸にした社会運動を指すものです。代表的な思想家のひとりがジャン・ジャック・ルソーで、彼の著作の一タイトルが、まさにこの社会運動を象徴しています・・・『人間不平等起源論』。すなわち、不平等を嫌う考え方が世の中を覆い始めたのです。
エルネスティは古典文学に造詣が深く、後年ゲーテがその講義を受けたほどの英才でした。ギリシャやローマの古典を通じ、古代自由思想を理想としていた彼は、啓蒙主義の推進者として、権威を嫌い実利を重んじる校風作りを目指したようです。結果として、対照的に権威を楯と頼んで音楽活動を続けてきたセバスチャンのやり方にことごとくメスを入れ、エルネスティはセバスチャンを苦境に陥れたのでした。
父バッハは、外からも追いつめられていました。啓蒙主義社会は音楽そのものにも平明さを求めてメロディ至上主義を唱え出し、平明さに反する音楽家の代表格として、露骨な比喩で、実質上名指しでセバスチャンを槍玉に上げたのです。
クリスチャンは、こうした父の苦境を目の当たりにしながら成長していきました。一方、父のほうも、時代の新思潮と自分の育んできた人生観に大きな落差が生じた現実に目をつぶろうと『音楽の捧げ物』や『フーガの技法』という最も複雑な技巧に満ちた作品に自らすすんで埋没して行ったように見えます。そんな精神的姿勢のせいもあったのでしょうか、最後は心ばかりではなく、肉体の目も視力を失います。
諸説ありますが、後年の作風からみて、クリスチャンは兄フリーデマンやエマヌエルの域までの音楽教育は、父からは受けられずに終わったように思われます。クラヴィア演奏家としては完全な、しかし、創作家としては入り口まで、というのが、父に授かった教えの全てだったのではないでしょうか。大成したクリスチャンが、たった一度だけ、父の思い出を口にしたことがあるそうです。それは、こんな話でした。
「あるとき、僕が無意識に鍵盤を叩いていて、四六の和音の通奏低音付けを間違っちゃったんだ。そしたら、それまで脇でグッスリ寝ていた父さんが、突然ガバッと起きて、正しい弾き方を僕に教えてくれたんだ・・・」

父の死後、十五歳のクリスチャンは、フリードリッヒ大王傘下の楽団に所属していた次兄エマヌエルに引き取られ、ベルリンでこの次兄からなお4年ほど音楽の手ほどきをうけ、かつ、兄の庇護のもとでベルリンの音楽家達と親しく交わるチャンスを得ました。ただし、当地でクリスチャンが友人を得たのは彼自身の性格によるところが大でした。クリスチャンは母譲りの陽気で優しい人柄だったと言われています。
反面、兄エマヌエルは、ユーモリストではあったものの、そのユーモアがしばしば毒を含んでいたり、妻が富裕な商人の娘だったこともあってか、金に汚く利に聡かったりして、必ずしも周りに好かれる性格ではなかったようです。
それでも、クリスチャンは音楽家としての着実な基本は、この兄のおかげで習得できたのでした。兄は間違いなく最高の鍵盤楽器奏者でしたし、父の技法を受け継ぎながらも、時代の雰囲気に適った直裁な作風で優れた音楽を生み出し続けていました。また、推測の域は出ませんが、クリスチャンがロンドンで活躍できる素地作りにも、兄エマヌエルが一肌脱いでいた可能性もあります。クリスチャンがロンドンに渡った同時期に、兄エマヌエルの弟子を公言してくれていたゾフィー・シャルロッテがイギリス王妃となっているからです。

ですが、クリスチャンのイタリア行きには、兄エマヌエルは貢献していません。
彼のイタリアへの出発については、こんな説話が流布したそうです。
「兄の同僚であったアグリコラが結婚し、イタリアの新婦の実家へ行くことになったが、面接の上で、連れていく従僕を決めた。その従僕はヒゲ面の老人だった。イタリアの目的地に着くや否や、ところが、従僕は初めて巧みな変装を解いた。鬘を脱ぎ捨て、付け髭を取った従僕は活き活きとした若者、クリスチャン・バッハその人だった。」
日本語で現在唯一読める短い伝記にもこの説話が「実話」として採り上げられていますが、アグリコーラの結婚は1751年、クリスチャンのイタリア行きは、3年後の1754年であることが分かっていますから、残念ですがこの話はウソです。

クリスチャンのイタリア行きを熱心に奨めてくれたのは、フリートリヒ大王と懇意だったボヘミアの支配者、ロプコヴィッツ伯爵家の嗣子にあたる人物(ベートーヴェンを後援したロプコヴィッツの父)でした。この人は、クリスチャンがベルリンに移ったばかりの1751年から、すでにクリスチャンを見込んで、そのイタリア行きを熱心に奨めていた節があります(この年にハンブルクへ旅したエマヌエルが、旅先で話題にしていることから、事情が伺われます)。
それでも、兄は、弟を養育しなければならないという義務感からでしょうか、なお3年はクリスチャンを手元から離しませんでした。
ですが、やがて7年戦争勃発し、フリートリヒ大王が宮廷楽団の規模縮小をほのめかすと、兄は念のために、新しい就職先を探す必要に迫られました。父親譲りと思われるエマヌエルの頑固な音楽観は、大王には煙たがられていたからです。
そうなると、クリスチャンもこれ以上、兄の家計に迷惑をかけるわけには行きません。
詳細な事情は判明していませんが、おそらく経済的な事情から、クリスチャンは数年にわたるロプコヴィッツ伯の好意に応え、ロプコヴィッツ家と親しかったミラノのリッタ伯爵をパトロンに仰ぐことになったのでした。

イタリアでは、当時最も高名なマルティーニ神父が、クリスチャンの音楽の師となります。
いつごろの作品かはわかりませんが、クリスチャンの手になる「<BACH>によるフーガ」というオルガン曲があります。ここで繰り広げられる対位法は、タイトルから予想されるイメージとは異なり、父や兄フリーデマン、エマヌエルのものとは全く違います。むしろ、ハイドンやモーツァルトのフーガに近いものがあります。・・・
ハイドン、モーツァルトの対位法はマルティーニが教えていた対位法と同じルーツのものです。したがって、クリスチャンのフーガが意味するのは、クリスチャンの対位法の師は父でも兄でもない、マルティーニであった、という事実です。
マルティーニのもとで、クリスチャンは数多くの教会音楽を熱心に作っては師の指導を仰いでいます。そのため、教会音楽の色合いも、父や兄達のものとは全く異なっています。
この点は、以後のクリスチャンを考えるときに、重要な鍵のひとつとなります。

マルティーニの元で修行に励むクリスチャンを、パトロンのリッタ伯爵は宗教音楽とは別の方向・・・すなわち、オペラへと向けさせようとし出したことが、イタリアに住んで3、4年経ったクリスチャンの書簡から伺われます。
クリスチャンはマルティーニの住むボローニャに滞在することが困難になり、リッタ伯爵のお膝元であるミラノに拘束されることが増えていきました。
リッタ伯爵のもくろみは1761年、クリスチャン初のオペラ作品として成就しますが、その結果は、リッタ伯爵にとって思い掛けないものとなります。

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ミラノでのパトロン、リッタ伯爵の刺激により、クリスチャンは、バッハ一族で唯一のオペラ作曲家となりました。
しかも、第1作からして、リッタ伯の思惑を遥かに超えた成功を収めたのですから、大変なことです。興行師がクリスチャンの才能に目を向けるのは当然でした。
クリスチャンのもとへ、リッタ伯爵を通さないオペラ創作の打診が来るようになり、彼は尚2作をモノにします。2作目は第1作に続いて大きな反響を呼びましたし、第3作はそこまでとはいかずとも、まずまずの成功といえました。

リッタ伯爵は、なにも、クリスチャンをオペラ専門の作曲家にまでしようと考えていたわけではありません。クリスチャンの視野を広げたかっただけなのでしょう。その証拠に、リッタ伯はクリスチャンをミラノのある教会のオルガニストに就任させることにも注力しました(これに伴い、クリスチャンはカトリックに改宗します)。
しかし、父や兄たちと違い、オルガンはどうも、クリスチャンの嗜好と能力には合わない楽器のようでした(後年、彼の弾くオルガンについてロンドンのある婦人が「あまりうまくない」という感想を漏らしています)。そのため、クリスチャンは、オルガニストとしての勤めは充分に果たそうとせず、歌劇場でバレリーナといちゃついているありさまでした。リッタ伯爵は、そんなクリスチャンに愛想をつかし、二人の関係は断絶してしまいます。・・・それでもなお、ロンドンに永住を決意するまで、クリスチャンはミラノの教会オルガニストの地位は失いませんでしたが。

「ミラノにいづらくなったから」
そんな理由でクリスチャンはイギリスへ渡ったのだ、という話もありますが、どうやら彼にはそこまでの罪悪感も、逃避したい気持ちも、あったわけではなさそうです。
たまたまイギリスの興行師が有利な条件を持ち出したので、初めは
「モノは試し!」
くらいの考えで、彼はイギリスのオペラ界に顔を突っ込んだのでしょう。

経緯は省きますが、ロンドンに渡った1762年に、イギリス王室に輿入れした女王で兄エマヌエルの弟子であったシャルロッテ付の楽長となり、翌年には2つのオペラを成功させ、「ロンドンのバッハ」としての輝かしい一歩を踏み出します。
日本の芸能界にもあるそうですが、当時の音楽家の世界にも激しい足の引っ張り合いがあったことは、モーツァルト親子がサリエーリを目の敵にした事例などでご存知の通りです(映画『アマデウス』ではサリエーリの方がモーツァルトを嫉妬したことになっていますし、モーツァルトびいきはいまだにそう信じていますが、史実を確認すると、サリエーリはモーツァルトを嫉妬していた形跡がありません。むしろ、鷹揚に構えていたように見えます。・・・脱線してすみません)。。
ロンドンの王立歌劇場も、足の引っ張り合いが激しく演じられた場所でした。
行ったばかりで大成功をおさめたクリスチャンは、早くも翌年には歌劇場の勢力争いに巻き込まれ、支配人の座が彼の対抗派に握られると同時に大切な歌手を解雇されたり、オペラ創作のチャンスを横取りされたりします。
それでも彼は、王室の保護も得たことだし、当面はイギリスに腰を落ち着ける決心をかため、64年頃にやっと、ミラノのオルガニストの座を降りたと思われます。
そこで新たに彼が打った手が、有名な「バッハ=アーベルコンサート」です。
アーベルは父セバスチャンの元にもいたことのあるガンバ奏者で、クリスチャンとは旧知の仲だったのかも知れません。彼も1761年にはロンドンに来ていました。
二人が知り合ったのは63年だと考えられますが、そこで経済的な目論見が一致したのでしょうか、年下のクリスチャンが経営する恰好で、「バッハ=アーベルコンサート」は1764年から開始され、後述する事件でクリスチャンが高額の債務を負うことになった1780年まで、高い人気を保ったまま継続されることとなります。

コンサートが開始された64年、モーツァルト親子がロンドンを訪ねてきます。王に拝謁した8歳のヴォルフガングを、クリスチャンは王夫妻の目の前で膝に抱き、二人は二時間ほどぶっ続けで一緒にクラヴィーアを演奏しました。お互いに謎掛けし合うように手を交代しながら弾いたそうですが、ヴォルフガングの姉、ナンネルの記憶によると、
「まるで一人で弾いているように見事につながっていた」
ということです。
幼いヴォルフガングは、この経験でその人柄に魅せられ、かつはその作品の透明さに深い印象を受け、生涯「ロンドンのバッハ」を尊敬し続けることとなります。

ロンドンに渡った時27歳だったクリスチャンに残された命は、あと19年強です。
「ハッピーエンド」を嗜好した当時の観衆に応え続け、対外的にはさしたる浮沈もなく過ごした彼にとって、これは短か過ぎる期間だったでしょうか?
オペラ界で高い評価を得た人物にしては、彼は先輩のヘンデル(36年間で41作)、心酔者モーツァルト(ジングシュピールを含め24年間で17作)に比べ、オペラの数は20年間で13作程度、と、数でも割合でも思いがけないほどの少なさです。これは、オペラに限らず器楽でも「ハッピー」な印象の強い作風でありながら、彼が内面では起伏の激しい生活を送っていたことを反映しているのかも知れません。
ロンドン・オペラ界のドタバタに振り回され続けたのも勿論ですが、彼はまたハンサムでモテモテだったために、恋多き男だったようでもあります。
アーベルと演奏会を開始した7年後、一家でロンドンへやって来たマンハイムのソプラノ歌手に、クリスチャンはメロメロになってしまいました。その父の誘いを受けて、
「ヘイ、ヘイ!」
という感じの実に軽いノリで、クリスチャンは一家の帰郷にくっつき、マンハイムへと向かいます。
その地で旧作のオペラを上演し高い名声を得たクリスチャンは、彼女と結婚してマンハイムに居残る腹積もりでした。張り切って、彼の作品の中でも際立って美しい
「4声と合唱のためセレナーデ『エンディミオーネ』」
も作っています。
残念ながら17も年下、しかも引く手あまたの美人だった彼女に見事にふられ、クリスチャンは深い傷心にいたたまれず、さっさとロンドンへ帰還します。幸せはその地で待っていてくれました。ミラノ時代から顔見知りだったと思われる女性、チェチーリアが、1773年、クリスチャンを生涯の伴侶として抱き留めてくれたのです。

個人の幸せをようやく掴んだクリスチャンの、短い絶頂期は1776年から78年。この最初の年に、クリスチャンは師マルティーニに「大音楽家コレクションのため」と乞われて有名な肖像画を師宛に送ります。終りの年があまりに早いのは、対岸のフランスはパリでのオペラ界の勢力争いに、人の好いクリスチャンがまんまと乗せられたためです。
パリでは当時、「グルック・ピッチンニ論争」として知られるオペラ界内での激しい対立がありました。それも後年の我々ですから
「そんなことがあったんだよ」
と歴史を知ることが出来ますけれど、激しいとは言っても結局は狭い世界の中での対立です、外にいるクリスチャンはそんなことを知る由もありません。
「論争」に敗れたピッチンニ・・・この人もかなりのお人好しだったそうです・・・の後釜として目をつけられたのがクリスチャンでした。パリで、クリスチャンは新作オペラを作りましたが、反響は「概ね好評」程度でした。しかも、対抗側のご本尊、グルックは、クリスチャンの訪仏からほんのわずかな後に、さっさと自分のホームグランドであるウィーンへ帰ってしまいました。これでは話になりません。クリスチャンもパリに長居は無用でした。
この時、モーツァルトもパリにいました。父の言いつけで就職活動に来ていたものの、どうしてもパリの風土に馴染めなかったモーツァルトに、同行していた母の死が追い討ちをかけます。
傷心のモーツァルトを支えたのが、たまたま出会ったクリスチャンでした。クリスチャンはモーツァルトに、
「一緒にイギリスへ行こう」
と誘いをかけたと思われます。残っているモーツァルトの父宛の手紙から、そのように推定されます。
しかし、モーツァルトのイギリス行きは、父の強引とも言えるザルツブルクへの帰還要請により実現しませんでした。

ロンドンへ戻ったクリスチャンは、このころすでにアルコール中毒だったと考えられています。アルコール中毒の原因になったのは、酒好きのアーベル、その友人でクリスチャンの有名な肖像画の作者であるゲインズバラの二人からの影響によるものだ、と、伝記作者ゲルトナーは述べています。3人の中で最も早く亡くなったのはクリスチャンですが、他の二人の死因もアルコール中毒だったことが分かっているからです。

進行するアルコール中毒で体力が衰えていたのか、ロンドンに帰ってからのクリスチャンの作品数はあまり多くないようですし、注文があったにも関わらず、オペラは1つも書けていません。
そんなクリスチャンを襲った大事件が、彼の死期を早めました。

クリスチャンは永年信頼していたメイドに、オペラ舞台作りなどの委託先への支払を任せきりにしていました。これが災いしました。主人にお金をまかされ、しかも主人のチェックが甘いと、使い込みがエスカレートするのは世の常です。このメイドも同じ罪を犯し、しかも、バレそうになった絶妙のタイミングで遁走したのです。・・・金融では当時世界一だったロンドンも、債権債務の保護の仕組はまだ確立されておらず(直接関係しないかも知れませんが、例えば、有名な保険ブローカー、ロイズの機構が法的にも整ったのが1772年で、法人化はほぼ99年後の1871年・・・クリスチャンの生前には保険の保護という観念も、まだ一般に浸透しきっていま
せんでした)、クリスチャンはそれまでのお金持ち身分から、突然、多額の債務を負う立場へと追い込まれてしまいました。1780年のことです。
ショックから急激に気力の衰えたクリスチャンは、回復へ向かうことなく、81年の11月には遺言を残し、翌1782年1月1日、妻と数少ない友人に見守られ、ひっそりと息を引き取ったのでした。享年46歳6ヶ月、私の今の歳より2ヶ月短いいのちでした。

生前は絶大な名声を誇ったクリスチャンでしたが、死後は急速に忘れられていきます。
かつて、兄エマヌエルがクリスチャンを評して
「あいつの音楽は耳には快い。が、精神には何ももたらさない」
といったことを述べています。発言当時から、これは、かつて面倒は見たものの、血のつながらない弟の大成功への嫉妬は免れえなかった頑固なエマヌエルのやっかみだ、と捉えられてきました。
ですが、兄のこの評価は、クリスチャンの急所を的確に突いています。
啓蒙主義全盛期の、ハッピーエンドを好んだ観衆、耳当たりの良さだけを望んだ聴衆を絶対に裏切らなかったからこそ、クリスチャンは名声を保てました。しかし、亡くなった1782年はフランス革命の7年前です。時代と嗜好は、大きい転換点を迎えます。
フランス革命を境に、思潮はロマン主義へと転じ、安定しない世相の中で、人々はむしろグロテスクなもの、迷走する筋書きに魅力を抱き始めます。クリスチャンのような純真さは、もはや、そんな社会に要求されるものでも、望ましい存在でもありませんでした。父のお株が上がり、やがて長兄と次兄の名誉は回復するものの、クリスチャンが今でもあまり顧みられないのは、私達の時代がなお、複雑さを指向し続けているからではないか、と考えれば分かりやすいでしょう。

それでも、クリスチャンの音楽の純真な響きが、私達の大多数が現在好んでいるモーツァルトその人の心を捉えて放さなかった響きであった、という事実は厳然と残っています。モーツァルト生誕250年だからこそ、この事実の意味が見直され、問い直される必要も価値も、大いにあるはずです。

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文献)
・Heinz Gaertner(aeはAウムラオト)
 "JOHN CHRISTIAN BACH-MOZART'S FRIEND AND MENTOR"(原書ドイツ語。英訳本)
ですが、日本語では以下のものを参照しました。
・ヴォルフ「ヨハン・セバスティアン・バッハ 学識ある音楽家」
・久保田慶一「エマヌエル・バッハ 音楽の近代を拓いた<独創精神>」
・丸本隆(編)「オペラの18世紀」

録音)
クリスチャン・バッハ作品のみのものは別途ご紹介します。
「バッハ一族」や「ヨハン・セバスチャンと息子たち」の作品を集めたCDは、国内盤ではあまりありませんが、輸入盤ですと1枚ものでも結構あります。バッハ一族の世代による作風の違いは、それぞれの人が生きた時代を反映していて興味深いものがあります。ぜひ、ひとつでもお聴きになってみて下さい。
ヨハン・セバスチャンと息子たちの作風を1枚で比較出来る例として
・"Organ Works of the BACH Family" hanssler Classic CD94.038(ドイツ製1991)
・"Bach and sons 5 piano concertos" PIANO21 p21 013 ND211(フランス製2003)
といったものがあります。

イタリア時代までの作品(抄)
(ライプツィヒ時代)
1748   父バッハ『管弦楽組曲第2番』ポロネーズのクラヴィア用編曲

(ベルリン時代)
1752   カンタータ "L'Olimpe"
1754以前 クラヴィア協奏曲へ短調、同ニ長調(他数曲?)

(イタリア時代前半)
1757   "Dies Irae"、"Kyrie"
     上記を含むミサ曲(レクイエム)?
     Six Sonatas for Keyboard accompanied by flute ore violin(Op.16)
1758   "Magnificat"
     Six string torios
     Seven sonatas for violin and keyboard
     カンタータ"Lezioni"
     "Miserere in 10 movement"
     "Beatus vir"
     "Domine ad adjuvandom"
     "Laudamus Te"
     "Te Deum"
1759   "Tantum ergo"

(ヨハン・クリスチャン・バッハのオペラ作品)
・「アルタセルセ」
  "Artaserse" 1761 Turin
・「ウティカのカトー」
  "Catone in Ytica" 1761 Naples
・「インドのアレクサンダー大王」
  "Alessandolo nell'Indie" 1762 Naples
・「オリオン」
  "Orione" 1763 London
・「ザナイーダ」
  "Zanaida" 1763 London
・「シリアのハドリアヌス帝」
  "Adriano in Siria" 1765 London
・「カラッタコ」
  "Carattaco" 1767 London
・「テミストクレス」
  "Temistocle" 1772 Mannheim
・「ルチオ・シルラ」
  "Lucio Silla" 1774 Mannheim
  (今回やる Symphonie op18-2はこの作品の序曲【イタリア風序曲】)
・「愛の勝利」
  "Amor Vincitore" 1774 Schwetzingen
・「シピオーネ(スキピオ)の慈悲」
  "La clemenza di Scipione" 1778 London
  生前唯一出版されたオペラ作品(Op.14)
・「ゴールのアマディス」
  "Amadis des Gaules" 1778 Paris
・「オンファーレ」
  "Omphale" 未完(London)

(生前及び没後に作品番号を付されて出版されたもの)
作品1  6つのハープシコード協奏曲(1763)
作品2  鍵盤楽器、ヴァイオリン又はフルートとチェロのための6つのトリオ(1763)
作品3  6つのシンフォニー(1765)
作品4  6つのカンツォネッタ(1765)
作品5  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1768)
作品6  6つのカンツォネッタ第2集(1770)
作品7  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲(1770−75)
作品8  6つのフルート四重奏曲(1770−75)
作品9  3つのシンフォニー(1770−75)
作品10 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1770−75)
作品11 6つのフルート四重奏曲(1772−77)
作品12 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲第3集(1772−77)
作品13 同上
作品14 シピオーネの慈悲(->オペラ参照。CD有)
作品15 ハープシコード又はピアノフォルテのための4つのソナタと2つのデュエット
作品16 6つのヴァイオリン(フルート)ソナタ(1779)
作品17 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1779)
作品18 6つの大序曲(実質上、シンフォニア。)
(以下、死後出版)
作品19 4つの四重奏曲(原曲は5重奏)
作品20 3つのフルートソナタ
作品21 3つの序曲
作品22 2つの五重奏曲

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