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2006年5月31日 (水)

優しい声、優しい響き

「ウツ」がぶりかえしました。
潜在的にそういう体質でも性格でもあるのでしょうが、一昨年にかかってから、自分が弱くなったように感じます。
「ウツ」が顕在化するときは、まず、極端に被害妄想になります。「あいつもヒドいやつだ、こいつは何も思いやってくれない」等々。で、人とコミュニケーションを取るのもイヤになります
でも、今日、出社して、
「思いきり、今週いっぱいは休んで、アタマを空っぽにしろよ」
と言ってもらい、涙ぐんでしまいました。
思えば、一昨年前もそうでした。そうなると手のひらを返したように、
「ああ、あの人も優しい、この人も優しい」
と思ってしまうんだから、私も勝手なものです・・・人間、必ずしもみんなそう勝手な人ばかりではないでしょう?

ですので、いま食事をとってから帰宅して、家内に連絡して、もう家事もやらずに寝ます。
・・・玄関を開けるとき、おもわず呼び鈴を鳴らしてしまいました。
鳴らしたところで、共稼ぎ家庭は、昼間は誰もいないんです。

でも、不思議なもので、無意識に鳴らしてしまいます。
普段は子供たちもそうしているのだそうで・・・あ、自分も同じだな、と思いました。

声で話す、その響きにつつまれること。
普段の生活で週間になっている音を鳴らすこと。

こんなに騒音騒音と騒がれる世の中だけれど。
音は、心をやわらかく包んでくれることの方が、まだまだたくさんあるかも知れない。

昼間ですけれど、すみません、おやすみなさい。

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2006年5月29日 (月)

演奏とは何か(1)

さあ、いよいよブルックナーネタをやるぞ!
と・・・張り切っていたところへ、海外注文していた「第3交響曲」の校訂ノート(協会版)が届きました。ワクワクして開いたら・・・あ。ドイツ語。。。
斜め読み読解率は英語で15%(いや、もっと低いか?)、フランス語で0.1%、イタリア語で0.001%な私です。ちなみに、日本語の古典は7%くらい? 現代日本語になると、さて、どうでしょうか。
じゃあ、ドイツ語は・・・うん、欲張って、5%! ホント?? 1%で手を打ちましょう!

と言う次第で、細かい突っ込みはあきらめましたが、ブル3は第1稿から第3稿までの形式等の比較だけで最低1週間はかかるかな。
ですので、今回は「逃げネタ」です。

最近、気に入った本は出来るだけチビリチビリ読みます。
アーノンクール「古楽とは何か」も、そんな1冊です。今回のタイトルは、実はこの本のタイトルの<もじり>です。
題名にこだわって読むと、アーノンクールの述べていることは、本当は「古楽」の話ではない、という大切な点を見失います。彼の考えは素晴らしい。感激した、の一言です。
そこで、その中から感激した中から幾つかを拾ってご紹介することを今回の軸とします。

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演奏とは何か(2)

アーノンクールは、20代の頃までは、好みの音楽家ではありませんでした。どちらかといえば、その逆でした。
大学の時、海老澤敏先生が講師で「モーツァルトを聴く」といった講義をなさって下さいました。楽しみで聴講を始めた、その初回に、
「最近はモーツァルトの演奏も変化してきた」
と仰って、最初に聞かせられたのが、アーノンクールによる「ハフナー」の演奏でした。
そのころ所属していた学生オケは自分達のモーツァルト演奏にかなりの自負を持っていましたが、それは弦楽器の場合はスピッカート奏法を主体にした軽やかな音楽作りを目指すもので、当時まだ流行っていた
「軽くて明るいモーツァルト」
像からくる考え方でした。
聴かされた「ハフナー」は、まさにその正反対の演奏でした。
「重い肉体を持った激しいモーツァルト」
でした。当時の仲間の価値観とは大きく逸脱していたのです。
ショックのあまり、海老澤先生は我々をとんでもない詐欺にあわせるつもりなんじゃなかろうか、と疑って、私は聴講をやめてしまいました。
今考えると、とても勿体ないことをしました。
一方で、私がなけなしの小遣いでやっと買えた「マタイ受難曲」のLPはアーノンクールの演奏でした。高校生のころだったかと思います。この演奏は、言葉は合わないのかもしれませんが、「とても美しい」もので、LP用のプレーヤーがこわれるまで愛聴していたものです。
果たして、アーノンクールという人は信用していいのか、いけないのか。

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演奏とは何か(3)

「古楽とは何か」の原著は、1982年の発行だそうです。原題は、訳者のひとり、樋口さんのあとがきによると、直訳すれば
「音話としての音楽・・・新しい音楽理解の道 Musik als Klangrede---Wege zu einem neuen Musikverstaendnis(aeはaウムラオト)」
というものだそうです。
原題の通り、本書の内容は、別に古楽に限定したものではありません。
本書中でアーノンクールが述べていることばを、幾つか引用します。

・もし音楽家がほんとうに音楽の遺産のすべてを・・・われわれにとって興味がある限りにおいて・・・提示するという課題を持っているならば、そのために必要な知識を得なければならない。そこに通じている道は何もないのである。(訳書30頁)

・音楽家の教育は結局のところ、特定の音をうまく得るためや、ある種の指の確かさを手に入れるために、楽器のどの部分に指を置かねばならないかを教えるようなことに、自らを閉じこめるべきではないのである。(34頁)

・言葉のほんとうの意味で作品に忠実なのは、まさに作曲家が音符で意図していることが何であるかを知り、そのように演奏する人のことなのである。(78頁)

・<しかしながら>、音楽を演奏する場合は、われわれが勉強したことを演奏しているのだというような印象を聴き手に与えてはならないのである。(79頁)

・何が純粋な音程法であるかという問いに答えることはできない。<すべての>人間に通用する唯一の自然な音程体系は存在しない。(97頁)

・古楽器であれ現代楽器であれ、あらゆる楽器において何らかの欠点は我慢しなければならない。(中略)あらゆる楽器、さらにはその発展のあらゆる段階は、それぞれ長所と短所とを有しており、音楽家と楽器製造者はそのことを完全に自覚していた(後略)(119頁)

・オリジナルの響きのイメージが私に興味があるのは、あれこれの音楽を<今日>表現するために、私が用いることのできる数多くの可能性のなかで最良のものであると思える限りにおいてなのである。私は、プレトリウスのオーケストラがリヒャルト・シュトラウスを演奏するのに適さないと考えるのと同じように、リヒャルト・シュトラウスのオーケストラはモンテヴェルディを演奏するには不適切だと考えているのである。(126頁)

引用だけでは誤解を招く箇所もあるかと存じますし、必ずしも要所を引いたわけではないのですけれど、こうしたことばの中に見え隠れする「専門家」の厳しさには、目を見張る思いがします。
・・・どうお読みになるでしょうか?



古楽とは何か―言語としての音楽


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古楽とは何か―言語としての音楽


著者:ニコラウス アーノンクール

販売元:音楽之友社

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演奏とは何か(4)

上で見たように、アーノンクールは「古楽器の泰斗」と評価されていた人ながら、「古楽器」に無条件にこだわっているわけでもありませんでしたし、最近はウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに出演したのでも分かる通り・・・あるいはベルリンフィルやコンセルトヘボウをも指揮していて・・・狭義に「古楽」と言われる場所からは完全に脱していると見て良かろうと思います。
生で聴いたことがないのが悔しいですけれど、演奏の解釈の好み・是非は措いて、彼の録音から伺われる表現への姿勢は、強くて頼もしく、聴き手を本来の意味でワクワクさせてくれます。
CDも面白い企画のものを出していて、「マタイ受難曲」・「モーツァルトのレクイエム」のCDには自筆譜の映像を全頁データ化して付けていますし(残念ながら「マタイ」は日本盤はありません。輸入盤も、もう店頭で見かけなくなりました)、最近出しているモーツァルトの初期交響曲集(2集あります)では、孫と一緒にモーツァルト父子の手紙を朗読して録音してもいます。この先どんな企画が飛び出すか、楽しみです。

さて、私達アマチュア・オケマンは、アーノンクールの言葉を
「あっちは本職だからなあ」
と受け止めるだけで充分でしょうか?
専門家に比べれば、私達の大半は奏法が未熟だったり、演奏技術の知識が少なかったりしますから、
「こちとら素人でんがな」
で割り切るのもいいし、
「アマチュアだけどプロよりうまいぜ」
と自信を持つ方は持つ方で、いいのかも知れない。

でも、大切なのは、専門家であると素人であるとを問わず、愛するものに対しては常に真摯であり、しかも・・・マジメになるほど見失いがちなことですが・・・真摯であるがゆえに、優しい心と繊細な気遣いで接していかなければならない、ということではないか、と、私は思っております。如何でしょう? 考えが甘いですか?

とにかく、演奏会本番がきたら、
「集中して、凡ミスはせず!」
ということをひとりひとり肝に銘じましょう。
それこそ、アマチュアオーケストラが全員満足できる演奏への大事な一歩であり、それを実現できるのは、反面、メンバーの一人である「あなた」しかいないのです。
(・・・って、自分の身内向けになってしまいました。)
楽しみましょう!
楽しむための「集中を」! これだけを切に祈っております。




古楽とは何か―言語としての音楽


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古楽とは何か―言語としての音楽


著者:ニコラウス アーノンクール

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モーツァルト:レクイエム


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モーツァルト:レクイエム


アーティスト:アーノンクール(ニコラウス),シェーファー(クリスティーネ),フィンク(ベルナルダ),シュトライト(クルト),フィンレイ(ジェラルド),アルノルト・シェーンベルク合唱団

販売元:BMG JAPAN

発売日:2004/06/23

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若き日の神童モーツァルト~初期交響曲集VOL.2


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若き日の神童モーツァルト~初期交響曲集VOL.2


アーティスト:アーノンクール(ニコラウス),アーノンクール(マキシミリアン)

販売元:BMG JAPAN

発売日:2006/02/08

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2006年5月28日 (日)

K.6 から K.9まで及び K.10からK.15まで(1)

この項、下記のように始めましたが、K10-15をフルート用編曲盤で聞いているうち疑問が湧きましたので、こちらは楽譜を見ました。
したがって、「K.6 から K.9まで及び K.10からK.15まで(3)」は修正します。

------------------------------------------------------------------------------

K.6-K.15.については、K.6からK.8のクラヴィアだけのヴァージョンの楽譜以外所有しておりませんので、各作品の楽章数と速度表記のみになります。・・・これらは「ヴァイオリンを伴うクラヴィアソナタ(「ロンドン・ソナタ」の方は「ヴァイオリンまたはフルート、及び任意のチェロ」となっています)ということですが、ヴァイオリン或いはフルート、チェロが無くてもクラヴィアだけで演奏できる、という代物で、素人とは言えヴァイオリン弾きにはあんまり魅力的ではありません。そんなこともあって、
「ちょっと気にくわない!」
というのも、楽譜を入手しない大きな理由のひとつです(楽譜が高価な割に、ヴァイオリンは報いられない、というわけです)。
すみません、以上、ご了承下さい。

・・・といいつつ、冒頭に記したように、K10以降の「ロンドン・ソナタ」は楽譜を見ました。
解説についてのみ取り急ぎ言及しますと、『ロンドン・ソナタ」は新全集(1966)では『ピアノ・トリオ」」の第1巻に収められたのだそうでして・・・楽譜の全集を揃えられる人がうらやましいなあ。

K.6-7 は 1764 年2月に"作品1"として、その後K.8-9は"作品2"としてパリにて出版、K10-15 は1765 年に"作品3".として出版されました。ヴァイオリン(フルート)パートは、もしかしたら父レオポルドが補筆したか、ヴォルフガングを指導して書かせたかしたのではないかと思いますが、レオポルドはあくまで、友人宛の手紙で「音楽はすべてヴォルフガングが書いた」のだ、と主張しています。

なお、クラヴィアのパートは「フォルテピアノで弾かれたのか、チェンバロで弾かれたのか」について見解が分かれているそうですが、出版譜での表記は「クラヴサン」でもあり、チェンバロ向けだった、という意見のほうが有力、なのだそうです(立ち読みした楽譜の前書きによる)。

デタラメ英語原稿はK.9までをアップ済みです。K.10からは・・・端折るかも知れません。
(ロスに「遠い親戚」がいるので、英作文のお稽古の必要からやっているだけですので。間違いがいっぱいある筈ですので、直して下さいませ。)
YP41 モーツァルト 初期のバイオリン(フルート)ソナタ集
YP42 モーツァルト初期のバイオリン(フルート)ソナタ集
YP43 モーツァルト初期のバイオリン(フルート)ソナタ集

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K.6 から K.9まで及び K.10からK.15まで(2)

K.6-K.9

K.6の第1〜第3楽章、K.7の第3楽章, K.8 の第1楽章はクラヴィアだけの楽譜がのこされています。出版された楽譜の方では、これらのクラヴィアだけの楽譜より多くの音符が加えられています。和声を補強し、響きを華やかにするため、だと思われます。この書き加えはレオポルドがしたか、レオポルドがヴォルフガングに指示したかしたのではないでしょうか。ですが、書き加えられた音符は、クラヴィアだけの楽譜の持っていた素朴さ、素直さを奪ってしまっているように、私には感じられてなりません。

CDは国内盤では見つけておりません。BRILLIANTのMOZART EDITIONシリーズのヴァイオリンソナタ集(97721-1 / 8)には収録されています(K10〜K15は入っていません)。チェンバロとヴァイオリンによる演奏で、2001年の録音です。8枚組ですが4000円弱で入手できます。

K.6( in C major, 4 movements)
1.Allegro :( Octver 7 ,1763)
構造は K.5と似ています。
2.Andante :(1763)
愛らしい、ハイドン的なアンダンテですが、
無個性ではありません。
(このころはヴォルフガングはまだ
ヨーゼフ・ハイドンを知りません。)
3.Menuet I & II :(Menuet I : 1763; Menuet II :July 16, 1762)
"Menuet II" で、ヴォルフガングは K.1bと同じような
「音の追いかけっこ」を取り込んでいます。
4.Allegro molto

K.7( in D major, 3 movements)
1.Allegro molto
2.Adagio
3.Menuet I & II :"Menuet I " にはクラヴィアだけのヴァージョンがあります。
"Menuet I "の構造はK.5 (22 bars) と同じようです。
使用している動機はK.2で用いた動機から派生したものです。
それでも、左手の分散和音はこれまでの作品には無い優雅さ
をこのメヌエットに与えています。

K.8( in Bb major, 3 movements)
1.Allegro    原初的なソナタ形式です。複数テーマではなく、最初の主題を
        「しつこく」くりかえす感じです。父レオポルドを含め、当時
        の大半の作曲家がとっていた書法だったと記憶していますから、
        ヴォルフガング少年も大人たちの影響の下に作曲したことが分
        かるのではないかと思います。
2.Andante grazioso
3.Menuet I & II

K.9( in G major, 3 movements)
1.Allegro spiritoso
2.Andante
3.Menuet I & II

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K.6 から K.9まで及び K.10からK.15まで(3)

K.10-K.15

これらの『ロンドン・ソナタ」はK6-K9とまるきり同じ考え方で出来ているのかな、と思って録音を聴いていると、どこか違うのです。それに、タイトルに「チェロ」が含まれているのも気になります。果たして、チェロは単にクラヴィアの左手をなぞっているだけなのだろうか? それなら何故、『パリ・ソナタ』と違って、わざわざチェロパートまで付けたのだろうか? それは、1966年の新全集がそう分類したように、トリオソナタを意図して書いたためなのだろうか?

トリオソナタを意図したかどうか、となると、そもそもトリオソナタとは何ぞや、ということに全く疎い私には解決の糸口がありません。
かつ、楽譜をちらりと眺めただけですと、チェロはクラヴィアの左手をなぞっている、というのはほとんど間違いの無いところです。

ですが、よくよく見ると、チェロは単純にクラヴィアの補強をしているのではないことが分かってきます。
クラヴィアはおそらくチェンバロを指すものだ、ということですから、ピアノに比べれば持続音は苦手でしょう。チェロの書き方は、チェンバロの低音に持続性を与えるための補強をしている、という点は、楽譜によって最初に判明する事実です(端的な例はK.10第1楽章の冒頭)。
また、場所によってクラヴィアを引き立てさせたいときには、チェロには音を与えていません(K.11第2楽章の47-48小節、K12第1楽章の43小節、K14最終楽章の49-54小節、97-100小節など。この部分のクラヴィアにはチェロには高すぎる音稿を与えているので、そのせいでチェロに音を与えなかった、と考えても良いのですが、響き、音色を効果的にするための演出と考えたほうが、音楽の流れからいって自然だと感じます。とくにK14の例は前後の音符の描き方から見てそう判断すべきだと思います)。
ほんの些細な例しか見付けていませんが、そもそもチェロがクラヴィアと違う働きをしている箇所もあります(K10第1楽章3小節、及び同様又は類似の動きをする箇所。たんに、クラヴィアが音を移動しない場所でチェロはオクターヴ下降する、というだけのことですが、それでも実際にお弾きになれば、これをオクターヴ下げるか同じ音程のままで弾くかで印象が大きく異なることを実感頂ける筈です)。

また、クラヴィアだけのヴァージョンは見つけておりませんので断言は出来ませんが、少なくとも譜面上は『パリ・ソナタ」のクラヴィアパートとは違い、和音を補強するための音の追加はなされていないように見えます。
ですので、『ロンドン・ソナタ」には、『パリ・ソナタ」よりも父レオポルドのチェックが入っていないかも知れません。。。(もっとも、『女王陛下音楽図書館」所蔵の楽譜の中には、『ロンドン・ソナタ』のヴァイオリンパートはレオポルドの自筆のものが残っているそうです。)

なお、CDは2種類見つけましたが、いずれもフルートによる演奏です。
国内盤ではオーレル・ニコレが小林道夫のピアノと共演したものが廉価で出ています。演奏の内容は、フルートがクラヴィアの右手部分を吹き、ピアノの右手はオリジナルでフルート(ヴァイオリン)のために書いた「単純な」パートを弾いている、というものでした(これも立ち読みの楽譜で確認しました)。楽譜の解説によると、「こういう演奏の仕方も許される」のだそうです。ニコレたちが用いたのは、しかし、オリジナル譜ではなく、ヨゼフ・ポップというスイスのフルーティストが編曲したものだ、とCDの解説に記されていました。ポップの編曲は1959年にバーゼルで出版されている、と、ベーレンライター版の解説に注記されています。これらの作品の実用譜としては従来唯一のものだった由。

各曲については、構成のみ記します。ご容赦下さい。

K.10( in Bb major, 3 movements)
1.Allegro 2.Andante 3.Menuetto I & II

K.11( in G major, 3 movements)
1.Andante 2.Allegro 3.Menuetto

K.12( in A major, 2 movements)
1.Andante 2.Allegro

K.13( in F major, 3 movements)
1.Allegro 2.Andante 3.Menuetto I & II

K.14( in C major, 3 movements)
1.Allegro 2.Allegro 3.Menuetto I & II

K.15( in Bb major, 2 movements)
1.Andante maestoso 2.Allegro grazioso



モーツァルト:フルートソナタ


モーツァルト:フルートソナタ


アーティスト:ニコレ(オーレル)

販売元:ユニバーサルクラシック

発売日:2003/11/26

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忘れ物

タイトルは、アブストラクトではございません。。。
今日、オケ練から帰る電車で寝過ごし、あわてて降りました。
降りてから2,3分、なんかが足りない気がして・・・あ、リュックを忘れた!
座席の足元においていたのでした。
駅員さんに言ったら「この時間の折り返し列車だから、それを見てみて、なかったらもう一度窓口に来て下さい」とのこと。
折り返し電車到着。リュックは・・・ありませんでした。
パート譜、スコア、給料が入ったのでやっとこさ買ったCD数枚・・・みんなぁ、帰ってきてくれぇ!

ちっとも音の話にならない? いえ、心がしぼんで空気が抜けていくシュワシュアァァァァ・・・という音が、私の中で絶えず鳴っています(T_T)

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2006年5月27日 (土)

自然の音? 人工の音?

およそ、「自然じゃない音」なるものが、存在するのでしょうか?
私の勤務先は新宿西口高層ビル街の入り口。朝夕の通勤ラッシュ時は、車の音、人の足音ばかりです。で、こないだ綴ったように、たくさんの人(自分を含む)の態度は、というと、「騒音の殻を被った静粛」。もっと言えば、「人型イナゴの大群」。
「ああ、オレもイナゴの一匹だ」
と心の中で呟きつつ出勤。
で、勤務先のビルの下まで来ると、いちおう、一服するんです。
すると、そこには雀もいれば、烏もいる。シジュウカラらしき鳥も・・・姿はあまり見せないけれど、うらやましいくらいにのびのびとさえずっている。
鳥達には、車の音も、雑踏の音も、別に苦にはなっていないんです。
「ああ、ありゃ、人間て奴が出してる音だぜ!」
「おれたちだって食うにはそれなりに一生懸命なんだけどな」
「そうそう、あいつら、なんでわざわざ一生懸命って顔をしないといけないんだい?」
「ああやって、悲しい、苦しい、つらい、って音を出すのが好きだからさ」
「いや、ホントのとこは、金属だの油だのを痛めつけて、そいつらに悲鳴を上げさせてるんだろ?」
「あ、そうかね。」
「で、それを人工の音、とかいって、おれたちの声や羽音と区別してるのさ」
「差別だねえ」
「差別だよ」
「奴ら、自分で自分の縄張がきめらんないからね」
「そういうこった」
・・・悠々自適な鳥達が聴けば、そんな調子で、人間の「騒音」も
「自然の営みの一つさ」
くらいにしか感じていないんじゃないかな。

「なんか、いつも、自分達だけ一生懸命みたいにしてさ。やだねえ・・・」



メシアン:鳥のカタログ

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メシアン:鳥のカタログ

アーティスト:アウスタベ

販売元:アイビィー

発売日:1997/09/01

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2006年5月24日 (水)

スケルツォで踊れます? (1)

交響曲が独立性を強め、ベートーヴェンによる様式的完成を経てブラームスのデリカシーやブルックナーの荘厳さに至るまでに、大きく2つのことが起っていますね。

1つは、通奏低音の消滅です。
「え?」
とお感じになられるかも知れませんが、交響曲の指揮に際してチェンバロ(またはフォルテピアノだったのでしょうか)が使われなくなった正確な時期は分かっていません。菊地先生にお聞きしたところでは、実質上、モーツァルトが使っていたのが最後だろう、とのことでした。楽譜に通奏低音の数字が記されていないのは、
「彼は自分で弾いたわけだからね。」
和音が分かり切っていたから、必要なかった、という次第(全集では初期の数曲には数字付低音がみられますし、註には「数字が無いからといってチェンバロを使わなかった、という意味ではないので留意せよ」との旨が記されています)。
オペラの楽譜についてもコトは同じで、たとえば「ドン=ジョヴァンニ」の印刷譜は、レシタティーヴォ・セッコの部分は鍵盤が弾くべき和音が大譜表でしっかり音符化されています。ところが、自筆譜では、レシタティーヴォの部分はヘ音記号で全音符1個が書かれているだけ。和音は記されていないのです。モーツァルトが自分で和音を判断して補っていた証拠です。
世代はモーツァルトが最後だとして、彼の死後も、交響曲の指揮に鍵盤楽器を用いていた事例は、ハイドンに見られます。ベートーヴェンの交響曲第7番の初演はサリエーリが指揮していますけれど、このときもそうだったかも知れません。(違ったら、ご教示下さい。)

もう1点は、4楽章構成が確立されたあと、その第3楽章に不動の地位を占めていたメヌエットが、ベートーヴェンによって追放され、その座をスケルツォに明け渡したことです。

このスケルツォというやつ、先週取り上げたメヌエット以上に得体が知れません。
(下にリンクを貼ったピノックの全集は全曲チェンバロ入りです。輸入盤が見つかればそちらのほうが4千円くらい安いですヨ!)



モーツァルト:交響曲全集

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モーツァルト:交響曲全集

アーティスト:ピノック(トレヴァー)

販売元:ユニバーサルクラシック

発売日:2006/03/08

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スケルツォで踊れます? (2)

スケルツォとは、一体何ものなのでしょうか?
「諧謔曲と呼ばれる舞曲」
というのが一般的な私達の理解ですが、本当に「舞曲」なのでしょうか?
ワーグナーはベートーヴェンの第7交響曲を「舞踏の聖化」と称して実際に踊って見せたそうですが、スケルツォ楽章でも踊ったのでしょうか?それはどんな踊りだったんでしょう。
バロック・ダンスにはスケルツォの踊り方なんて一切出ていません。とすると、ワーグナーが踊ったのは知られていない民族舞踊か、もしくは全くの創作ダンスだったのでしょうか。

あいにくグローヴ音楽大事典は欲しくても買えませんでしたし、置く場所もありません。家内の財産「平凡社音楽大辞典」が、唯一たよりになる資料です。
これを読むと、「スケルツォ」は案の定、舞曲なんかじゃないのでした。
記事にはこう記されています。
「一般に急速で軽快な3拍子の器楽曲で、17〜19世紀に好んで作曲された。(1)この用語が登場するのは17世紀のイタリアで・・・軽妙なマドリガルを指す名称として用いられ、モンテヴェルディの(1608)はその1例・・・」
ありゃ、これ、ウチにCDがあったわい。なんで気がつかなかったの!
で、ここで事典と食い違うのは、マドリガルはこのころは声楽曲だということ、モンテヴェルディの所収の10曲中、3拍子系の曲は3曲しかない(3拍子から2拍子に変るものも含めて)という点。
事典の同じ記事に譜例として載っている大バッハの「クラヴィアのためのパルティータ第3番」中のスケルツォも、イ短調で4分の2拍子の曲です。



大作曲家 モンテヴェルディ

Book
大作曲家 モンテヴェルディ

著者:ヴルフ コーノルト

販売元:音楽之友社

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スケルツォで踊れます? (3)

交響曲にスケルツォを導入したのは確かにベートーヴェンの功績でしょうが、そこへ至る道を用意したのはパパ・ハイドンです。
ハイドンのロシア四重奏曲集作品33は、6曲全曲がメヌエットに換えてスケルツォを採用した弦楽四重奏曲群として有名です。
スケルツォと名前がついていても、これらはテンポ面ではメヌエットとの差が全くありません。それに・・・そう演奏してしまうからかも知れませんが・・・たとえば曲集中もっとも有名な「鳥」のスケルツォなどは、「諧謔」と言うにはあまりに気品があります。ハイドンが何を意図してこれらを「スケルツォ」と名付けたのか、首をかしげたくなります。ハイドンのユーモアを扱った英語の本でも、作品33に一章を割いてまで解説しているにも関わらず、そのスケルツォ楽章については全く触れられていないのも不思議な思いがしたものです。
ロシア四重奏曲集の「スケルツォ楽章」で特筆すべきは、それが第2楽章に置かれている点です。ベートーヴェンの9つの交響曲の中で、第8の古典的なメヌエットも含め、メヌエット或いはスケルツォ楽章が第2楽章に置かれたのは「第9」が初めてですから、ハイドンの配置は画期的だったと言っていいと思います。
スケルツォが「舞曲的」性格を明確にした最初の作例は誰によるものか、の追及は出来ませんでしたし、面倒になるのでやめておきます。ただ、「スケルツォ」はハイドンの例から伺うに、「舞曲的」になるにあたって、おそらく「ドイツ舞曲」と呼ばれるものと融合したのだろうと想像出来ます。ハイドンの例は聴けないものの、モーツァルトの「ドイツ舞曲」にメヌエット的なものが多くあることからの類推です。その後シューベルトの交響曲でのスケルツォは「ドイツ舞曲」がテンポを速めた「レントラー」になっていることからも、こうした流れは確認できると考えます。
「レントラー」的なスケルツォは、さらにボヘミア的な要素とも結びついて、ブルックナーの交響曲のスケルツォ楽章にみられる強烈なキャラクターを獲得するに至ったのではないか・・・というのが、私の推測です。
尻切れトンボですが、スケルツォの考察はこれくらいで。
また新たな材料があれば探ってみたいと思います。



Music
ハイドン:弦楽四重奏曲第39番「鳥」/第40番/第42番

アーティスト:コダーイ弦楽四重奏団

販売元:アイビィー

発売日:1993/01/01

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2006年5月23日 (火)

K.2 から K.5(5a=9a, 5b=9b)まで

K.2 から K.5までは似通った作りをしています。
K.5のみ二部形式ですが、K.1で到達した前半後半が均等な構造を抜け出し、
後半が長めの作品を作るのがあたりまえになって、ソナタ形式へ向けて一歩
進展した技量を身につけたことが分かります。

K.2 Menuett F-dur (1762.1 Salzburg)
8bars(repeat) and 16bars(repeat); 三部形式
Bars 9-12 are G minor
転調は下属調の平行調へとなされています。

K.3 Allegro B-dur (1762.3.4 Salzburg)
12bars(repeat) and 18bars(repeat); 三部形式
Bars7-12 are F major, 13-16 are G minor.
転調は下属調、続いて主調の平行調へとなされています。

K.4 Menuett F-dur (1762.5.11 Salzburg)
10bars(repeat) and 14bars(repeat); 三部形式
Bars 5-10 are C major,11-12 are Bb major,
13-14 are C major.
17-18小節では主要主題がその前までよりオクターヴ低く歌わ
れます。響きがより立体的な音楽を作りたい、との欲求があら
われたものと思われます。次のK.5では17-18小節をその前か
らオクターヴ上げる、という、逆の試みをしています。
転調はいずれもオーソドックスに属調へと成されています。

K.5 Menuett F-dur (1762.7.5 Salzburg)
10bars(repeat) and 12bars(repeat); 二部形式
Bars 5-10 are C major, 11-12 are Bb major,
13-14 are C major.

次の2曲はモーツァルト一家がパリやロンドンへ旅している頃の作かと考え
られています。作風に、2〜3年成長しておませになってきたヴォルフガン
ゲル君の、ほほえましい背伸びを感じさせられます。

K.5a(9a) Allegro C-dur (1764?)
21bars(repeat) and 23bars(repeat); ソナタ形式
( コーダ無し)
Bars 9-26 are G major, 29-31 are F major,
32 is D minor, 33 is A minor.
Bars 14-21 are tha 2nd theme.
22-27小節は、ささやかですが展開部。
28-44 小節が再現部となっています。
・・・いつのまにかソナタ形式が身に付いています。
主題と構成が、のちのハ長調の小さなソナタ(k.545)の冒頭楽
章と似ています。8つ子の魂32まで。。。

K.5b(9b) Andante B-dur (Unfinished 1764? )
37bars. 幻想曲風、とでも言ったら良いのでしょうか。
冒頭に示される情感は、これまでのどの作品よりもナイーヴな
ものとなっています。
Bars 13-14 are F major, 15-16 are F minor,
17 小節以降は延々とg-b-desの減五の和音に向かい続けて抜け
出すことが出来なくなっています。これがこの作品を未完成に
した大きな要因となっているのではないかと感じます。
幼児期を脱しつつあった9歳のモーツァルトが、将来について
期待と不安がないまぜとなった夢を見ているような、そんな
印象を与える雰囲気を持っています。

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2006年5月22日 (月)

非常ベル事件

「面白かったから日記に書け」との娘の命令ですので綴りますが・・・本人はそうでもなかったんですけど。
土曜日の夕方、家内の留守中に家(古マンションの7階)でごろごろしていましたら、息子が
「外から何か聞こえる」
と言います。
「ふうん・・・」
と、別に気にもとめず、横になったまま鼻くそをほじくっていますと、
「すごい音なんだよ、来てみて」
としつこくくりかえすので、仕方なくのっそり起き上がって、ドアの外に出ました。
ドアを開けるまで良く分からなかったのですが、開けたとたん、けたたましい非常ベルの音。いや、けたたましい、では言葉が足りません。耳をつんざく、あるいは、耳かすも吹っ飛ぶ、いや、耳が切り取られる・・・どう表現したらいいんでしょう、とにかく、あたりの町じゅうにこだまするほどの大音量でした。
そのうち、通路に人だかりがしてきました。
「どこのウチで鳴らしたのかしら」
「鳴らすとそのウチの前で赤いランプがつくのよ」
「ほら、あそこんちだ。点いてるよ、赤ランプが!」
「あんた、行ってきなさいよ」
「いや、おまえ、いきなよ」
隣家のご主人はいつも非常時に大活躍なのですが、このたびは二の足を踏んでいます。それもそのはず、上半身は下着一枚のお姿。
非常ベルのなっているウチは、息子の友達の住まいです。
仕方ないので、私がいやいや行きました。
玄関で「ごめんください」と何度も叫びましたが、誰も鍵を開けてくれません。
このお宅、奥さんが外国人なんです。言葉が通じないのかなあ、ということで、
「Hello!」
なんても叫びましたが、歯抜けで発音も悪いせいか、うんともすんとも返事がありません。
そのうち集まってきたいろんな人たちが、後ろから心配そうに覗いています。
玄関脇の部屋で子供が遊んでいるらしいのを、駆けつけた別の中学生の子が感づいて、そこから子供たちに向かって「玄関開けてよ」と怒鳴ってくれました。その脇で、ウチの息子も
「タイヘンなことになっているんです!開けないとタイヘンですよ!どうにかして開けてください!」
なんて、友達ンちなのにヘンテコな丁寧語で連呼していました。親としてちょっと恥ずかしいので
「おまえは黙ってナ!」
でも、みんな真剣で、幸い、こんな親子を滑稽だとは思わなかったようです。

やっとドアが開きました。
あけたら、玄関の内側は靴でいっぱい。今度は、みんなためらって、なかなかそこから中へ進みません。で、私が入っていきました。
中ではパーティをやっていたのです。最近赤ちゃんが生まれたんで、お祝いでもしていたんでしょうね。とにかく、リビングからキッチンから子供部屋まで、パーティをやる親戚友人でごったがえしていたんです。
そんな混雑の中で、たぶん、子供が間違って非常ベルのボタンに触ってしまったもののようでした。この非常ベル、表にはさんざんでかく響くくせに、鳴らしてしまった部屋の中ではさっぱりきこえないのです。で、誰も気づかなかったのでした。
ベルは私が解除して、やっとおさまりました。一件落着。いや、入り口についた赤ランプが消えていません。
「いや、こいつはしばらくしないと消えないんだよ」
と、事情通のだんなさん。
それで一段落。集まった人たちは三々五々帰っていきました。

つくづく思いました。
人は事件が起こると情熱的に集まるけれど、事件が収まったら覚めきって帰るばかり。この一抹の寂寥感がまた、野次馬するにはタイヘン魅力的な気分なんだなあ・・・って。

でも、鳴らした当人が気づけないようなベルのつくりにも問題あり、ですよネ。

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2006年5月20日 (土)

10歳の息子は、雷が苦手です。
今日の午後は、買い物帰りに急な大雨。みるみる厚く不気味に垂れ籠めだした黒雲に、
「カミナリは、ならないかなあ」(言葉遣い通り)
「なるかもよ」と母親。「おおきいのが。」
「やだよぉ、急いで帰ろうよぉ」
クルマでお出かけですから。心配ない。

普通に聞く雷は、地べたを揺るがすような超低音。もっとも、多彩な倍音を含んでいるようで、それらがいっぺんに耳に入るわけですから、ゆるんだ太鼓の皮をたたくよりもはるかに、ピッチが分かりにくい。空間中をこだましさえしますから、音の鳴り続く時間の長さも分かりにくい。
新幹線の中から雷の音を聞いたことがありますか?
これは、「パーン」という、たった一発の破裂音です。
しかも、こちらが音源から超高速で遠ざかっているために、雷鳴が空間に反響する効果は耳に入りません。
爆竹を一発だけ鳴らしたのと、音の高さも大きさも長さも似た印象です。
・・・ふと、そんなことを、無意味に思い出しました。思い出して、こんな事実に気がついて、ちょっとだけホッとしました。

「雷鳴の大きさだけは、どんなに暴走族が頑張っても超えられない!」

妙なことで安心してますねぇ・・・

続きを読む "雷"

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クリスチャン2世 第1曲

東京ムジークフロー
2002年定期演奏会
シベリウス作曲
いい曲です! いい演奏?
 まあまあ、追及しないで下さいませ。

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K.1a から K.1f まで

K.1a から K.1f まで

K.1 から 5 までは、愛らしいクラヴィア作品です。
モーツァルトが5歳から7歳の間に書いたものです。
まずはK1とついた6曲の楽譜を眺めてみましょう。
(ピアノを習ったことのない私でも、引っ掛かり引っ掛かりではありながら、なんとか弾ける曲ばかりです。せっかくですから、弾いてごらんになりませんか?)

K.1a Andante C-dur (1761 Salzburg)
知られている限りモーツァルトの最初の作品です。
4 bars (3/4 ) and 6bars (2/4); 二部形式
bars 6-8 are in F major.
後半、非連続に拍子が3拍子から2拍子に変り、
どんどん低音に下がって終わる、
いたずら書きのような曲です。
こんなに複雑な作品が出来たんだよ、と、
父に向かって得意げにして見せる幼児の彼の顔が
見えるようです。
とはいえ、前後で動機が一致しており、
5歳児の並々ならぬ音楽感覚は充分に伺えます。

K.1b Allegro C-dur (1761 Salzburg); 二部形式
12bars.(3/4)
これも、いたずら書きっぽい作品です。
最初は左手と右手が追いかけっこ。
これはK.6で再び試みられます。
5小節目で追いかけっこは終り。
7小節目で左手が
「もういっかい追いかけっこしようよ!」
と呼びかけますが、右手は「やーだよ!」。
終わり方は前作よりも定型的になり、
彼の音楽に対する認識が少し進んだのが分かります。

K.1c Allegro F-dur (1761.12.11 Salzburg)
4 bars(repeat) and 8 bars(repeat), 2/4 ; 二部形式
『魔笛』のパパゲーノのアリアに似たテーマを持ちます。
・・・弾いてもそう感じましたし、解説にもそうありました。
でも、ほんとは「わたしゃ音楽家 森の小鳥・・・」
のほうが似ているかも。
作品としての安定度がぐっと高まります。

K.1d Menuetto F-dur (1761.12.16 Salzburg)
(Spelled "Menuetto", not "Meuett".)
8 bars (repeat) and 12 bars (not repeat);二部形式
bars 5-8 are in C major.
バロックの色合いがほの見えるメヌエットです。
綴りが以後の"Menuett"ではなく、"Menuetto"と、
oが付いていることに、作風につながる何らかの暗示が
あるのかも知れません。
13〜16小節の、「左手が呼べば右手が答える」
書法が、子どもらしい素直なウィットを感じさせてくれます。

K.1e Menuett G-dur (1761-2 oder 1764 Salzburg)
1956年にドイツ・モーツァルト協会から
K1a-dの4曲が出版されるまで、このメヌエットが
モーツァルト最初の作品だと信じられていました。
8 bars (repeat) and 8 bars (repeat); 二部形式
bars 5-8 are D major, 9-8 are A minor.
この曲と次のメヌエットは、今までの作品の中で
抜群の安定した作りを持っています。
前半8小節、後半8小節という、前古典派的な構成も、
前半部末尾での属調への転調、
後半冒頭の下属調に平行する短調への転調は、
少年モーツァルトが既に音楽の定型をしっかり身につけて
いることを明示しています。
これがアイゼンの説通りに5〜6歳での作品だとしたら、
あまりに急な進歩に驚くしかありません。
コンラートの説では8歳のときの作品となりますが、
それでもやっぱり、大したものです。
・・・楽しんで音楽を習得してきたのでしょうね。
   そんな素直な明るさがこの曲および次の曲の魅力です。

K.1f Menuett C-dur (1761-2 oder 1764 Salzburg)
1956年以前はK1eのトリオだと思われていました。
(ヘンレ版の楽譜などは現在でもそのように扱っています。)
bars 5-8 are G major, 9-10are A minor.

楽 譜:全音 ISBN4-11-106550-3
   (「モーツァルト 幼年時代の作品集・ロンドンの楽譜帳」)

作品表:西川尚生「モーツァルト」音楽之友社所載



ロンドンの楽譜帳

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著者:山崎 孝

販売元:全音楽譜出版社

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モーツァルト

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モーツァルト

著者:西川 尚生

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2006年5月19日 (金)

モーツァルト!

モーツァルト!
最初に好きになったのは「新世界」。
覚えるまで聴きまくったのはベートーヴェンの交響曲。
だけど、やっぱり、モーツァルト!
生誕250周年ですが、「アマデウス」のような映画も無く、日本で盛り上がっているのはCD屋さんだけ。
「癒しのモーツァルト」!〜そんなのいらんバイ。
本もCD紹介ばかり。
なので、もう、自分だけで盛り上がります。
ケッヘルの旧番号順で、1から626まで、可能な限り全部接するのが目標ですが・・・
どうなることか。
モーツァルト?音楽における天才の役割

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2006年5月18日 (木)

ガーシュウィン:ピアノ協奏曲

東京ムジークフロー
2004年定期演奏会から。
第1楽章のみをアップ。
ピアノ:ナイジェル・クレイトン
・・・ナイジェルさんはロンドン在住の、イギリスでは有名な「アンサンブル・ピアニスト」。
謙虚なお人柄でもあり、自己宣伝をしませんので、
サイトを探すとお名前がたくさん出てくる割に、日本人にとっては正体不明。
しかし、これを聴いていただければ彼の素晴らしさがご理解戴けます。
オケの方ではなく、ピアノに傾注頂ければ幸いです(TMFの皆さま、失礼!)

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シベリウス:Andante Festivo

東京ムジークフロー
2004年定期演奏会
アンコール曲
・・・めずらしく、最後まで集中を保てた演奏。
「それでもいつも、どっか、詰めが甘いんだよなあ」
と、娘に言われる今日この頃。。。

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イェーネフェルトの前奏曲

東京ムジークフロー
2002年定期演奏会
アンコール曲
・・・ドジったのは私です。すみません。

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2006年5月17日 (水)

僕は耳を閉じている

朝、出勤前に喫茶店で、「世界の調律」の頁を紐解き始めました。
序章で、著者シェーファーは
「私は本書を通してずっと、世界をマクロコスモス的な音楽として扱っていくつもりだ。」
と宣言しています。
これは、耳をきちんと「開いている」言葉だ、
「それにひきかえ」
と、ふと自分を振り返って、妙な気持ちになりました。

毎朝毎夕、通勤退勤の道すがら、私は古いiPodで、ちっとも上達しない語学の勉強用録音を聞いているか、こんど演奏会でやる交響曲を聴いているかしています。・・・中身は、しかし、どうでもよろしい。
イヤホン経由で音を聞いているあいだには、たとえ雑踏の中にいても、私は周囲の音に囚われることがない。それはそれでいいのだろうか?
「いいんじゃないの?」
「いや、どうだろう」
自問。
「これって、自分からすすんで、周りの世界から切り離されることを良しとしているわけだから」
「だから? それで寂しいとか?」
「それは、ないけど」
「じゃあ、やっぱり、いいんじゃないの?」
「どうだろうなあ?」
どうだろう、に戻っていってしまう。
「僕は耳を閉じている。世界から自分を切り離している」
「それって、なんだかすごそう」
「すごいといえば、すごい」
「世界を足蹴にしているんだものね」
「そこなんだよ」
世界を切り離している自分は、主体的にそうしているのかどうか。
むしろ、私がiPodのイヤホンで耳を閉ざすと、世界のほうが私を義絶しているんではないだろうか?
イヤホンをはずすたび、私は無意識に世界に対して謝罪をしているのではないか?



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メヌエット問題!:1 問題!

ハイドンまでの3楽章形式の「交響曲」には、メヌエットは含まれないか、フィナーレとして採用されているか、どちらかです。そのことは、下(先日)の<「イタリア風」シンフォニア>4で見てきている通りです。全曲が3楽章形式であるクリスチャン・バッハの作品18の中にも、メヌエットをフィナーレに持つものが1つ存在します。
で、交響曲を検討する際の幾つかの疑問のうち、どうしても引っ掛かるのが「メヌエット問題」です。
*古典派交響曲の大多数では、どうして第3楽章がメヌエットなの?
*メヌエットは3楽章構成のときは、どうしてフィナーレになることがあるの?
*メヌエットは、その後どうしてスケルツォに取って代わられたの?
通常、
「それが当然だからだよ」
という答えしか帰ってこない疑問ばかりなのですけれど、でも、考えてみると、ホントに当然なのか、だったら何で当然なのか、さっぱりわからないではないですか。
こんな疑問を持つこと自体が、無意味なマニア精神なのかもしれません。
でも、しかし、やっぱり! どうしても突き止めてみたい。無理やり考察してみましょう。
ただし、3番目の「スケルツォへの移行」は、この先ブルックナーを検討する際にとっておきます。というのも、これは3問中もっとも難しそうで、まだ見通しを得ていないからです。

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メヌエット問題!:2 最初の疑問

メヌエットは、交響曲の中ではどうとらえられているか。
<「イタリア風」シンフォニア>で参考にとりあげた書籍、「交響曲の生涯」には、こう書いてあります。
「舞踊としてのメヌエットは、多くの舞踊の中で一八世紀中最も人気が高かった。」
そんな一文を挟みながら、第9章で、メヌエットが交響曲に取り入れられた経緯について詳しい推論を展開してはいます。その趣旨は省略しますが、この推論の数々は私には納得がいきませんでした。
まず推論自体、宮廷舞曲だったメヌエットが交響曲に取り入れられた際に起った、交響曲の性格確立の問題を、当時の音楽家の主観的な記述を元に組み立てられていること。一例。
「多くの聴衆はメヌエット楽章を耳にしながら、自ら踊っているような雰囲気を楽しんだのだろう。」
・・・え? この本全体の主旨によれば、「交響曲」はまず、オペラやコンサートの導入曲、あるいは締めくくりの、変な喩えですがパチンコ屋の「蛍の光」的な曲種だったはずですから、お客は「踊っている気分」に浸りながら「交響曲」を耳にしていた保証はないのでは? 推測をしていくには、人の発言は事実と照合をしなければ意味が無いはずですが、ここでは著者はそのことに思慮が至っていない気がします(著作自体はステキなものだ、ということを否定するものではありません)。



交響曲の生涯?誕生から成熟へ、そして終焉

Book
交響曲の生涯?誕生から成熟へ、そして終焉

著者:石多 正男

販売元:東京書籍

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メヌエット問題!:3 さらなる疑問

次に、「交響曲の生涯」では、「メヌエットは一八世紀の『流行』」という前提を、何の疑問もなく推論全体に敷延していること。しかも、そもそもメヌエットとはなんぞや、という点については、全く考慮されていないこと。メヌエットは「交響曲」以前に、たとえば大バッハやヘンデルの管弦楽による組曲にも組み入れられています。あるいは、大バッハの無伴奏ヴァイオリンのパルティータ、とくに第3番。全曲が舞曲のタイトルを持っていますが、だからといって、バロックダンサーは無伴奏パルティータで踊るなどという発想はしないのではないでしょうか?
また、ダンスホールの歴史は知りませんけれど、たった1つの曲種であるメヌエットが、バロック期から古典派時代まで一貫して流行していたということは、人間の飽きっぽい性格を考えたとき、とても「あり得る」こととは思えません。
つまり、メヌエットは「舞曲」とされながら、本当に百年間も「舞曲」でありつづけたのかどうか・・・現在の日本人にとって第2次大戦直後の笠置シヅ子の「東京ブギウギ」がもはや踊るための曲とは考えられないことと同じ現象が、18世紀のヨーロッパでは起きなかったのでしょうか? そんなことが、あり得るのでしょうか? (喩えが古くさいですか? だとすれば、たった50年でもそんな老朽化が起こる何よりの証左ではないでしょうか?)

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メヌエット問題!:4 意外な素性

メヌエットはほんとうに得体の知れない「舞曲」です。
調べていくと、
「発祥はフランスのポワトゥ地方のブランル」(アーノンクール「古楽とは何か」他)
とあるのが真実臭く見えます。ブランルは既に16世紀には踊られていたらしく、当時の編曲物が残っています。
ブランルは、2・4拍子の偶数拍子系と3拍子系の2種類があるそうで、2拍子系のものはガヴォットの前身です。
耳にしてみたり譜例で見た数少ない例には、4拍子で始まり、後半部が3拍子というブランルもありました。このブランルの、3拍子の方が、17世紀中葉のある日突然、「ムニュmenu」とか「ムネmener」という呼び名で、リュリによってルイ14世の宮廷舞曲に昇格したとさているのです。・・・突拍子もなく「メヌエット」に変身してしまっている。
しかも、変身すると同時に、メヌエットは高位貴族によって踊られる格調高い舞曲として位置づけられます。メヌエットはデビューしたときから、庶民とは縁遠い地位を与えられたわけです。
「ほんとうにそうかなあ」と疑って、「ムニュ」ないしは「メヌエット」の名前で演奏された作品の、リュリよりも古そうなを探してみました。
たった1つ見つけた例は、スペイン人ギタリスト、フランチェスコ・コルベッタ(1556-1663)のもの。ただし、この人はイタリアやフランス、イギリスを遍歴して活動した音楽家で、少年時代のルイ14世にギターの手ほどきをしています。ですので、メヌエットの発生した場所はルイ14世の宮廷ではなかった、という可能性は、この人からは見出せません。ただ、没年から考えて、コルベッタは少なくともリュリに先駆けてルイ太陽王にメヌエットというものを知らしめた可能性はあります。
さらに、先の「メヌエットの前身はブランルだったのではないか」という流布説の中で、興味深いのは、それが「ポワトゥ地方のブランル」だったと考えられている点です。
ルイ14世の宮廷に取り入れられた舞踊は、その摂取に高い政治的意味があった、との考察があります(古山和男氏「古楽と古典舞踊」、現在webに掲載)。その考察によると、宮廷舞曲とされたものの発祥の地は、どれもフランス辺境に起源を持っています。辺境となれば、当然、隣国との境界争いの場だっただろうと推し量ることが出来ます。そうした土地の舞曲を宮廷で踊る・踊らせることは、国境へのフランスの領土権をアピールすることにもつながった、と、古山氏の推論はそんなふうに読めます。
ポワトゥ地方は、先代の王ルイ13世の時代後期に、強制課税に反発して大規模な反乱を起こした地域です。その地のブランルが、もともとの素朴な衣装を気品ある落ち着いたものに様変わりることで「王家の品格を代表する舞曲」に昇格したのも、「領土」をアピールするルイ14世のパフォーマンスの成せる業だったと考えてよいのかも知れません。



古楽とは何か?言語としての音楽

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古楽とは何か?言語としての音楽

著者:ニコラウス アーノンクール

販売元:音楽之友社

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メヌエット問題!:5 変貌の始まり

モーツァルトに、宮廷や貴族の需要のために作られた大量のメヌエット(単独のもののあつまり)があるのは、よく知られています。ハイドンについても同様です。しかし一方で、18世紀末に庶民が好んで踊ったのはコントルダンスであることが判明しています。
一方、ルイ14世の宮廷にメヌエットを定着させた、と言っても多分間違いないリュリその人には、92作のメヌエットがあるとのことです。
リュリの作例でも単独のメヌエットはとうとう見つけられず、バロック期の作例で探すと、素人の私が見つけ得たメヌエットは、ソナタや管弦楽組曲(タイトルはあくまで「序曲」)の中の1曲、というものばかりです。少なくともルイ14世の宮廷舞踏会ではメヌエットだけを単独で踊る、ということはなかったからのようです。
数が少ないので統計的に有意な断言は出来ませんが、バロックのソナタや「序曲(管弦楽組曲)」の中でのメヌエットの配置には、興味深い特徴があります。

・「メンバー入場」を示す曲の次に置かれている例
 マッテソン(1681-1764):
  序曲「カスティリアとレオンの王エンリコ6世
     の秘密の出来事」
     〜3曲目が「兵士の入場」で、
     それに続く4,5曲目がメヌエット
 コンティ(1681-1732):
  序曲「シエラ・モレナのドン=キスチオッテ」
     〜2曲目「入場」に続く3曲目がメヌエット

・最後または最後から2曲目に置かれている例
 テレマン(1681-1767)
  序曲「喧嘩」
 J.S.バッハ
  序曲(管弦楽組曲)第2番、第4番

バッハ以外はハンブルクで活躍した人々で、しかも同じ年齢です。
上で見るように、メヌエットの配置には2パターンあります。
最初のパターンは、入場曲のあとにあり、挨拶を交わしながら踊るメヌエットがそれに続く点で、舞踏会を彷彿とさせます。
あとのパターンでも、組曲は第1曲(実質上の序曲)を除いて全て舞曲からなるのですが、メヌエットが終曲又は最後から2番目というのは、どちらかというと、それまでの興奮をいったん静めるという、雰囲気のコントローラー的な役割を担う効果を担っているように聞こえます。大バッハの「無伴奏ヴァイオリンのパルティータ第3番」や「無伴奏チェロ組曲第1番、第2番」もこちらのタイプに属します。

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バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
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アーティスト:カザルス(パブロ)

販売元:東芝EMI

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OGT793 バッハ/序曲(管弦楽組曲第2番)ロ短調
OGT793 バッハ/序曲(管弦楽組曲第2番)ロ短調

販売元:音楽之友社

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モーツァルト大全集 第4巻:舞曲と行進曲全集(全235曲)
モーツァルト大全集 第4巻:舞曲と行進曲全集(全235曲)

アーティスト:ウィーン・モーツァルト合奏団

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メヌエット問題!:6 本当に踊られたのか?

リュリと同時代の、メヌエットを含む様々な舞曲の「舞踏譜」というものが残っています(浜中康子「栄華のバロック・ダンス」)。舞曲をどう踊るのか、を、記号で記した振付図です。それを見ると、同じ「メヌエット」というものに対しても、曲のリズムなどによって何通りもの振付で踊られたことが伺えます。また、併せて、たとえばモーツァルトのオペラ「ドン=ジョヴァンニ」の中の有名なメヌエットのシーンでも、17〜18世紀に踊られていたメヌエット通りの振付で踊られていることはめったに無い、ということまで分かります。ただし、私はバロック・ダンスそのものがどう踊られるのかを目にしたことは無く、文献からだけの推測では踊りの姿を完全にイメージすることは出来ていません。映像はでていますが、いまは金欠で買えません(T T)。
一方、前項で出てきたマッテソンは、メヌエットではなくアルマンドについてなのですが、こんな言葉を残しています。
「踊るためのアルマンドと弾くためのアルマンドとでは天と地ほどの違いがある。」
勝手な類推ですけれど、この言葉は他の舞曲にも敷延してよいのではないでしょうか? たとえば、先にも言いましたが、大バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ中のメヌエットで踊った人たちがいる、とは、普通にはどうしても考えられないとはお思いになりませんか?
バロック期はともかく、舞曲だけによる組曲が衰退し、大バッハの子供たちの時代には「シンフォニア」のなかに残っている舞曲はもはやメヌエットだけになりました。3、4楽章からなるシンフォニアが通しで演奏されたとは限らないものの、1楽章を除いて舞曲が無い作品が踊りのためであった、などというのはナンセンスでしょう。
したがって、「シンフォニア」に取り込まれたメヌエットは「踊られなかった」のではないか、というのが私の推論です。本当は「踊られた」と分かっているメヌエットと「シンフォニア」のメヌエットのリズムパターンなどを精査することで、初めて正しい結論が出せるのだろう、と思っております。それでも、直感的に聴いた場合、舞曲としての特徴をよく保っているリュリから大バッハまでのメヌエットと、モーツァルトの後期交響曲のメヌエットは、あきらかにまるきり異なったリズムパターンを持っているように感じ取れますから、あながち間違った推論でもないでしょう?
・・・とはいえ、様々な「メヌエット」の比較検討は、いずれやってみるべきだな、と感じております。



栄華のバロック・ダンス?舞踏譜に舞曲のルーツを求めて

Book
栄華のバロック・ダンス?舞踏譜に舞曲のルーツを求めて

著者:浜中 康子

販売元:音楽之友社

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メヌエット問題!:7 バッハ兄弟の改革

この節で、一応話は打ち切ります。
別に大バッハの子供たちだけがシンフォニアへのメヌエットに貢献したわけではないでしょうけれど、長男フリーデマン、次男エマヌエル、末子クリスチャンの作例は、メヌエットがこの先交響曲へと取り込まれていく過程に関連して興味深いものとなっています。
まず、長男フリーデマンのケース。
ヘ長調のシンフォニア「不協和音」(1755-58?)は、4楽章形式ながら、終楽章にメヌエットを置いています。このメヌエットは「メヌエット1」と「メヌエット2」から成っており、まだバロックの伝統に則ってはいますが、作曲年代を考慮すると、試み自体は非常に斬新だといえます。
また、父の作品だと信じられてきた「序曲(管弦楽組曲)」はフリーデマンの作であるとほぼ確定していますが、これは5楽章中の第4番目にメヌエットを置いています。
次に、エマヌエルの例。
ベルリンシンフォニーといわれているものだけに注目しますと(他はCDやパート譜をどこかにしまい込み過ぎて出てきませんでした。。。)、すべて3楽章構成の作品群ですが、Wq175として整理されているシンフォニー(シンフォニア、とはなっていません)では、終楽章にメヌエットを置いています。これも1755年出版です。
クリスチャンは、今回TMFで2番目のシンフォニーを演奏する作品18では、6作品(全て3楽章構成)中の第5番で、終楽章にメヌエットを置いています。作品9(3作品)の第2番でも同様です。以上は作曲時期は兄達よりは遅いのですけれど、この人はまた数多くのサンフォニー・コンセルタンテ(協奏交響曲)を残しています。楽譜は国内ではめっかんないし、買っても高いし、CDも手にしきれないので、4作だけを聴きましたが、面白いのは、うち3曲が終楽章をメヌエットとしている点です。
バッハ兄弟達の作例でのメヌエットの位置を、【5】であげたバロックの作例でのメヌエットの位置と比べてみて下さい。マッテソン、コンティとは明確に違いますし、テレマンや父バッハに比べると、子供たちのほうは積極的に、メヌエットを終曲に持って来ていることが分かります。この終曲は、シンフォニーがコンサートの冒頭で演奏される場合にはコンサートにふさわしい会場の雰囲気作りへの導入として、コンサートの最後に演奏される場合にはそれこそ先に言ったように「パチンコ屋の蛍の光」同様、お客様に楽しく帰って頂くムード作りに、それぞれ効果を上げたのではないでしょうか? パチンコ屋と違うのは、メヌエットはあくまで「宮廷音楽」なので、おそらくは聴き手にハイソな満足感を与えたんだろうな、というあたりでしょうか。
ここまでで、メヌエットは、シンフォニア〜交響曲に取り込まれる過程で、決して流行からではなく、もっぱら雰囲気の調整の役割を担うものとして、踊りとは切り離されてきた経緯が見えてきているのではなかろうかと思います。(エマヌエル・バッハは、クラヴィア作品は除き、比較的大きな室内楽向けには12曲程しかメヌエットを残していないことも、付記しておきます。)

以上、気負って始めたくせに、推論・仮説の域を脱することが出来ませんでした。
ココまで調べたことをふまえて、今後検証すべき仮説をまとめておくと、
1)交響曲のメヌエットは最初から踊られなかった!
2)交響曲にメヌエットが取り入れられたのは、
聴衆の高級指向という需要に応える目的からだった!
3)メヌエットがフィナーレまたはその直前に置かれたのは、
いったんムードを落ち着かせるためだった???

というところで。
お粗末さまでした。

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メヌエット問題!:文献とリンク

参照した文献は、主に次の3冊です。

・石多正男「交響曲の生涯」
 東京書籍2006.4.12 ¥3,200(税別)

・ニコラウス・アーノンクール
 「古楽とは何か 言語としての音楽」
 音楽之友社2005.12.31第8刷 ¥2,800(税別)

・浜中康子「栄華のバロック・ダンス」
 音楽之友社2001.1.31 ¥3,500(税別)

当時のフランス史について、最も網羅的なのは
・「世界歴史体系 フランス史 2」

他に、エマヌエル・バッハ、ハイドン、モーツァルトなどの伝記所収の作品表を参照しました。

ウェブ上にもいいサイトがあります。

・earlymusic-tokyo.com - 第1回「メヌエット」その1
http://www.earlymusic-tokyo.com/dance/chapter01.html

・音楽雑記帳

http://www.kt.rim.or.jp/~thirai/tbc/musicmemo.html

・ルネサンス舞曲集(第十八回演奏会
 http://park11.wakwak.com/~ope/about/past/prog/prog_05/ensoup3.html

・ルイ14世とバレエ音楽
 http://www.geocities.jp/mani359/ongakusi33.html




古楽とは何か?言語としての音楽

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著者:ニコラウス アーノンクール

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栄華のバロック・ダンス?舞踏譜に舞曲のルーツを求めて

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交響曲の生涯?誕生から成熟へ、そして終焉

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著者:石多 正男

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フランス史〈2〉16世紀~19世紀なかば


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販売元:山川出版社

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2006年5月16日 (火)

天上の音楽

子供のころ読んだある本に、次のような趣旨の文がありました。
「天上の音楽というものがある。それは人間には聞こえない。」
これを読んで、聞こえない音楽、というものに何となく心を引かれたものでした。「天上の音楽」は本当に聞こえないのか? 試してみたくて、いろいろな音に耳を傾けたものでした。
明け方早くに窓を開けると聞こえる、遠い国道の夜行トラックの走行音。遠くから聞こえるというだけで、こんな音も結構神秘的に聞こえるものです。
「でも、これじゃないな」
小学生の分際で、安い天体望遠鏡を担いで夜歩きしたりしました。ある月食の夜、出かける前にテレビで『怪談・牡丹灯籠』を見ました。向かったのは昼間なら車も人もそこそこ多い場所なのですが、夜道で三脚を構えていると、恐ろしいほどシンと静まり返っていました。ちょっと怯えているのを誰かが見澄ましていたかのように、しばらくすると、遠くからカラン、コロンと下駄の音。半泣きになって家へ飛んで帰りましたっけ。・・・あの下駄の音も、けれど、天上の音楽ではありませんでした・・・あたりまえか。
やっぱり「天上の音楽」は人間には聞こえないのだろうか? いつも疑問に思いつつ、あれから35年経ちました。

そんな私が、今日、素晴らしい本に出会いました。
R.マリー・シェーファー『世界の調律』
平凡社ライブラリー 575  ¥1,900(税別)

20年前には単行本ででていたようですが、全然知りませんでした。この4月文庫になって、やっと目に入ったのです。(この本は、一般的な意味での「音楽」の本ではありません。音環境がテーマ、と言ってしまうと、しかし、内容を矮小化した要約になってしまいます。)
5百頁を超える本で、まだ序章以外は斜めに目を通しただけですが、「天上の音楽」についても触れられています。まずはこの本を読みすすめながら、大好きな音楽を中心に、音とは何か、を日々考えていきたい、と思い立った次第です。
『世界の調律』から、今日最も印象に残った部分の引用をして、はじめての「日記」とします。

 ルネサンスまでは神を描くことは不可能だった。
 それ以前、神は音や振動として理解されていたのである。
 (中略)
 それはまた、地球圏外の音楽、すなわち「天上の音楽」の
 存在に対する深く神秘的な信仰を思い出させる。
 こうした音楽はその振動に共鳴する魂にのみ
 時々聞こえるだけなのである。
(序章 38-39頁)



世界の調律 サウンドスケープとはなにか

世界の調律 サウンドスケープとはなにか

著者:R.マリー・シェーファー

販売元:平凡社

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2006年5月11日 (木)

「イタリア風」シンフォニア 1

クリスチャン・バッハの作品18は、今日ふうに言えば「6つの交響曲」となるのでしょうが、出版当時の呼び名は「6つの大序曲」です。収録されている6つの作品全てが急〜緩〜急の「イタリア風」な3楽章で構成されています。しかしなんで、これが「序曲」なのでしょうか?
答えのヒントは、最近出た書籍「交響曲の生涯」(石多正男著 東京書籍 2006.4.12)をお読み下さい。私たち一般読者向けながら、交響曲の歴史を緻密に追いかけており、面白い読み物です。この本に掲載された18世紀後半から19世紀初頭のプログラムからは、「シンフォニア」または「交響曲」がコンサートの幕開けに取り上げられていることが読みとれます。「交響曲」は今日のような「演奏会のメイン」の位置にではなく、コンサートの導入に奏される曲種だった、というわけです。交響曲がメインに移行するのはハイドンの演奏会をもって嚆矢とします。
オペラの序曲が、バロック後期までに
・緩〜急〜緩の「フランス風」(3部分が連続している)
・急〜緩〜急の「イタリア風」(3部分が個別の部分となっている)
の2様式が主流となったこと、後者が古典派時代に「交響曲」へ変貌を遂げていったことは、周知の通りです。
参考までに、「交響曲の生涯」には次のように記載されています。
「序曲の原語はOuverture(仏、伊)であり、イタリア風序曲(中略、すなわち)18世紀を通してスカルラッティ型の「急〜緩〜急」の3つの楽章からなるシンフォーニアに対して、Ouvertureと記されている例はほとんどない。」

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「イタリア風」シンフォニア 2

イタリア風シンフォニアを確立させたとされるアレッサンドロ・スカルラッティが、どのオペラの序曲にもイタリア風シンフォニアをつけていたわけではありません・・・と偉そうに綴っていますが、私は楽譜やCDを買いまくれるような身分でも職業でもありませんから、たまたま聴いたことのあるCDが小さなオペラ2作品を収録しており、それらの序曲がイタリア風シンフォニアではなかったことから知ったというだけです。それら2作品の序曲は、小振りでチャーミングな音楽でした。そればかりか、うち1曲は小規模ながら立派なフランス風序曲でもあるのです。
弟子のドイツ人、ハッセにも面白い例があります。1769年作のCANTATE"L'ARMONICA"という作品の序曲は、構造は緩〜急〜緩で、これだけみるとフランス風序曲のようです。しかし、聴いてみると、印象はどちらかといえばイタリア風シンフォニアに近い感じです。フランス風序曲は声部間の対位法的な掛け合いが特徴なのですけれど(ヘンデル「メサイア」の序曲、バッハ「管弦楽組曲」第1曲などを思い出して下さい)、ハッセのこの作品にはそのような掛け合いが全くありません。このカンタータ、グラスハーモニカの名手だった弟子のソプラノ歌手のために書かれたとのことで、途中グラスハーモニカの響きも聞こえるユニークで美しい曲ですが、序曲部分は後にモーツァルト最後の3楽章構成の交響曲「プラハ」につながっていくものを孕んでいるように思われます(次々項参照)。
有名な話ですが、このハッセ、少年期のモーツァルトとミラノで「オペラ合戦」をし、敗れています(ちょっと歪曲した言い方です!)。その結果、ハッセはオペラ創作の筆を絶つ結果となりました。作曲家の世代交代と時代転換を象徴するこの事件は、1771年のできごとです。

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「イタリア風」シンフォニア 3

ここでクリスチャン・バッハに注目すると、現在CDで聴けるオペラは2作のみしか見つけていません。楽譜は全く発見できませんでした。耳に出来た2つきりの具体例のうち、「シピオーネの慈悲」の序曲はイタリア風シンフォニアではありません。「急」一辺倒でそのまま第1幕になだれ込む序曲は、モーツァルトでいえば「フィガロの結婚」を想起させます。ただし、「フィガロの結婚」序曲のほうは音楽として完結していますが、「シピオーネの慈悲」の序曲はオペラ本体に切れ目なくつながっている点で、当時としてはユニークな作りをしています(とはいえ、前項のハッセのカンタータも序曲とカンタータ本体の間に切れ目がありませんから、もっと調べていけば案外豊富に作例が見つかるかも知れません)。もう1作品のセレナーデ「エンディミオーネ」の序曲は、典型的なイタリア風シンフォニアです(余談ですが、10年くらい前のアニメ「セーラームーン」の主人公の相手役男性は、その名をエンディミオンと言いました。見てた人、いらっしゃいます?)。
クリスチャン・バッハを尊敬したモーツァルトもオペラの序曲にイタリア風シンフォニアを作っています。明確なのは「ルチオ・シルラ」序曲で、それぞれ独立した急〜緩〜急の3楽章で成り立っています。・・・奇しくも、クリスチャン・バッハの作品18−2も「ルチオ・シルラ」序曲です。
「偽の女庭師」序曲は、知る限りで演奏に2例あります。オペラに直結する演奏では急〜緩までを演奏し、第1幕へと入っていきます。独立した演奏では、急〜緩のあとに急の部分を再度演奏します。ちょっと変則的ですね。オペラと一体化した例しか耳にしていませんが、16歳の時に初演した「シピオーネの夢」の序曲も、「偽の女庭師」と作りが似ています。
「後宮よりの誘拐(逃走)」序曲は急〜緩〜急が一体化した「イタリア風シンフォニア」の代表例と見なされているようですが、実はこれは「イタリア風シンフォニア」とは似て非なるものではないかと私は思います。第1に、この作品はジングシュピールですから、序曲がイタリア風である必然性はありません。第2に、中間の「緩」の部分は歌劇本体に現れるアリアの旋律であり、このことだけで、オペラ本体と全く無縁な旋律から成り立つ(はずの)イタリア風シンフォニアとは一線を画しています。
以上、イタリア風シンフォニアがオペラと密接に関わっている事例を挙げてきましたが、オペラとは関係なく作り続けられたイタリア風シンフォニアも存在します。次に、ハイドン、モーツァルトのそうした事例をみてみましょう。

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「イタリア風」シンフォニア 4

J.ハイドンとW.A.モーツァルトは3楽章の交響曲を何年にどれだけ書いたか、ハイドンについてはスコアで、モーツァルトは楽譜は全曲は持ち合わせていないのでCDで確認しました。
結果は次のとおりです。ちなみに、(M)と記したものは、終楽章がメヌエットです。メヌエットが終曲であることは、決して珍しくなかったそうです。反面、私の参照したハイドンの伝記(1981年刊、大宮真琴)の作品表には。3楽章構成の「交響曲」に「メヌエット欠」という注釈がついていますが、これは「交響曲は4楽章で成り立っているものだ」という先入観の成せる業で、イタリア風シンフォニアを前提に書かれたこれらの作品に対する不当な視点を暗示しています。メヌエットの意味するものについては「交響曲の生涯」で簡単に触れられています。曰く、「メヌエットは流行音楽だったから」。今回はそれについて突っ込みませんが、その視点も正しいのかどうか、さらに検討を要することだと思います。それはともかく、作品をリストアップしてみましょう。

ハイドン=合計15曲(15/106、全交響曲の約7分の1)
1757〜59頃:1番
1760頃:18番(M)、19番、27番
1761頃:2番、4番、10番、交響曲A
1762頃:9番(M)、17番
1763頃:12番、16番
1764頃:25番(Adagio, Menuet, Presto)
1765年:30番「アレルヤ」(M)
1768年:26番「ラメンタツィオーネ」

モーツァルト=合計18曲(18/48、全交響曲の約4分の1)
1765年:1番K16、4番K19、K19A、5番K22
1766年:7A番K45A「旧ランバッハ」
1770年:10番K74、44番K81、11番K84
1772年:16番K128、17番K129、22番K162
1773年:23番K181、24番K182、26番K184、
      27番K199
1778年:31番K297「パリ」
1780年:34番K338
1786年:38番K504「プラハ」
      (Adagio-allegro, Andante, Presto)

モーツァルトの最後の3作を例外として、2人ともある時期に集中して3楽章構成の交響曲を作っていることが伺えます。

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「イタリア風」シンフォニア 5

伝記的な事実を簡単に確認しますと、ハイドンの1759年から1765年は彼がエステルハージ家に仕えるようになり、副楽長の地位にいた時期に相当します。楽長に昇進してから、と思われる最後の2作が、それぞれ「アレルヤ」と「ラメンタツィオーネ」という、聖歌の旋律を用いた作品である点には興味を惹かれます。この2作は、教会の儀式に先立って演奏されるべき曲として書かれたのではないでしょうか? そのために、既に楽長になり、4楽章構成のシンフォニアをつくるのが当たり前になっていたハイドンへ特別な作品を作るよう要請(もしくは下命)があったのではないか、と想像したくなります。
一方、モーツァルトのほうは、1770年まではロンドン・ハーグ・ローマ・ミラノ等に旅行している最中の作品に、3楽章のシンフォニアが集中しているように見受けます。1773年、80年の作品はザルツブルクで書かれていますが、80年の34番は、すでに後期交響曲の風格を備えていて、それ以前の3楽章作品とは重厚感が違います。それでも構成はあくまでイタリア風序曲です。
注目すべきは「プラハ」で、これは有名なAdagioの序奏を持ちます。4楽章形式であれば、「リンツ」が既にアダージョの序奏を持っていますが、「プラハ」の序奏は、3楽章の「交響曲」も、もはやイタリア風シンフォニアの定型を脱したことを高らかに宣言していると見なしてよいのではないかと思います。
「プラハ」型イタリア風シンフォニアとみてよい作品群に、カール・シュターミッツ(マンハイム楽派の中心人物だったヨハン・シュターミッツの息子)のシンフォニア群があります。この人のシンフォニアの全体像は分かりませんが、第1楽章に遅い序奏を持ち、その主部が「急」、第2楽章が「緩」、第3楽章が「急」である作品が、間違いなくいくつか存在しています。それらは1770年代の後半から80年代にかけて作られていますから、モーツァルトも耳にしていたかも知れません。
羅列に終わりましたが、1770年代から1780年代ごろまで「イタリア風シンフォニア」は過渡期の交響曲の重要なゆりかごだったことが、とりあえずはここに揚げた限りの有名作曲家達の事例からだけでも充分伺えるのではないかと思います。
これに関連してまだまだ好奇心をそそるようなトピックもいくつかあります。中でも、ハイドンが結構早い時期に「イタリア風シンフォニア」を卒業(?)しているのは何故なのか、は、ちょっと探ってみたいところです。とはいえ今のところそのための地図を持ち合わせませんので、他日を期すことにしましょう。

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「イタリア風」シンフォニア:付記

参考としたCDは、下に記す通りです(ハイドン・モーツァルトのものを除きます)。
どれもステキな作品達です。また、私の見聞きしていないものにも沢山、素晴らしい作品が眠っていることと思います。返す返す残念なのは、時期は少し下りますが、フランスの作曲家ゴセックの交響曲のCDも楽譜も店舗で見つけられなかったことです。「交響曲の生涯」には、ゴセックがクラリネットを活用している旨書かれていますので、いずれなんとか楽譜に目を通したいなあ、と思うのですけれど・・・

・SCARLATTI "HUMANITA E LUCIFRO" et "LA MADDALENA"
 teteatete OPUS111(2CD) 1995, 1993 (2003)

・HASSE "CANTATES SYMPHONIE A QUARTE"
 REZE ACCORD BARIQUE 4768374

・J.C.Bach "La Clemenza di Scipione"
 WDR3 cpo 999 791-2

・J.C.Bach "ENDIMIONE"
  WDR DHM 05472 77525 2

・Carl Stamiz Four Symphonies
 CHANDOS CHAN 9358

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2006年5月 7日 (日)

クリスチャン・バッハ略伝

モーツァルト好きには有名な話ですが、レオポルド、ヴォルフガング親子が共通して「最高の作曲家」と評価したまれな存在が、この「ロンドンのバッハ」でした。

ヴォルフガングが、苦悩の時代をすごしたパリ近郊から父に送った手紙・・・
「お父さんも良く知っているように、僕は彼(=クリスチャン・バッハ)が心から大好きですし、また最高に尊敬もしています。」

父レオポルドが、息子の冗長な作品に注文を出した手紙・・・
「美しく、短く作曲できなければ良い作品にはならない。ロンドンのバッハのようでなくては。」

また、クリスチャン・バッハの訃報を聞いて息子が父に綴った言葉・・・
「イギリスのバッハがなくなったのをご存知ですか? 音楽の世界にとって最大の損失です。」

(記憶で綴ったので、正確な文ではありません。あとで英訳を確認しましたら、とくにレオポルドの文は不正確です。主旨は合っていますのでご了承下さい。)

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モーツァルト父子は、はたして、クリスチャン・バッハを過大評価していたのでしょうか? 父子がこれほどまでに言葉をきわめて賛美した人物が、現在ではほとんどかえりみられません。

クリスチャン・バッハは、生前、間違いなく高く評価された作曲家でした。彼の時代、バッハと言えば1にクリスチャン(ロンドンのバッハ)、2には兄エマヌエル(ベルリンのバッハ、またはハンブルクのバッハ)を指しており、決して大バッハ(ヨハン・セバスチャン)ではなかった、という話も、いろいろな本にしばしば言及されているところです。しかも、エマヌエルは知名度の点では異母弟クリスチャンには大きく水をあけられていました。
大バッハが息子たちの名声を圧倒するようになるのは、メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の復活上演以降のことだった、という事実は、どなたもご存知のとおりです。
エマヌエルのほうは、最近は父に続いてCDも楽譜も多く手に入るようになり、知名度はクリスチャンと逆転してしまいました。
エマヌエルの伝記は、日本人著者によっても1冊の本として書かれました。しかし、クリスチャンについては、18世紀ドイツオペラの作曲家列伝的な書物に、ほんの十数ページ掲載されているだけであり、それも真贋入り混じったエピソードの連なりに過ぎず(筆者はエピソードの出所が事実か噂かを全く明記していません。下記1989年の詳しい伝記を参照しているはずなのですが、きわめて残念です)、生涯の情報について、少なくとも日本語文献上では兄ほど明確になっていません。
クリスチャンに関する最新の伝記は1989年にドイツで書かれ、5年後に英訳されています。探した限り、海外でも、第二次大戦後ではこれ1つしかクリスチャンの伝記は見当たりませんでした。
その序文が象徴的です。
「歴史家たちは彼を無視してきた。・・・私(著者)はその理由を見つけることから始めてみよう。」

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1989年の伝記作者が記した「クリスチャンが無視された理由」の第1は、前述の『マタイ受難曲』復活上演を機に起こった大バッハルネサンスです。以降、大バッハの再評価が進むにつれ、反対にクリスチャンやエマヌエルがそれまで得ていた評価も、事実は彼ら自身の活動から勝ち得ていた名声だったことが忘れられ、
「父親の名声のおかげ」
ということにされていってしまったのでした。
それでも、作風がバロックに近く、かつドイツを離れたことがないエマヌエルは、
「父ヨハン・セバスチャンの正当な後継」
とみなされた分、権威を失墜させられるまでの不幸にはみまわれませんでした。
クリスチャンは、作風が父と大きく乖離しており、かつ作品が平明で単純に感じられがちなのが災いしました。
父が復権するにつれ、クリスチャンの方は
「父の存在がなかったら、彼は忘れられていただろう」
というのに近いほど、評論家たちから小物扱いされるようになってしまったのでした。

伝記の著者は前書きではほのめかし程度しかしていませんが、大バッハ関係の著作などから伺えるあと2つの理由は、
・クリスチャンは修業時代を過ごしたあと一度も故郷に帰らなかったこと(彼と経歴の似た先輩、父と同年生まれのヘンデルは、時々帰省していました。)
・クリスチャンはイタリアに行ってからカトリックに改宗したこと
です。
とくに、カトリックへの改宗は、それまでプロテスタントの中で活躍していたバッハ一族のイメージを壊すものとして、主にドイツでクリスチャンが無視されていく大きな要因になったかも知れません。

けれども、クリスチャンは、無視され忘れ去られるにはもったいない、ステキな性格の持ち主だったことが、モーツァルト以外の人々の記録からも伺い知れます。
特に面白いのは次のような逸話です。

クリスチャンは、父の死後、ベルリンで次兄エマヌエルの世話になり、音楽修行を続けたのですが、修行中に作曲したクラヴィア協奏曲の、とある2つの草稿に、非常に対照的な書き込みが残されているそうです。
ある1曲は、兄の手で、
「エマヌエルの監修(により仕上げられた)」
と無愛想な文言が記されているのですが、別の1曲は、草稿の末尾に、クリスチャンの手でこう記されているとのことです。
「このコンチェルトは僕が作った。・・・なかなかキレイじゃないかい?」

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ヨハン・クリスチャン・バッハは、1735年、父ヨハン・セバスチャンが51歳の時に生まれました。
私はキリスト教徒ではないので由来がわかりませんが(ご存知の方、お教え下さい)、子供が誕生すると、親は付合いのある有力者をその子の名付け親に仰ぎます。クリスチャンの名付け親に選ばれた一人は、父の上司でもあるライプツィヒ聖トーマス学校の校長、J.A.エルネスティでした。エルネスティは前年に校長となったばかりでした。
前任校長のゲスナーはヨハン・セバスチャンの強い味方でしたから、ゲスナーが後任に選んだエルネスティとも良好な関係を保っていけるだろう、という観測のもとに、父はこの新上司を末息子の名付け親に頼んだのでしょう。
しかし、ことはそううまく運びませんでした。
エルネスティは音楽教育に関して、セバスチャン・バッハの死までその最大の敵となったのでした。
背景には、時代の急激な変化がありました。
「啓蒙主義」の流行です。
「啓蒙」とは、「誰もが、自然で、平明に」を旗印とした思想を軸にした社会運動を指すものです。代表的な思想家のひとりがジャン・ジャック・ルソーで、彼の著作の一タイトルが、まさにこの社会運動を象徴しています・・・『人間不平等起源論』。すなわち、不平等を嫌う考え方が世の中を覆い始めたのです。
エルネスティは古典文学に造詣が深く、後年ゲーテがその講義を受けたほどの英才でした。ギリシャやローマの古典を通じ、古代自由思想を理想としていた彼は、啓蒙主義の推進者として、権威を嫌い実利を重んじる校風作りを目指したようです。結果として、対照的に権威を楯と頼んで音楽活動を続けてきたセバスチャンのやり方にことごとくメスを入れ、エルネスティはセバスチャンを苦境に陥れたのでした。
父バッハは、外からも追いつめられていました。啓蒙主義社会は音楽そのものにも平明さを求めてメロディ至上主義を唱え出し、平明さに反する音楽家の代表格として、露骨な比喩で、実質上名指しでセバスチャンを槍玉に上げたのです。
クリスチャンは、こうした父の苦境を目の当たりにしながら成長していきました。一方、父のほうも、時代の新思潮と自分の育んできた人生観に大きな落差が生じた現実に目をつぶろうと『音楽の捧げ物』や『フーガの技法』という最も複雑な技巧に満ちた作品に自らすすんで埋没して行ったように見えます。そんな精神的姿勢のせいもあったのでしょうか、最後は心ばかりではなく、肉体の目も視力を失います。
諸説ありますが、後年の作風からみて、クリスチャンは兄フリーデマンやエマヌエルの域までの音楽教育は、父からは受けられずに終わったように思われます。クラヴィア演奏家としては完全な、しかし、創作家としては入り口まで、というのが、父に授かった教えの全てだったのではないでしょうか。大成したクリスチャンが、たった一度だけ、父の思い出を口にしたことがあるそうです。それは、こんな話でした。
「あるとき、僕が無意識に鍵盤を叩いていて、四六の和音の通奏低音付けを間違っちゃったんだ。そしたら、それまで脇でグッスリ寝ていた父さんが、突然ガバッと起きて、正しい弾き方を僕に教えてくれたんだ・・・」

父の死後、十五歳のクリスチャンは、フリードリッヒ大王傘下の楽団に所属していた次兄エマヌエルに引き取られ、ベルリンでこの次兄からなお4年ほど音楽の手ほどきをうけ、かつ、兄の庇護のもとでベルリンの音楽家達と親しく交わるチャンスを得ました。ただし、当地でクリスチャンが友人を得たのは彼自身の性格によるところが大でした。クリスチャンは母譲りの陽気で優しい人柄だったと言われています。
反面、兄エマヌエルは、ユーモリストではあったものの、そのユーモアがしばしば毒を含んでいたり、妻が富裕な商人の娘だったこともあってか、金に汚く利に聡かったりして、必ずしも周りに好かれる性格ではなかったようです。
それでも、クリスチャンは音楽家としての着実な基本は、この兄のおかげで習得できたのでした。兄は間違いなく最高の鍵盤楽器奏者でしたし、父の技法を受け継ぎながらも、時代の雰囲気に適った直裁な作風で優れた音楽を生み出し続けていました。また、推測の域は出ませんが、クリスチャンがロンドンで活躍できる素地作りにも、兄エマヌエルが一肌脱いでいた可能性もあります。クリスチャンがロンドンに渡った同時期に、兄エマヌエルの弟子を公言してくれていたゾフィー・シャルロッテがイギリス王妃となっているからです。

ですが、クリスチャンのイタリア行きには、兄エマヌエルは貢献していません。
彼のイタリアへの出発については、こんな説話が流布したそうです。
「兄の同僚であったアグリコラが結婚し、イタリアの新婦の実家へ行くことになったが、面接の上で、連れていく従僕を決めた。その従僕はヒゲ面の老人だった。イタリアの目的地に着くや否や、ところが、従僕は初めて巧みな変装を解いた。鬘を脱ぎ捨て、付け髭を取った従僕は活き活きとした若者、クリスチャン・バッハその人だった。」
日本語で現在唯一読める短い伝記にもこの説話が「実話」として採り上げられていますが、アグリコーラの結婚は1751年、クリスチャンのイタリア行きは、3年後の1754年であることが分かっていますから、残念ですがこの話はウソです。

クリスチャンのイタリア行きを熱心に奨めてくれたのは、フリートリヒ大王と懇意だったボヘミアの支配者、ロプコヴィッツ伯爵家の嗣子にあたる人物(ベートーヴェンを後援したロプコヴィッツの父)でした。この人は、クリスチャンがベルリンに移ったばかりの1751年から、すでにクリスチャンを見込んで、そのイタリア行きを熱心に奨めていた節があります(この年にハンブルクへ旅したエマヌエルが、旅先で話題にしていることから、事情が伺われます)。
それでも、兄は、弟を養育しなければならないという義務感からでしょうか、なお3年はクリスチャンを手元から離しませんでした。
ですが、やがて7年戦争勃発し、フリートリヒ大王が宮廷楽団の規模縮小をほのめかすと、兄は念のために、新しい就職先を探す必要に迫られました。父親譲りと思われるエマヌエルの頑固な音楽観は、大王には煙たがられていたからです。
そうなると、クリスチャンもこれ以上、兄の家計に迷惑をかけるわけには行きません。
詳細な事情は判明していませんが、おそらく経済的な事情から、クリスチャンは数年にわたるロプコヴィッツ伯の好意に応え、ロプコヴィッツ家と親しかったミラノのリッタ伯爵をパトロンに仰ぐことになったのでした。

イタリアでは、当時最も高名なマルティーニ神父が、クリスチャンの音楽の師となります。
いつごろの作品かはわかりませんが、クリスチャンの手になる「<BACH>によるフーガ」というオルガン曲があります。ここで繰り広げられる対位法は、タイトルから予想されるイメージとは異なり、父や兄フリーデマン、エマヌエルのものとは全く違います。むしろ、ハイドンやモーツァルトのフーガに近いものがあります。・・・
ハイドン、モーツァルトの対位法はマルティーニが教えていた対位法と同じルーツのものです。したがって、クリスチャンのフーガが意味するのは、クリスチャンの対位法の師は父でも兄でもない、マルティーニであった、という事実です。
マルティーニのもとで、クリスチャンは数多くの教会音楽を熱心に作っては師の指導を仰いでいます。そのため、教会音楽の色合いも、父や兄達のものとは全く異なっています。
この点は、以後のクリスチャンを考えるときに、重要な鍵のひとつとなります。

マルティーニの元で修行に励むクリスチャンを、パトロンのリッタ伯爵は宗教音楽とは別の方向・・・すなわち、オペラへと向けさせようとし出したことが、イタリアに住んで3、4年経ったクリスチャンの書簡から伺われます。
クリスチャンはマルティーニの住むボローニャに滞在することが困難になり、リッタ伯爵のお膝元であるミラノに拘束されることが増えていきました。
リッタ伯爵のもくろみは1761年、クリスチャン初のオペラ作品として成就しますが、その結果は、リッタ伯爵にとって思い掛けないものとなります。

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ミラノでのパトロン、リッタ伯爵の刺激により、クリスチャンは、バッハ一族で唯一のオペラ作曲家となりました。
しかも、第1作からして、リッタ伯の思惑を遥かに超えた成功を収めたのですから、大変なことです。興行師がクリスチャンの才能に目を向けるのは当然でした。
クリスチャンのもとへ、リッタ伯爵を通さないオペラ創作の打診が来るようになり、彼は尚2作をモノにします。2作目は第1作に続いて大きな反響を呼びましたし、第3作はそこまでとはいかずとも、まずまずの成功といえました。

リッタ伯爵は、なにも、クリスチャンをオペラ専門の作曲家にまでしようと考えていたわけではありません。クリスチャンの視野を広げたかっただけなのでしょう。その証拠に、リッタ伯はクリスチャンをミラノのある教会のオルガニストに就任させることにも注力しました(これに伴い、クリスチャンはカトリックに改宗します)。
しかし、父や兄たちと違い、オルガンはどうも、クリスチャンの嗜好と能力には合わない楽器のようでした(後年、彼の弾くオルガンについてロンドンのある婦人が「あまりうまくない」という感想を漏らしています)。そのため、クリスチャンは、オルガニストとしての勤めは充分に果たそうとせず、歌劇場でバレリーナといちゃついているありさまでした。リッタ伯爵は、そんなクリスチャンに愛想をつかし、二人の関係は断絶してしまいます。・・・それでもなお、ロンドンに永住を決意するまで、クリスチャンはミラノの教会オルガニストの地位は失いませんでしたが。

「ミラノにいづらくなったから」
そんな理由でクリスチャンはイギリスへ渡ったのだ、という話もありますが、どうやら彼にはそこまでの罪悪感も、逃避したい気持ちも、あったわけではなさそうです。
たまたまイギリスの興行師が有利な条件を持ち出したので、初めは
「モノは試し!」
くらいの考えで、彼はイギリスのオペラ界に顔を突っ込んだのでしょう。

経緯は省きますが、ロンドンに渡った1762年に、イギリス王室に輿入れした女王で兄エマヌエルの弟子であったシャルロッテ付の楽長となり、翌年には2つのオペラを成功させ、「ロンドンのバッハ」としての輝かしい一歩を踏み出します。
日本の芸能界にもあるそうですが、当時の音楽家の世界にも激しい足の引っ張り合いがあったことは、モーツァルト親子がサリエーリを目の敵にした事例などでご存知の通りです(映画『アマデウス』ではサリエーリの方がモーツァルトを嫉妬したことになっていますし、モーツァルトびいきはいまだにそう信じていますが、史実を確認すると、サリエーリはモーツァルトを嫉妬していた形跡がありません。むしろ、鷹揚に構えていたように見えます。・・・脱線してすみません)。。
ロンドンの王立歌劇場も、足の引っ張り合いが激しく演じられた場所でした。
行ったばかりで大成功をおさめたクリスチャンは、早くも翌年には歌劇場の勢力争いに巻き込まれ、支配人の座が彼の対抗派に握られると同時に大切な歌手を解雇されたり、オペラ創作のチャンスを横取りされたりします。
それでも彼は、王室の保護も得たことだし、当面はイギリスに腰を落ち着ける決心をかため、64年頃にやっと、ミラノのオルガニストの座を降りたと思われます。
そこで新たに彼が打った手が、有名な「バッハ=アーベルコンサート」です。
アーベルは父セバスチャンの元にもいたことのあるガンバ奏者で、クリスチャンとは旧知の仲だったのかも知れません。彼も1761年にはロンドンに来ていました。
二人が知り合ったのは63年だと考えられますが、そこで経済的な目論見が一致したのでしょうか、年下のクリスチャンが経営する恰好で、「バッハ=アーベルコンサート」は1764年から開始され、後述する事件でクリスチャンが高額の債務を負うことになった1780年まで、高い人気を保ったまま継続されることとなります。

コンサートが開始された64年、モーツァルト親子がロンドンを訪ねてきます。王に拝謁した8歳のヴォルフガングを、クリスチャンは王夫妻の目の前で膝に抱き、二人は二時間ほどぶっ続けで一緒にクラヴィーアを演奏しました。お互いに謎掛けし合うように手を交代しながら弾いたそうですが、ヴォルフガングの姉、ナンネルの記憶によると、
「まるで一人で弾いているように見事につながっていた」
ということです。
幼いヴォルフガングは、この経験でその人柄に魅せられ、かつはその作品の透明さに深い印象を受け、生涯「ロンドンのバッハ」を尊敬し続けることとなります。

ロンドンに渡った時27歳だったクリスチャンに残された命は、あと19年強です。
「ハッピーエンド」を嗜好した当時の観衆に応え続け、対外的にはさしたる浮沈もなく過ごした彼にとって、これは短か過ぎる期間だったでしょうか?
オペラ界で高い評価を得た人物にしては、彼は先輩のヘンデル(36年間で41作)、心酔者モーツァルト(ジングシュピールを含め24年間で17作)に比べ、オペラの数は20年間で13作程度、と、数でも割合でも思いがけないほどの少なさです。これは、オペラに限らず器楽でも「ハッピー」な印象の強い作風でありながら、彼が内面では起伏の激しい生活を送っていたことを反映しているのかも知れません。
ロンドン・オペラ界のドタバタに振り回され続けたのも勿論ですが、彼はまたハンサムでモテモテだったために、恋多き男だったようでもあります。
アーベルと演奏会を開始した7年後、一家でロンドンへやって来たマンハイムのソプラノ歌手に、クリスチャンはメロメロになってしまいました。その父の誘いを受けて、
「ヘイ、ヘイ!」
という感じの実に軽いノリで、クリスチャンは一家の帰郷にくっつき、マンハイムへと向かいます。
その地で旧作のオペラを上演し高い名声を得たクリスチャンは、彼女と結婚してマンハイムに居残る腹積もりでした。張り切って、彼の作品の中でも際立って美しい
「4声と合唱のためセレナーデ『エンディミオーネ』」
も作っています。
残念ながら17も年下、しかも引く手あまたの美人だった彼女に見事にふられ、クリスチャンは深い傷心にいたたまれず、さっさとロンドンへ帰還します。幸せはその地で待っていてくれました。ミラノ時代から顔見知りだったと思われる女性、チェチーリアが、1773年、クリスチャンを生涯の伴侶として抱き留めてくれたのです。

個人の幸せをようやく掴んだクリスチャンの、短い絶頂期は1776年から78年。この最初の年に、クリスチャンは師マルティーニに「大音楽家コレクションのため」と乞われて有名な肖像画を師宛に送ります。終りの年があまりに早いのは、対岸のフランスはパリでのオペラ界の勢力争いに、人の好いクリスチャンがまんまと乗せられたためです。
パリでは当時、「グルック・ピッチンニ論争」として知られるオペラ界内での激しい対立がありました。それも後年の我々ですから
「そんなことがあったんだよ」
と歴史を知ることが出来ますけれど、激しいとは言っても結局は狭い世界の中での対立です、外にいるクリスチャンはそんなことを知る由もありません。
「論争」に敗れたピッチンニ・・・この人もかなりのお人好しだったそうです・・・の後釜として目をつけられたのがクリスチャンでした。パリで、クリスチャンは新作オペラを作りましたが、反響は「概ね好評」程度でした。しかも、対抗側のご本尊、グルックは、クリスチャンの訪仏からほんのわずかな後に、さっさと自分のホームグランドであるウィーンへ帰ってしまいました。これでは話になりません。クリスチャンもパリに長居は無用でした。
この時、モーツァルトもパリにいました。父の言いつけで就職活動に来ていたものの、どうしてもパリの風土に馴染めなかったモーツァルトに、同行していた母の死が追い討ちをかけます。
傷心のモーツァルトを支えたのが、たまたま出会ったクリスチャンでした。クリスチャンはモーツァルトに、
「一緒にイギリスへ行こう」
と誘いをかけたと思われます。残っているモーツァルトの父宛の手紙から、そのように推定されます。
しかし、モーツァルトのイギリス行きは、父の強引とも言えるザルツブルクへの帰還要請により実現しませんでした。

ロンドンへ戻ったクリスチャンは、このころすでにアルコール中毒だったと考えられています。アルコール中毒の原因になったのは、酒好きのアーベル、その友人でクリスチャンの有名な肖像画の作者であるゲインズバラの二人からの影響によるものだ、と、伝記作者ゲルトナーは述べています。3人の中で最も早く亡くなったのはクリスチャンですが、他の二人の死因もアルコール中毒だったことが分かっているからです。

進行するアルコール中毒で体力が衰えていたのか、ロンドンに帰ってからのクリスチャンの作品数はあまり多くないようですし、注文があったにも関わらず、オペラは1つも書けていません。
そんなクリスチャンを襲った大事件が、彼の死期を早めました。

クリスチャンは永年信頼していたメイドに、オペラ舞台作りなどの委託先への支払を任せきりにしていました。これが災いしました。主人にお金をまかされ、しかも主人のチェックが甘いと、使い込みがエスカレートするのは世の常です。このメイドも同じ罪を犯し、しかも、バレそうになった絶妙のタイミングで遁走したのです。・・・金融では当時世界一だったロンドンも、債権債務の保護の仕組はまだ確立されておらず(直接関係しないかも知れませんが、例えば、有名な保険ブローカー、ロイズの機構が法的にも整ったのが1772年で、法人化はほぼ99年後の1871年・・・クリスチャンの生前には保険の保護という観念も、まだ一般に浸透しきっていま
せんでした)、クリスチャンはそれまでのお金持ち身分から、突然、多額の債務を負う立場へと追い込まれてしまいました。1780年のことです。
ショックから急激に気力の衰えたクリスチャンは、回復へ向かうことなく、81年の11月には遺言を残し、翌1782年1月1日、妻と数少ない友人に見守られ、ひっそりと息を引き取ったのでした。享年46歳6ヶ月、私の今の歳より2ヶ月短いいのちでした。

生前は絶大な名声を誇ったクリスチャンでしたが、死後は急速に忘れられていきます。
かつて、兄エマヌエルがクリスチャンを評して
「あいつの音楽は耳には快い。が、精神には何ももたらさない」
といったことを述べています。発言当時から、これは、かつて面倒は見たものの、血のつながらない弟の大成功への嫉妬は免れえなかった頑固なエマヌエルのやっかみだ、と捉えられてきました。
ですが、兄のこの評価は、クリスチャンの急所を的確に突いています。
啓蒙主義全盛期の、ハッピーエンドを好んだ観衆、耳当たりの良さだけを望んだ聴衆を絶対に裏切らなかったからこそ、クリスチャンは名声を保てました。しかし、亡くなった1782年はフランス革命の7年前です。時代と嗜好は、大きい転換点を迎えます。
フランス革命を境に、思潮はロマン主義へと転じ、安定しない世相の中で、人々はむしろグロテスクなもの、迷走する筋書きに魅力を抱き始めます。クリスチャンのような純真さは、もはや、そんな社会に要求されるものでも、望ましい存在でもありませんでした。父のお株が上がり、やがて長兄と次兄の名誉は回復するものの、クリスチャンが今でもあまり顧みられないのは、私達の時代がなお、複雑さを指向し続けているからではないか、と考えれば分かりやすいでしょう。

それでも、クリスチャンの音楽の純真な響きが、私達の大多数が現在好んでいるモーツァルトその人の心を捉えて放さなかった響きであった、という事実は厳然と残っています。モーツァルト生誕250年だからこそ、この事実の意味が見直され、問い直される必要も価値も、大いにあるはずです。

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文献)
・Heinz Gaertner(aeはAウムラオト)
 "JOHN CHRISTIAN BACH-MOZART'S FRIEND AND MENTOR"(原書ドイツ語。英訳本)
ですが、日本語では以下のものを参照しました。
・ヴォルフ「ヨハン・セバスティアン・バッハ 学識ある音楽家」
・久保田慶一「エマヌエル・バッハ 音楽の近代を拓いた<独創精神>」
・丸本隆(編)「オペラの18世紀」

録音)
クリスチャン・バッハ作品のみのものは別途ご紹介します。
「バッハ一族」や「ヨハン・セバスチャンと息子たち」の作品を集めたCDは、国内盤ではあまりありませんが、輸入盤ですと1枚ものでも結構あります。バッハ一族の世代による作風の違いは、それぞれの人が生きた時代を反映していて興味深いものがあります。ぜひ、ひとつでもお聴きになってみて下さい。
ヨハン・セバスチャンと息子たちの作風を1枚で比較出来る例として
・"Organ Works of the BACH Family" hanssler Classic CD94.038(ドイツ製1991)
・"Bach and sons 5 piano concertos" PIANO21 p21 013 ND211(フランス製2003)
といったものがあります。

イタリア時代までの作品(抄)
(ライプツィヒ時代)
1748   父バッハ『管弦楽組曲第2番』ポロネーズのクラヴィア用編曲

(ベルリン時代)
1752   カンタータ "L'Olimpe"
1754以前 クラヴィア協奏曲へ短調、同ニ長調(他数曲?)

(イタリア時代前半)
1757   "Dies Irae"、"Kyrie"
     上記を含むミサ曲(レクイエム)?
     Six Sonatas for Keyboard accompanied by flute ore violin(Op.16)
1758   "Magnificat"
     Six string torios
     Seven sonatas for violin and keyboard
     カンタータ"Lezioni"
     "Miserere in 10 movement"
     "Beatus vir"
     "Domine ad adjuvandom"
     "Laudamus Te"
     "Te Deum"
1759   "Tantum ergo"

(ヨハン・クリスチャン・バッハのオペラ作品)
・「アルタセルセ」
  "Artaserse" 1761 Turin
・「ウティカのカトー」
  "Catone in Ytica" 1761 Naples
・「インドのアレクサンダー大王」
  "Alessandolo nell'Indie" 1762 Naples
・「オリオン」
  "Orione" 1763 London
・「ザナイーダ」
  "Zanaida" 1763 London
・「シリアのハドリアヌス帝」
  "Adriano in Siria" 1765 London
・「カラッタコ」
  "Carattaco" 1767 London
・「テミストクレス」
  "Temistocle" 1772 Mannheim
・「ルチオ・シルラ」
  "Lucio Silla" 1774 Mannheim
  (今回やる Symphonie op18-2はこの作品の序曲【イタリア風序曲】)
・「愛の勝利」
  "Amor Vincitore" 1774 Schwetzingen
・「シピオーネ(スキピオ)の慈悲」
  "La clemenza di Scipione" 1778 London
  生前唯一出版されたオペラ作品(Op.14)
・「ゴールのアマディス」
  "Amadis des Gaules" 1778 Paris
・「オンファーレ」
  "Omphale" 未完(London)

(生前及び没後に作品番号を付されて出版されたもの)
作品1  6つのハープシコード協奏曲(1763)
作品2  鍵盤楽器、ヴァイオリン又はフルートとチェロのための6つのトリオ(1763)
作品3  6つのシンフォニー(1765)
作品4  6つのカンツォネッタ(1765)
作品5  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1768)
作品6  6つのカンツォネッタ第2集(1770)
作品7  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲(1770−75)
作品8  6つのフルート四重奏曲(1770−75)
作品9  3つのシンフォニー(1770−75)
作品10 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1770−75)
作品11 6つのフルート四重奏曲(1772−77)
作品12 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲第3集(1772−77)
作品13 同上
作品14 シピオーネの慈悲(->オペラ参照。CD有)
作品15 ハープシコード又はピアノフォルテのための4つのソナタと2つのデュエット
作品16 6つのヴァイオリン(フルート)ソナタ(1779)
作品17 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1779)
作品18 6つの大序曲(実質上、シンフォニア。)
(以下、死後出版)
作品19 4つの四重奏曲(原曲は5重奏)
作品20 3つのフルートソナタ
作品21 3つの序曲
作品22 2つの五重奏曲

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