2019年3月 3日 (日)

「機械的」ということ

職場での悩み事から入る。
とある、世に言う「大会社」の、そのまた「事業会社」の「子会社」が出来ると、そこに事務仕事の担い手で行く、という会社員生活をしてきた。といっても、通算36年のなかで、そういう境遇ではなかった8年を除き、いまいるところで4社めである。1会社に平均して7年いたことになる。経理の方法やら、それを日常のサイクルに定着させることやらがあるので、これでも短いかもしれない。かつ、会社にとってこんな空気のような仕事だから、評価もされることはない。人間的に卑屈だ、ということも相まってだろうし、部下を抱えられるような性格でもないので、万年ヒラ社員で、出世にも無縁である。が、そんなことは悩みにはならない。妻もいて子供も出来てバリバリな気持ちがちょっとだけ湧いた時期には、少しは出世欲もあった気がするが、それでも社員旅行の途中で妻から「(赤ん坊だった)子供が熱出しちゃった、帰って来て」と電話が来れば、とんぼ返りで帰って、周りの顰蹙も買った。まして、14年前にウツを発し、妻が13年前に死んで一人で子供の心配をする羽目に陥ってからは、ますます会社に忠誠型の人間からは程遠くなった。とりあえずウツは治ったことにして、洗濯やら食事やら買い物やら家計やら学費やらをどうまわすのか、日常のトラブルをどう乗り切ればいいのか、身内があてに出来ないので基本は自力、それが不可能なら独力で相談相手を見つけ、を原則に生きなければならなくなった。なんとかなったわけではないながら、見かけは無事に子供らも成人してそれなりの自活も七転八倒しながら始めた今になって、こんな生き方が出来たのは、しかし半分背中を向けていた会社環境に無言の助けを得られたからだ、ということが分かって、むしろ会社員生活がしてこれたことには大きな感謝の気持ちでいる今日この頃なのではある。気づいてみれば、いつのまにかウツも完治していた。

悩みは、事務という仕事を、引き継ぐ相手がなかなか出来ないということがひとつめで、これは人を親会社に回してもらうしかなく、事務に空気以上の価値を感じてくれる体質が会社でもう少し増してくれれば、と願うしかない。しかしながら、自分のようなダメ社員(営業時代はからきし売れず、世間知らずで恋愛にも不器用で入社後10年くらいまではつまらんトラブルを無自覚に起こした)が事務屋に回ったことも一つの典型であるように、人事の観点では「前線で使い物にならない、あるいは従業員の管理能力がない、人とトラブルを起こす」人間を事務屋にまわせば済む、なる価値観が、会社と言うところでは優勢なのではないか、と下種の勘繰りをし続けている。事務屋に回った輩のほうも、ああ、営業みたいな仕事から見れば、機械的にできる分ラクになった、とでも思うのか、想定されているはずの仕事の日常において、周りの人たちの仕事がわずかでも何か逸脱を起こしているのではないか、との兆候をつかむという、本来的な事務仕事の根源を身につけてみたい、との欲求は、あまり持たないようである。反面、事務仕事は「資格」のネタにも恵まれているので、「現場応援」より「資格取得」に目がいってしまいがちなところもあるかも知れない。「資格」云々は、しかし明確なことではないし、自分自身は資格何するものぞと反発し逆行して来たことなので、措く。次の悩みと併せて、「機械的にできる分ラク」と思われている気がする、というところにウェイトを置いて、この先を考えてみたい。

で、二つ目の悩みである。

たとえば収入となるお金が会社口座に入ってくる。預金を「管理」している人は、それを「機械的に」収益の勘定で計上の伝票を切ってしまう。その金額には円単位の端数がある。
入金のなかでいちばん大きな対象となる商品の性格上、実は、収益となるべき金額には、千円未満の端数はない。なので、入金額に円単位の端数がある場合には、収益からの相殺額があるか、または別の種類に分けられなければならないぶんの入金が上積みされているはずである。であるのになぜ「機械的に」入金額全額を収益の勘定だと思ってしまうのか。それは自己の商品について理解をしていないから、と言うことに尽きるだろう。
もうひとつ、収益の勘定にしていいのか、という問題(大げさだが)もあって、本当は、この商品については、お金が入る前に収益として把握してしまっている前提で、あらためて未収入金としておく経理処理サイクルを組んでおいたので、商品についての入金は「機械的に」未収入金の勘定でしてもらう仕掛けにしておいたのでもあった。であるので、勘定は未収入金にして欲しかったのだ。しかしそこは別の商品は入金タイミングの関係上で入金時に「機械的に」収益計上する仕組みになっているので、預金を「管理」する人は、どうしても混同しやすい面もあるかと思う。
こんなミスが年1回で済めばいいのだが、数ヶ月に1回は起こる。こちらがミスを把握するのは、一ヶ月の帳簿が締まって初めてなのでもあり、「機械的に」処理されることを防ぐにはどうしたらいいか、小さいことのようではあるが頭を抱えている。

またたとえば、業務管理のための「システム」を、昨年暮れにパッケージ物に入れ替えた。
自社の業態に合わせてのカスタマイズはかなりしてあるのだが、基本は新パッケージの仕組みに合わせて各自が担当業務を構築し直すことを期待している。
ところが、お客様口座から引き落としで代金を頂く商品につき、担当が
「新しいシステムでは機械から引落し対象のお客様のリストが出せない」
と言って来た。言って来た、というわけではなく、こちらがお客様口座から引き落としで代金を頂く商品につき、代金をいただいたあとの確認のためにリストを依頼したら、そういう返事なのだった。
カスタマイズがそこに追いついていないのなら、手書きででも、あるいはいまどきだからExcelで作った表ででも呈示してもらえばいいのである。しかし、それはイヤだと言う。
切り替え前のシステムは、長年使い込んだものでもあったから、たしかに簡単にリストが出るようにはなっていた。ただそれでも引落しにあたって、引き落としてはならないお客様につき、リストの事前確認は必要だったはずだ。
切り替え後事故がなかったのが幸いだったのではあるが、では、その前は上のように必ずすべきであった、事故防止の為の確認はしていなかったのか、との、モラル問題が浮き出てくる。せっかく「機械的に」出せるリストがあっても、ただぼんやり眺めて、終わり良ければすべて良し、で済ませていたのだろうか。そう考えると恐ろしい。良かったのは、この件は担当ベースではなく、管理者さんベースでもウォッチされていたため、結果として心配がいらなかったことだ。それで安堵はした。

別に愚痴を綴るつもりだったわけではなく、広く「文化とは何か」を自分なりに問うてみようと思ったとき、それは「見かけからだけでは読み取れないものを自力で読み取る、人間らしい営み」なのではなかろうか、と感じ始めて、身近なことからあぶり出してみて、あらためてそういえば、と考えた結果、出て来た悩みなのではある。こうして整理しておくことが、明日から自分のすべきことを見つけるのにまた役立つのではないか、との思いが、いちばんなのではある。

併せて、脱線のように見えてしまうが、子供の教育は「これから社会で目にするだろう契約書の読みかたを教えるのがいちばんいい」との類いの発想がいかに危険であるか、も、もっといろいろな局面から洗い出せて行ければいいのだが、とも思っている。
「こういう契約だから、こういう条文があったときには、こういう対処をすればよい。または、こういう条文があったら安全だ」
程度のことを読み取るだけの力を付けるのが教育の目的になり得るのだろうか。
たとえば会社員は皆、雇用契約から始まって、日常業務もある種の契約で組み立てられていることを消化しながらやる人種である。
しかるに、上に悩みで述べたようなことのほうが、普段当たり前に見られる。
「通り一遍の実務が出来る」
は、どんなに軽率な・・・あえて軽卒と言う・・・教育方法からでも身に付くし、会社の一員として最低限身に付いたことをやっていれば、個人の死活問題になるような大それたことは稀にしか起こらない。
でも、それでいいのか。
商品の価格は契約である。
代金の頂き方は契約である。
それがプログラムに組まれたものの上で処理される以上、「機械的」にやることは、普通の場合は、契約違反を防ぐいちばん確実な方法に見える。
ところがそうではないのだ、ということは、上の悩みごと事例からだけでもハッキリ分かるのではないか。要するに、結果として、契約書が読める程度は出来ても、人間はその先は読むつもりには、なかなかならないのである。
加えて、問題回避の方法に上の悩みの類いのツッコミをすることは、「契約書の読みかた」なんぞ覚えたところでひとつも身に付かない。

どうも、なんでもかんでも、「機械的」に済まそう、それで楽をしよう、との発想が、むしろ年配で社会生活も長い人にしみついてしまっている風潮があって、それが子供たちに対する我々の態度、決めごとの仕方暗い影を落としていやしまいか、と、ちょっと心配している昨今なのではある。

うまくまとまっていないが、こんなところで。

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2019年2月23日 (土)

演奏会から帰った後に

どこかの会員になって見るとか聴くとかいうのは窮屈なので、その気が起きたとき、もしくは、ご縁が出来た時に、劇なり演奏会なりに出掛けるようにしている。
で、その気が起きたのではなかったが、
「私行けなくなったから、おまえさん行く?」
と某が尋ねるので、そんなら行くか、とチケットを買い取って、木曜日にN響がやるストラヴィンスキー『春の祭典』を聴きに行った。
興奮した。
指揮のパーヴォ・ヤルヴィ氏は、最初の棒をおろさなかったように見えた。僕は何につけ迂闊なので、気づかなかったのかもしれない。そこへ、ファゴットの春霞のような音が滑りこんで来た。高いド(C)の音を長々ゆったりと伸ばすのである。おお、これがそのうち艶っぽく動き出すんだよな、と楽しみに待っていた。ところが、音はいつまでたっても動き出さない。え、なんで、と煙に巻かれるうち、いつの間にだったんだか、コルアングレだのクラリネットが、拍通りではない自由な風のように踊り始め、徐々に盛り上がって弦楽器が強奏となると、全員の反復するダウンボウが、風にあらがう灌木の森を疾駆する獣の群を、人が上空を飛ぶヘリコプターから食い入るように見つめる図を、聴衆との間に繰り広げることになった。
オーケストラの演奏自体が視覚的効果を上げるのを目にする体験は、これまでしたことがない。それですっかりやられてしまった。
ツウでいつもかよっていらっしゃるかたのご感想を後で拝読すると、冷静に聴いていれば、それなりにダメだし出来る箇所はあったらしい。しかしツウでない僕の耳は、それが分かるようには働かなかった。
ふだん演奏会に出掛けるのがあまり好きではないのは、まだ残響が残るうちに「ぶらぼぉーう」と叫んで拍手を始めるおっさんが必ずいるからなのだが(どうせなら「ぶっっらーゔぉ、っ!」と、歌舞伎の大向こうのように格好よくやってほしい)、この日のパーヴォ・ヤルヴィのタクトは沈黙までを丁寧に、その訪れが来ると、残りの音を懐にゆるゆると抱き収めるように大切に振り、フライングぶらぼーぉう族に付け入る隙を与えなかった。いや、別にそんなことを気にして沈黙の終わりまで固唾をのむ必要さえ、まったくなかった。
僕にとっては、生涯で最高のオーケストラ演奏を、目の当たりにできた。

Harusai

洋楽のクラシックは、こんな具合で時々聴きに行くのだが、能狂言は、あるきっかけで行く気が無くなってしまった。もったいないことながら、直接間接に能のお知り合いもいて下さるし、それぞれに素敵なかたので、打ち明けるかどうか、ずっと迷って来たのだけれど、二つの理由からこうなってしまった。
ひとつは、気合いをこめてご紹介下さったかたがいらして出掛けた観能で、大鼓の後見をやっていた爺さんが長い時間居眠りをしているのを目撃してしまったこと。有名な本職さんたちでなさっていた舞台なのだったが。かつ、珍しい曲でシテが長時間すわりっぱなしなのだが、最後に作り物から出るため立ち上がった時に、第一人者と尊敬されているその能役者さんが、けつまずいた。がっかりした。
もうひとつは、母も連れて出掛けたときの狂言で、母がしんみり見入っていた場面で、隣に座った既知の通おばさんが、高声で笑った。この人は別の講習会へ、能面の翳りを研究しているとかいう学者さんを連れて来るなり、その学者さんばかりを先生と喋らせ、他の受講者が何かを尋ねたそうにしている、その機会をすっかり奪ってしまったこともあった。いやになってしまった。とどめをさされた。

遠く原初をたずぬれば、芸能は祭祀であったらしい。
その祭祀は、想像するに、いま残っている、隅々まで儀礼化されたものたちとは違って、アイヌの熊祭のようにシンプルな(と言いながら申し訳ないことに熊祭を知らない)、しかしひとつひとつのセクションがひそやかな、大抵の場合は神と呼ばれることになるものごとへの、素直な・・・感謝でも希求でもなく・・・畏敬のこもったものだったのではないだろうか。根拠のない想像に過ぎないが。

いまはなんでも気軽に接することが出来るようになって、気軽な分、かえって先達はこまごまと未熟者へ講義しまくり、偽の厳粛さを後進に望み、「知っている」自分は人の知らない「勘所」で大きく頷いたり、人の気づかぬ失策に大きな舌打ちを響かせたりする。こっちがそんなに盛り上がってなくても、先達に黄色い声ではしゃがれてしまったら、あたしもはしゃがなくちゃあ、なんだか肩身が狭くなってくる。

祭祀は、いつからこうなってしまったのか。

そして最近は、自分も夢中になって「先達への道」を上りたい、と事細かに調べては誤りばかり繰り返していたことを、心底恥ずかしく思うのである。先達だなんて、そんなものにはなれない。なりたくもない。

木曜日、感激に素直にひたれた自分が、今は素朴に嬉しい。
まだ嬉しさにひたっている。

本当は、文化とは何だったのか、みたいな大風呂敷で考え始めたのだったのだけれど、まずはこれくらいにする。

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2018年12月 4日 (火)

皇帝ネロの過ち

「人を感動させたいなんて、
 それはおもしろくない発想。
 それよりも、
 自分が感動したい。
 人を感動させるという行為はない、
 ただそう思い込んでいるだけである。」

17歳で、エレキギター練習中に感電して亡くなった、山田かまちの、わりと有名な詩だ。
表現を作り上げるまでは、これでいい。表現者でも何でもない自分だが、共感する。
しかし、表現を「演じる」ときに、自分が自分に「感動した」、で、果して良いのかどうか。この詩には、四行目までと、あとのニ行に、実は根深い乖離があるように思う。

感動とは、ある意味、誰とも分ちがたいものだ。なぜなら、それはあくまで内的なものだからだ。
人を感動させるという行為はない、ただそう思い込んでいるだけだ、との、詩の後半二行は、だから、真理だと感じられる。

だとすると、ひとり、あるいは仲間うちでなく、他の不特定多数を招いて「演じる」のは何のためか、が、人に見せ・聴かせるパフォーマンスの上では、様々に問われることとなる。
「自分が感動したい」からだ、となると、そこには謎が生じるのではないだろうか?
お客をとってまで演じる時に、仮にそこに一時的な高揚から来る共感でお客が捉えられたとして、場を離れて帰路を逍遙しながら、演じ手であった者ではない、別の「自分」に気がつくお客の煩悶は、どうなるのか。いや、それは、もし共演者がいるのであれば、その共演者の「感動する自分」とは、果してなんなのだろうか?

答えの模索に直結はしないし、いま答えを求めきるつもりもないのだが、僕に思い出されるのは、古代ローマ皇帝ネロの行状である。

芸能好きだったと伝えられるネロは、17世紀と18世紀のオペラの登場人物でもある。オペラで歌手が自身に扮しているのを見たら、ネロは草葉の陰で大喜びするのだろうか。ただし、そららの中で、ネロは歌狂いとしては描かれていない。
ヘンデルのオペラ『アグリッピーナ』(1709)のタイトルは、ネロの母の名前だ。夫クラウディウスを貶めて、我が連れ子ネロを皇帝につかせるまでの陰謀話が、オペラの主眼である。
その一世紀前に書かれたモンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』も、ネロその人よりは、現皇后を陥れ、現夫を捨てて、ネロの后の地位をまんまと手に入れるに至る女性ポッペーアをめぐる、様々な人間の相克を描いたものだ。

※『ポッペーアの戴冠』については、前に綴りました。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/okiraku/2014/05/post-64d4.html

これらに素材を与えた古代の著作、タキトゥスの『年代記』を読むと、ようやく歌狂いのネロに巡り会える。

「ネロは日に日に強く、公の舞台に立ちたいという欲望にかりたてられていた。このころまで、青年祭のときに、自分の館や庭園内で、歌をうたっていたにすぎない。『そんな場所は、たくさんの聴衆を収めきれないし、第一、自分ほどの大きな声量には狭すぎる』とぼやき、いつも軽蔑していた。さりとてローマで初舞台を踏む勇気はなく、『ナポリはギリシアの町だ』と言いわけして、この町を選んだのである。『あそこできっかけを作ろう。次にギリシアに渡る。そして由緒ある神聖な月桂冠を獲得し、偉大な名声を樹立して、ローマ市民を刺激し熱狂させてやろう。』」(國原吉之助訳『年代記(下)」岩波文庫 p.261-262)
このときは、前評判や追従から、劇場は幸いにも満員御礼となった。
民衆は最初、まだネロに好感を持っていた。

しかし、ネロの意向に反する者たちは、ネロがローマ市民を熱狂させようという野心を抱いた頃から、立て続けに処刑の手にかかり始める。
折柄ローマは大火にみまわれた。市域の大半が焼き尽くされた。
この大火の時に、歌狂いのネロに、よからぬ噂が立った。
「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の私舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていた。」(訳書p.206-207)。
宮廷内で悪政が兆していたこともあっただろうが、悪い噂はじわりじわりと、大火よりも消しがたく延焼していった。
「ネロは新しく都を建てなおし、それに自分の名前をつけようという野心を、日頃から抱いていた。」(p.266)
悪評が広がっていくにも関わらず、ネロは血なまぐさい処刑の手を緩めない。
残っているタキトゥスの『年代記』は、ネロが重ねた多くの処刑の記載までを分厚く記し、そこまでで散逸してしまっている。

それでも、ネロの末路は、他の史料から分かっている。
ネロに愛想をつかして、次々と蜂起する反乱者たちから、彼はついに遁れ得なかった。
最後は数少ない供と逃走した果てに、騎兵に追いつかれ、惨めな逡巡のあと、ようやく自決する。遺骸はもの凄い目つきをしていたそうである。
周囲に覚悟を決めるよう勧められてなお、ネロは泣いてこう繰り返したそうだ。
「ああ、世間はなんと惜しい芸術家を失うことか」(p.345)

ネロは、実際、音楽家としては一流だったようだ。
劇場で自作の詩を朗唱したネロに向かって、聴衆は「あなたの芸をみんなに披露して下さい」と懇願した、と、タキトゥスは書いている(p.304-305)。
「そこでネロは今度は芸人として劇場に入る。彼は専門の竪琴弾きの作法を完璧に守る。疲れてもすわらない。汗が出ても、身にまとった衣装以外では拭こうともしない。唾やくしゃみはいっさい観客に見せない。終わると彼は、あの俗衆に膝を折り曲げ、身振りで敬意を表する。」
処刑者であった彼と、音楽家であった彼のこの俗衆に媚びる姿には、なんと大きな乖離があることか。

自らの歌に酔い、竪琴に酔い、熱狂してくれる俗衆に酔い、ネロは何かを見失っていた。自らに酔いしれる自らの行為こそが「人を感動させる」と、まさに「ただそう思い込んで」いただけだった。

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2018年10月21日 (日)

お金の話のようでお金の話ではないかも知れない

ハロウィン宝くじのCMで、侍、役所広司さんが
「当たれば五億」
というのをやっている。侍が娘と問答して、
侍「年に一千万使っても」
娘「五十年」
侍「二千万使っても」
娘「二十五年」
侍「よーし、(と、売り場に行って)・・・頼もう!」
となる。

そんな金額に比べたら雀の涙だが、サラリーマンは、定年が近づくと、六十五歳までは退職金をなるべくちんまり使って年金支給までの場を繋ぐしかない、どうしようか、と、考え込んでしまう。
「年に一千万使ったら」
「・・・そのはるか前に破産」
である。
六十歳で支給になっていた親世代までを恨めしく思ったりもする。

日本人は、いつから余生を金で測るしかなくなったのか。

いや、余生でなくても金で測るには違いないが、持ち金そのものだけでは測れないことも、あるらしい。
ある住宅メーカーの営業さんが若かりしころ、ご自分で商売をやっている人に家を建て替えてもらうよう売り込んだそうな。商売人さんは何でだか営業さんをいたく気に入って、即契約してくれることになった。が、ローンを組まないと資金が足りない。足りない分を借り入れられるだけの充分な年収があるはずだった。
ところが、すぐに連絡が来て、
「それがさ、ローン借りられねぇんだってさ」
「あれまあ、どうしてですか」
「任意団体に申告頼んでたんだけど、それで申告してた所得が小さすぎなんだとよ」
過少申告というやつではなかった由。
なんでまた、こういうことになったんだろう。
ともあれ、商売人さんは
「オレはあそこにだまされた」
と言い、営業さんは以後その任意団体名を聞くと暗い気分になるのだそうだ。

戦争じゃない世の中でも、お金をめぐる気遣いは絶えない。
戦争の頃の話だと、社会がどうだった、とかいうカタいものではないけれど、太宰治に『貨幣』という小説がある。百円札が自分から喋る趣向のつくりになっている。お金がどうの、と頭がぐるぐるし出したとき、そんなのがあったな、と思い出して、青空文庫で読んでみた(*1)。

七七八五一と番号を振られた百円紙幣が、自分の来歴から話し始めて、最初に若い大工の手に渡ってから、その奥さんの質草と引き換えに質屋に渡り、質屋で顕微鏡と引き換えに医学生が所持主となり、医学生が向かった瀬戸内の旅館で帳場の引出しに入れられ、そこからさらに転々とするうち時代も変わり、お札ながらに人情の暗い機微も知り尽くし、そのうち戦争になり・・・みたいに物語る。
おしまいのほうで、そのとき所持主だった軍人が泥酔して助けられながら空襲の中を逃げる時、それを助けた女の人、「人間の職業の中で、最も下等な商売をしているといわれているこの蒼黒く痩せこけた」婦人、
「私の暗い一生涯において一ばん尊く輝かしく見え」
たような、そんな酌婦の抱えた赤ちゃんの肌着の下に押し込まれて
「こんないいところはほかにないわ。あたしたちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この赤ちゃんの背中をあたため、ふとらせてあげたいわ」
と、百円札は言うのである。

この小説の中に二百円札が出て来て、そういえば二千円札ってどうなったのかな、いや、それよりも、二百円札ってのを見たことがないな、と、にわかに興味が湧いて、ふらっと、日本銀行別館の貨幣博物館に出掛けた。

行って目撃してみれば、お札は何円札でもお札である。
特別なことは、何もない。

そういえば最近、お金の話で面白かったのは、古代ローマの貨幣のことだった。
『貨幣が語るローマ帝国史』(*2)という本が中公新書で出ていたので、貨幣が歴史を喋ったりするのか、どんなふうに喋るんだろう、と、野次馬根性で読んでみていたのだった。こちらはお札ではなくて、コインが喋るのである。
この本で分かるのは、古代ローマのコインは、その誕生期から老衰期に至るまで、人の名前や、その造幣者の目論みの図像を、表裏に描いたものだったことである。その名前や人の役割、図像の変遷をたどることで、たしかに古代ローマのモラル観と政治史を鮮やかに知ることが出来るのだから、驚きだ。太宰の小説の紙幣のようにセリフを与えられるのではなくても、コインそのものが自発的に喋るのだ。
コインのお喋りは、確かに大変興味深かったのだけれど、それとは別に目が引かれたのは、古代ローマのコインが正しい円形になっていないことだった。形が歪んでいるだけでなく、輪郭線っぽい線から、コインのふちがはみ出している。
おや、と思って、古代中国のほうのコインの図像を当たってみると、こちらは古代からずっと、正しい円形になっている。
なんでこんな違いが起こっているのか、が知りたくもなっていた。
こちらを、貨幣博物館で探してみた。

目で見てしまえば話は簡単、中国のコインは・・・そしてその技術を引き継いで作られた東アジア各国や日本のコインも・・・、溶かした銅を型に流し込んで作られた。銅がかたまると、ふちは綺麗にやすりをかけられた。だから、きちんとまん丸い。
ローマのほうは、金属を叩いて作ったコインなのだった。
だから、横から見たら、中国や東洋のコインは平べったくて、ローマのコインはふっくりしていた。
量感は、普通は写真ではやっぱり分からないもんなのだなあ、と思った。

ちなみに前漢時代の中国にも、金餅という、黄金を叩いたコインがあった。訓読みすると「かねもち」である。
中国ではさらに、布や帛(絹)も、けっこう後の時代まで、貨幣の役割を担っていたそうな。(*3)
日本は奈良時代にこそコインを鋳造して流通させる努力もしたが、すぐに使われなくなって、鎌倉時代前後からは中国のコイン(銭)を輸入したものを使っていた。日本がまともに銭を鋳造するようになるのは、江戸時代になってからのようだ。
銭が使われていない時期の日本ではどうしていたのか、が分かる有名な例は、今昔物語にもある「わらしべ長者」の話だろう。
今昔物語だと第十六巻の「長谷にまゐりし男、観音の助けによりて富を得たること 第二十八」だから、本朝仏法部で、観音様の霊験譚である。
天涯孤独のすっからかん男が、観音様にさずかったわらしべにアブを縛り付けて持っていたら、それを面白がった身分の高い女性にミカン三個と取り替えられ、それがまた喉の乾いた男に布三段と取り替えられ、その布三段がさらに瀕死の馬と取り替えられ、瀕死の馬が元気に息を吹き返したおかげで、それを売って、布が欲しかったところを田んぼとコメで示談され、それを人に任せて耕作するうちに、いつのまにか富裕になっていた、という、皆様ご存知的なお話だ。
この話の中で、布が貨幣として使われている様子がうかがえる。

ああ、布が貨幣になったのか。

ぼろになって、古着にも出せない布地なら、いま、うちに山ほどあるんだがな。
布が貨幣として使えるんだったら、我が老後も、どんだけラクになるんだろう。

観音様、うちもなんとか恵んで下さい。

*1:https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/276_45435.html
*2:比佐 篤『貨幣が語るローマ帝国史』 中公新書2508 2018年9月
*3:柿沼陽平『中国古代の貨幣』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー395 2015年 〜手軽に経済史として読める、良い本だと思います。

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2018年9月30日 (日)

文字と語り

子供のころ読んだ、古代文字を紹介する本に、
「マヤ文字は暦しか解読できていない」
と書かれていた気がする。正しい記憶かどうか分からない。
それから半世紀、今ではマヤ文字も、かなり解読されてしまったとのことだ。ネットを探しても説明が数例出てくる(*1)。それで誰でもマヤ文字の仕組みを知る事が出来る。たかだか半世紀で、すごい時代になったものだ。
マヤ文字の、中でも暦について説明してくれるサイト(*2)の冒頭に、
「マヤ人は時の記録に没頭したといわれるように,碑文には必ずといっていいほど日付の表記がある。」
と述べられている。マヤ文明関係の本は残念ながら読んでいないので、実例に接してはいないのだけれど、暦だの法律だの、人々に同質に知られなければならないことは、とりわけ紙が普及していない世界では、石にでも文字で彫って碑文にしておくのが、周知のためにいちばん良い方法だっただろう。

場所は変わってメソポタミアでは、ハンムラビ王の法典というのが、石に彫られてバビロンの都のどこかに建っていた。その石は20世紀の初めにフランスから調査に行った人たちが掘り当てたので、いまルーブル美術館にある。

さらに近所の中東の地中海沿岸域では、日本で『旧約聖書』と呼んでいる書物をユダヤの人たちがまとめた。最初の五つの総称は「モーセ五書」だが、また「律法」とも呼ばれている。大事な法律や道徳律が、どうしてそれが定められたかの由来話と共に、びっしり詰め込まれているからだ。
その中の「出エジプト記」(講談社版聖書の呼び名では「脱出の書」)によれば、俘囚同然になっていたユダヤ人をエジプトから連れ出したモーセが、シナイ山に登って神と語り合い、神自ら法を記した二枚の石板を授かった(「出エジプト記」31章18節、32章15節)。山を下って民々の背徳を目の当たりにしたモーセは、授かった石板を怒りに燃えて投げつけて割ってしまう。そのありさまは、チャールストン・ヘストン扮するモーセの姿で古典的映画「十戒」になっているので、見た人が多いだろう。
神はモーセにあらためて石板を作らせて、あらためてイスラエルの法をそこに記し与えた(同34章)。作りなおされた石板は「契約の箱」に納められて、中東の古代ユダヤ人の国で大切にされ続けていたのだけれど、国が衰えていく過程で、いつのまにか行方が分からなくなってしまった。「契約の箱」については、映画「インディ・ジョーンズ 失われたアーク」で、再発見したドイツ兵たちが悪用しようとしてこの箱を開け、そこから飛び出した精霊たちの凄まじい力がドイツ兵たちを殲滅してしまう、身の毛もよだつシーンが描かれていた。「契約の箱」は、このあとまたどこか分からない場所に密かに隠されてしまったことになっている。

神が十戒を石板に記した・・・とは、やはり彫られたのだろうが・・・その文字がどんな文字かは、こんなわけで知り得ない。いちばん可能性が高いのは、楔形文字かと思う。なにせ、楔形文字は、メソポタミアを中心とした西アジア域で、多様な言葉を記すのに使われた、古代の国際文字なのである。しかも、古代ペルシアではアルファベットのように使われたり、アッシリア帝国では仮名のような音節文字として使われたり、と、言語によって読みかたもいろいろなのだそうだ。こんな文字がよくも解読できたものだ。言語学者さんって、やっぱりとんでもないと思う。

十戒は神自ら記したとされているが、そうでなくても、楔形文字を書くことの出来た人たちは多分、社会的地位が低くなかった。石ではなく焼いた粘土板に記されて発見されている「シュメール王名表」には、最後に書き手の名前が記されているのだそうだ(*3)。これは重い扱われかただったはずだ。
同じころエジプトで象形文字ヒエログリフを書いていたのも、書記の専門職さんたちで、やはり富裕層だった。
楔形文字もヒエログリフも相当に複雑な文字だし、記す内容はほとんど公的で権威的・・・暦や王名表や法律・・・だし、書き手の身分が高いのも当然だったのだろう。
しかし、専門家でなければ書けない文字の難しさは、書かれることの柔軟さを妨げたのでもあったかと思う。柔らかな物語や思想が書き記された例は、まったくないわけではないが、稀といえば稀な印象を受ける。(漢字文化は例外に属する珍しいものだと思うけれど、いまは、そっちには立ち入らないし、別に見ていくべきことでもあると考えている。)

地中海をまたにかけたフェニキア人が、いつのころか、書くのが難しくない文字を編み出した。それがこんにちのローマ字、各国のアルファベットにつながった。書き易さの恩恵に最初にあずかったのは、アルファベットを自分たち向けにアレンジした、古代ギリシアの人々だった。
おそらくもともと、古代ギリシア人は、書くよりも覚えることを、様々な伝承のうえで重視していた。ホメーロスの叙事詩も、暗唱されることで伝承されたと信じられている。かつ、小都市国家が当然のように屏立していながら、『イーリアス』に描かれるように複数の小都市国家で連合して戦争に当たることも少なくなかっただろう背景から想像するに、民々を治める法律が大々的に制定される必要はなかったかも知れない。古代ギリシアの暦は都市国家ごとに違っていたのも分かっている。違う法・違う暦を互いに読み替えあいながら連合軍を組んだりしているのだから、一律にしたものを誰かが書くなんて余計なお世話だったろうし、書かれていても読むのが相当に面倒になったことだろう。
「オレんち今日は8月15日だから」
「あ、うちは9月24日だよ」
「あれまあ、違うねえ」
「いや、十五夜だからおんなじよ」
「そうか、おまえんとこの9月24日がおれんとこの8月15日ってわけね」
「それ、書いとこうか」
「行軍中だからそんなヒマねえだろ」
「お月さん見りゃ分かるんだから、ま、いいか」
みたいなノリだったのかどうか。

そのかわり、バラバラな都市国家の緩い集合体だった古代ギリシアは、ペルシアの大軍を一丸となって撃退したりして盛期を迎えると、旧態然としていたメソポタミアやエジプトの大帝国には無かった、自由な思考の百花繚乱の場となった。
古代ギリシア人の自由さが産み出したものたちは、寿命も長い。
中心地はアテーナイ(アテネ)で、悲劇も喜劇も豊富にコンクールが行われた。生き残りのひとつ『オイディプス王』なんか、いまだに現代演劇仕立てで舞台に懸けられる。
法廷には検事も弁護士もいなかったから、極端に言えば、法律もへったくれも無い。告訴したほうも訴えられたほうも自力で相手を貶め、自分を弁護する。自己弁護の高尚な例は『ソクラテスの弁明』で、後に弟子プラトンの手で、たぶん結晶化されている美しさで記された。この『弁明』も、なんと日本語訳が、いま読めるだけでも四、五種類はある。関西弁で訳されたものまである。
この『弁明』の中でソクラテスがわざわざ自分を不利にするようなことを喋っているのとは違って、普通は当然、法廷では被告は自分に有利になるように喋ったはずだ。そんな有利な喋りの方法を教える職業が、ソフィストというかたちで成立する。このソフィストとなった人たちは、ほとんどがアテーナイではなくて、周辺のどこか別の都市国家の出身だったらしい。

ソフィストのうちで、小アジアのエライア(現トルコの、ボスポラス海峡の南の、いまのマルマラ海に面したあたり)で生まれたアルキダマスという人が、『書かれた言論を書く人々について、あるいは、ソフィストについて』(Peri tōn tūs graphontōn ē Peri tōn sophistōn)というものを書き残していて、こんなことを言っている(*4)。

「善く美しいことはすべて稀で難しく、苦労をつうじて生じる慣わしであるが、粗末で劣ったものは、容易に所持することができる。そうして、私たちには、書くことは語ることよりも手に入れやすく、それ(書くこと)の所持も、より小さな価値しかないと考えるのは、ありそうなこと(エイコトース)である。」(「ソフィストについて」[2](5)、納富信留訳)

なんだよアルキダマスさん、これ書いたもんじゃん、という文句には、彼はいちおうあとから
「私が書くことを用いるのは(略)少しの労力を払えば彼ら(書くことに自信がある人たち)の言論を覆い隠したり破壊することが出来るのだ、と演示するためである」(同[9](30))と言い訳している。
語るほうが、書くより価値が高い、と、この期に及んで言い張っているわけだ。
それでも、古代ギリシア盛期のアテーナイでは、アルキダマスのような価値観は、わりと普通だったらしい。相手とその場その場で臨機応変に受け答え出来ることこそ語りの本領であって、書くことに縛られるのは二の次だ、というわけだ。弟子プラトンによってソフィスト連中とは一線を画すとされたソクラテスも、自身は書いたものを一切残さなかった。

これらは言論なのだから、暦や法律とは違うけれど、いずれにしても、古代ギリシア人はメソポタミアの人たちや古代エジプトの人たちのようには、書くことに高い価値を感じていなかった。『「ソフィスト」とは誰か?』という本のアルキダマスを詳述する箇所で、著者の納富さんは、このあたりの事情を、こんなふうに紹介している。
「(古代ギリシアでは)書く営みは、つねに従属的な意義しか持たず、おもに奴隷や下僕の仕事とされた。・・・ギリシア人が発明した二四文字のアルファベットによる全ギリシア語の音声表記は、文明の進歩において画期的であった。読み書きの習得がきわめて容易で、専門技術を必要としないため、民主政下で多くの人々がその能力をもって政治に参加できたからである。他方で、習得の容易さは、社会における『文字』の権威をあまり高めなかった。人前で語る『言論』が基本であるその文化において、『文字』はあまり便利でない不完全な写し、つまり、本来の言葉である『語り言葉』の影に過ぎないという見方が生じた。」(*4納富著 p.321)

いいかげん長ったらしくなったから、あとは端折る。
日本ならカナ、朝鮮ならハングル、と、書くのを容易にする試みは西洋に限らずなされた。エジプトも結局ヒエログリフを崩し字にしてヒエラティックというものにし、さらにはデモティックなる、さらさら書ける字を産み出した。
文字を書くことが容易になって、それがひろがったおかげで、みんな古代ギリシア人と似たように自由に言葉を駆使するようになった。
果ては、この半世紀くらいで、自分以外の誰かに書くことを委ねなくても、また手書きの仕方を知らずとも、キーボードからパソコンに打ち込むことで「書ける」時代になった。
すると、言葉は口から発するでもなく、自分自身の手から、指先から、ますますどんどん溢れ出ることも可能になった。
溢れ出た自分を、そのままインターネットで他の人に伝達でき、手段によっては不特定の相手からさえ、「はんたいのさんせいなのだ」が素早く返ってくるまでになった。
(「外で語ることが面倒くさい」人には、録音と言う技術だけでなく、「声を文字に置き換える」仕組みもずいぶん強化されているが、いまは文字のほうだけに注目している。)

言葉と文字の関係が手軽になり、「語る」と「書く」の壁も取り払われつつある。
こうなると、世間に溢れる「書き」言葉には、
「これは誰でも共用するものだ」
というものと
「知っている人が知ってればいい・感じる人が感じればいい」
というものが、簡単に一緒くたになる。
世間の尊敬を一身に集める誰かが書いたものにこそ権威がある、みたいな古代的な価値観は、すっかり覆った。

思考が容易に同一化し、価値が安易に等質化しだした、とでも、まとまるだろうか。

そうか、僕らは安易さの上にいるのか、これってなんだか危ういな、と思わないでもない。が、本当に危ういのかどうか、は、あっさり確言すべきではないだろう。
とりあえずは、ここまでの流れを把握したことで良しとして、思考の同一化とか価値の等質化みたいなことについては、さらに何かの材料を通じて野次馬してみたい。

なので、いまここでは、結論じみたことは言わないでおくことにする。

*1:たとえば
http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_namerica_16.html

*2:http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_6.html

*3:http://mikeo410.minim.ne.jp/cms/~otherdocumentsdigestcuneiform3

*4:納富信留『ソフィスト」とは誰か?』ちくま学芸文庫 原著は2006年に人文書院刊

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2018年9月24日 (月)

こよみのこと

金曜日の朝、通勤路を歩いていて、やらなければならない仕事を思い出すのに、
「今日は平成30年9月21日」
と日付を思い浮かべて、はて、
「西暦では2018年9月21日だけど・・・イスラム暦だったらちがうよねえ」
なんて脇道に、頭が逸れ出した。
余計なことを思い始めたものだ。思ったところで、自分は和暦と西暦以外に、暦のことは何も知らない。
ただ
「暦は万国共通でも、万人にも公平じゃないんだろうな」
みたいに、ふと思っただけだった。
(ほんとうは、9月21日よりもっと前に思ったのだけど。)

もともと、西暦の元になったのは、はるか昔のローマでユリウス・カエサルという、たぶんものすごく頭の良かった、地位も権力も金もあったおっさんが、ソーシゲネースという天文学者さんの「そーしなせー」と言うことを素直に聴いて、
「カレンダーが狂ってて季節が大ズレなので、一気に帳尻合わせるぞ!」
と、どかっと世間に実施させた太陽暦なんだ、とは、聞いたことがある。
カエサルがその導入を決めた年は、そのせいで一年が445日もあったのだとか(*1)。しかしそもそも、カレンダーがなんで大きく狂ったのかと言えば、政治家が暦の調整を荷なっていた古代ローマで、調整役に選ばれたカエサルさんが、調整役に選ばれた年から二十年近くも、ローマから離れたガリア地方で戦争に明け暮れ、その後も政争に明け暮れたからではあったのだけれど。そしてこの暦を施行してすぐに暗殺されてしまって、いちおう死ぬ前に
「閏年は四年に一回ね」
と言っておいたのに、みんなが誤解して、閏年は「三年に一回」としちゃったせいで、また暦が狂い出したのだそうだ。それで三十七年後に、後継者となったオクタウィアヌスさん(古代ローマの初代皇帝になった人)が
「だからさー、閏年は四年に一回なんだってば!」
と調整しなおしたのだとか(*2)。

でも、いまの西暦は、古代ローマの、カエサルがこの太陽暦を執行させた年からカウントしているものではない。キリスト教の修道士エクシギウスさんが、「イエス・キリストが生まれた年を暦の起点にすれば、みんなに便利になるから」と、イエスの生まれた年がいつかを割り出して、キリスト生誕の年を紀元1年にしようと言ったんだそうな(日常生活用のカレンダーに紀元0年はない)。しかし計算が違っているのが分かって、イエス・キリストは紀元前4年、つまり、生まれたとわれた年の四年前に生まれた、という、やこしいことになっている(*1)。
西暦をめぐっては、いろいろ面倒な話がたくさんあるのだけれど、基本はこんなところでいいのかな。
とにかく、もともと西暦というのは、日数の数えかたについては古代ローマの、年数の数えかたについては、キリスト教徒さんたちの暦なんである。

これがイスラム(ムスリム)さんになると、別にイスラームならではの年の数えかたがある。これは、教えを導いた預言者ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナへ旅立った日から年月を数え始めている。暦の基本も太陰太陽暦である。なので、年も日付も、西暦とはズレている。イスラム教に馴染んでいない僕らには、今日はイスラム暦の何年何月何日か、は、思い浮かべられない。さらにまた、お国の違いなどで混み入った事情もあるのだとかないんだとか。

そしてまたインドに行けば、こちらもいろいろ違うのだそうだ。民族も宗教も多種多様なので、いまでも地方ごとで暦が異なるらしい。これはもう想像がつかない。

古代ギリシアなんかも、ポリス(都市)ごとに暦が違ったんだそうで、ギリシアのひとつの出来事を調べるのでも、学者さんは大変だ。

他にも暦は多種多様だそうなのだが、ちょっと考えればそれは当たり前な気もするし、でもやっぱり理不尽な気もする。

今日という日が明ければ・・・地球の自転で各地の「明ける」に時間差のあることは、無視する・・・、今日という日は、みんなに公平に廻ってくるのではないのか。国や都市や、その国なり都市が受け入れている文化や習慣で、「今日」がいつであるかが違っているのは、人が意思を通じ合わせる時に、とても具合が悪いのではないか。
なんでもない金曜の朝に、こんな大げさなことを、なんで考えてしまったのか。

いやしかし、考え直すと、「公平」というものへの見方が間違っている、と、思わないでもない。

年の数えかた、これを紀元というのだそうだが、紀元はもとをただせば、ある人々が、ある記念となる出来事を基準に、長い年数を数えることとした方法だ。
それが、キリスト教徒さんにはキリストの生まれた年だったり、イスラムさんにはマホメットが大事な引っ越しを決断し実行した年だったり、さらに多種多様な暦を使っているヒンドゥの人たちや、遡って古代ギリシアの人たちには、身内にとって分かりやすい記念イベントだったのが、各地各時代で暦がバラバラな原因だというに過ぎない。どれかがどれかより重い、というものではない。
で、記念イベントの重さが暦の実用性のうえでは意味をなさない、と明白になるのは、それぞれのイベントに特段の重さを見出すことのない国や地域が、特定の紀元を導入するときだ。
日本が実務のために採用している紀元は、ほぼ西暦紀元一本だと言っていいが、日本という国や、その大多数の人は、キリストの生誕にも古代ローマの暦改訂にも、何のこだわりもない。ただ西暦が外交や商取引先で期日を知るのに、いちばん普及している西暦が便利だから、導入しているにすぎない。

国際的に便利だから、世界のこよみは、みんながいちばん知っている西暦で統一すればいい、というのは、しかし、公平の真逆だろう。
公平とは均一のことではない。
あちらこちらの地域が、長い時間をかけて重ねて社会を築いて来た中で、
「私たちにはこれが大切なのだ」
と域内で共有して来たことには、
「実用上は無意味だ」
で片付けてはならない、各々大切にされるべき重さがあるはずだ。
暦もまた然りで、特定の決まり事が「便利だから」というだけで、なんの合意もなく押し付けられたら、押し付けられるほうは不愉快だろう。

古代中国の強大な影響力から文化作りの影響を受けた東アジアや東南アジアには、元号というものがあった。今は日本にしか残っていないけれど、たくさんの国で定められ、使われていた。詳しいことは知らないが、各国、古代中国の王朝様の臣下になります、と頭を下げて、古代中国と同じ元号を使わせてもらうのが建前だったようだ。
ところが、博物館に昔のアジアの、中国の王朝ではない、忘れられた国々の展示があるとき、展示品の製作年代の元号表記に付けられている解説を読むと、
「この元号はこの国独自のものだった」
と書いてあることがとても多くて、びっくりさせられる。
細々したことまでは覚えられない。覚えるには複雑すぎる。
元号は長期的な紀元ではなくて、皇帝さんが変わったり、縁起をかつぐようなエポックがあるたびに、ころころと変わって、単に覚えるのが難しいというだけでなく、実務的にも暦の連続性を損ねる。
連続性が損なわれれば、たとえば初始なる元号が過去にあったとして、
「あれ? 初始1年って、今から何年前だっけ?」
ということが簡単に分からなくなり、
「初始って何年まであるんだっけ?」
ということもまた、簡単に分からなくなる。
実はこの初始という元号、実際に中国の前漢王朝で最後に採用されたもの(西暦だと紀元8年)で、調べると、その期間は11月から12月までの、たった2ヶ月弱だった、と出てくる。
中国の元号の一覧表を眺めると、さすがに2ヶ月は極端だが、それでもみんな大なり小なりこんなものだったと分かる。
かつ、元号だと、これから先の年を考える時に、その時が来たらもうありえないかもしれない「初始10年」なるものを想定して考えなければならない。そんなことを考えた人が当時いたのかどうか分からないが、初始10年にあたるのは、中国の元号で言うと、天鳳4年となる。その前にまた別の元号があった(*3)。こんな変化は、初始1年には、だれも想像できなかったのは間違いない。
こんなに不便な仕組みが、しかしなんで他の国でも用いられ、しかも本家本元の中国とはまったく違った元号を作ってしまうようなかたちで実行され続けたのか。
想像するに、大国中国の文化を取り入れることで
「おいらたちだって文化的なんだぞ」
とアピールすると同時に、中国とは違うものにすることで
「おいらたち、だけど自分らなりの文化を持ってるんだぜ」
と主張するものだったのだろう。
暦での年の数えかたは、そんなアイデンティティを目立たせるうえで、格好の手段だったのだろう。みんなどうやら、声の大きい国と同じに揃えてしまうことを良しとはしなかったのだ。他と違うからお互い分かりにくくなる、だなんて、知ったことではなかったのだ。

こんな具合に暦の多様性は紀元や元号の違いによってもたらされるものであって、各々のアイデンティティには各々の重さがあるのだけれど、もしその多様性を吸収する手段があって、こちらの今日の呼び方があちらの今日の呼び方ではどうなるのか、を簡単に知ることが出来るのなら、多様だから今日というもの公平な訪れを損ねる、みたいなものではない。
少なくとも、西暦の今日をイスラム暦ではどう呼ぶか、は、現在はネットで調べられる(*4)。便利になったものだ。

日本はまた、とくに明治以降は元号と西暦をいつも簡単に換算できる用意がされていて、この国で実務上汎用になって来ている西暦と、慣習上なんとなく日本らしさが出る和暦とが併用されることに、特段の困難を覚えてこなかった。
ところが、今回は元号が来年には明らかに変わるのに、どう変わるかを前もって決めることも知ることも出来ないために、とくに商取引や事務の要請から、この先は西暦で、と、利便性を優先することが、ほぼなしくずしに本決定になったように見える。

それでも、唯一元号が残っている日本には、元号を決めるための法律もあり、このご時世だからこのまま西暦一本で、ということは、法改正がない限りは起こらない。
歴史好きとしては、法の仕組みがどうだとか、アイデンティティがどうだとか、そんなことをグタグタ言うまでもなく、東洋や日本の史書に次々現われる元号には、それなりに愛着がある。いまの日本の元号にも、これから決まるだろう年号にも、やっぱり愛を感じる。
反面、元号は非連続で未来の確定年を予想できないし、過去を数えにくくするのも上に見たとおりだから、実務上の不便さがあることには、やっぱりそうだよなあ、と頷けてしまう。だからといって、明治政府が導入したことのあった神武紀元がまた復活してもいい、とは、こちらはまったく思わない。紀元としては面白かったかも知れないが、歴史が示す結果を見ると、あまりに特定の政治色を帯びる使い方をされすぎてしまった。

もういちど過去の話に戻ると、有名なところでは、フランス革命のとき、キリスト教臭をシャットアウトした革命暦が国民に強制された。この暦では、日曜が休みではなかった(たとえばいまの日本の営業職が日曜休みではないのとは意味合いが違うので、混同しないでちょうだいね)。日曜に休んだ公務員はクビになった。それでも、革命暦は人々が日曜日に教会に行く習慣を変えることは出来なかった。
ソヴィエト連邦は、成立したばかりの頃、一週間を五日間にして、どの曜日に誰が休むのか、休みも交代交代にしようとしたのだそうだ。休みを分散して生産性を損ねないように、との、この試みも、しかし人々の不満で失敗し、スターリンの時代に水泡に帰した(*1)。

日本の暦のあり方については、自分のような歴史好き素人としては、イソップ物語のコウモリの立場でいたいところだ。
しかし、単に決めごとの強制では、革命時のフランスや、今は亡きソヴィエトのように、暦のあり方は変えられない、とだけは信じている。
フランスやソヴィエトでは、元の木阿弥になってめでたしめでたし、ではあったのだけれど、みんなは強制されて初めて不満たらたらで、木阿弥さんの到来までは、ぜったいに精神的な不便やムダをを蒙ったはずなのである。急な事情でもない限り、不便やムダは避けるに越したことはないのだけれど、二例ともまあ、急だったのだから仕方ない。

暦は個人で決めてどうにかなるものではないので、どうにかするときには、社会での議論になるしかない。
そういうとき、世の中には「これが決まりだから」と、かたくなになる人が必ずいるものだ。そうは言ってもダメじゃん、と、そっちにかたくなになる人も、やっぱり必ずいるだろう。
でも、来年には元号が変わる、みたいな面白い局面が訪れる時は、右や左のかたくなさんも、日和見でいいやさんも、みんなもういちど、まず頭の中を振り返って、相手さんのお話もよく聞いて、自分で考え、他の人と考え、お互いが「よりよいもの」を産み出す絶好のチャンスではないのだろうか。
ただしチャンスとは言っても、ガチガチに決めるのがいいのかなあ、という気がしないでもない。日本の場合は、急な話というわけでもないのだし。今回結論が出なくたって、なんの支障もないのだし。

とにかくまずはなんでも本来、ひとりひとり、自分で考えることが大切だ。
そして出来ることなら、違う考え同士で考えをぶつけ合わせたらいい。
そのときには、でも、お互いの違いを柔らかに受け止められる、心のクッションも、とても大切なのだ、と思う。

などとずらずらならべて、どう締めていいか分からなくなって、おいらってどこまで行ってもヤワなんだよなあ。ヤワ、って、死語ですか?

*1:中山恒夫『古典ラテン語文典』Ⅳ.暦(p.407~p.410)
*2:L.H.Strevens『暦と時間の歴史』(正宗聡訳 丸善出版 サイエンスパレット009 p.46)
*3:ウィキベディア記事 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)#%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3
*4:たとえば https://keisan.casio.jp/exec/system/1328756351

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2018年9月11日 (火)

ことばのこと

外国語を身につけるのが苦手なくせに、ことばへの興味だけは尽きたことがない。
ことばへ、というよりは、それを書きとめる文字の種類の豊富さ、漢字でもひらがなでもカタカナでもない文字が、読める人には読めてしまう不思議さに魅かれたほうが、先だった。
フランスの人シャンポリオンが古代エジプトの象形文字を解読した話を知ったのは、小学生の時だ。それで興奮がさめなくなって、図書館の本を借りまくっては、それに載っている象形文字・・・エジプトのものには限らない、マヤのもあったし、今は名前を忘れてしまったようなものもあった・・・をノートに書き写した頃もあった。でも、文法など何一つ知らなかったから、文字たちがいったいなにを語っているのか、理解することなく終わってしまった。
しかしまた、いろんな文字で書かれたいろんなことばが、これまた文字の種類以上にたくさんあるらしいことにも、圧倒されていた。中東の古代の楔形文字というやつは、みんな同じように見えるのに、ひとつではない、いろんな人たちが話していた、いろんな時代のことばを粘土に綴っているのだ、と本で読んだ時には、子供心に「ああ、こりゃもうだめだ!」と思った。たくさんのことばなんか、覚えきれるものだろうか。

いったい、ことばは、なんでこんなにたくさんの種類に分かれているのだろう。

旧約聖書の有名な話は、こうだ。

「すべての地は、同じことばと同じ言語を用いていた(「ことば」と「言語」に分けてある理由は、知らない)。(中略)『さあ、われわれの町と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って消え去ることのないように、われわれのための名をあげよう。』(中略)『それなら、われわれは下って、彼らのことばを乱してやろう。彼らが互いに相手のことばを理解できなくなるように。』主はそこからすべての地に人を散らされたので、彼らは町づくりをとりやめた。そのためにこの町はバベルと名づけられた。主がそこで、全地のことばを乱し、そこから人を全地に散らされたからである。」(『創世記』第11章1-9 昭和59年の講談社版による)

ここの文言に関わらず、ことばと言語は同じものとしても、とりあえず、いいことにしておく。

言語学の入門書を覗くと、言語はそもそも大元になるひとつのものがあったのか、あちこちで偶然にばらばらに生まれたのか、分からないのだそうである。そもそもこんなことは考えても考えてもデタラメばっかりになるので、言語学の学会は1866年には言語の起源みたいなことを採り上げた論文の発表をさせないようになった、とも書いてあった気がする。それでも一生懸命研究する人たちがいて、今では、おそらくは、ひとつだけが大元になったということはなかったのではないか、と考えるほうが、正しそうなのらしい。だとしたら、人間のことばをバラバラにしたのは、別に神様ではなかったことになる。

『比較言語学入門』(高津春繁)という、言語オンチの僕にはとてつもなく難しいのだが、とてもいい本がある。原印欧語なるものを適切に想像するには、印欧語族の様々なことばの文法を、どのように比較していったらいいのか、を述べているもので、日本語で書かれた最近の言語学入門の本でも、まだ参考文献に必ず上げているくらいの名著らしい。ラテン語と、できれば古代ギリシア語とサンスクリットの初等文法くらいを予備知識で持っていないと、難しさがグンと増す。なので、本当は僕などはお手上げだ。
それでも、難しい行間の中に、言語に無知な僕にでも、「なるほど、そうなのか」と唸らせてもらえる箇所はある。
様々なことばに埋め込まれた痕跡から、たとえば雪をあらわす語彙は印欧各国語で同語原(語源ではなくて、もとのかたちが一緒だということ)なので、おおもとの印欧語を話していた人々は、雪が降るか、それに近い場所に住んでいただろう、と、この本にしては俗っぽい話がいくつか続いたあとで、大変な碩学であったらしい高津先生(いまの怖い先生が「怖かった」と仰っているのだから、そうとう怖いかただったのだろうか)は、こんなふうに書かれている。

「語は、その音韻的形態、文法的機能、意味のみならず、言語的ならびに物的環境において語が位置する全体、すなわち語の環境に対する合致が研究せられた時に初めてその姿を掴むことができる。」
(以下、大事なお話がされているのだけれど、省く。)
「・・・我々は共通言語の全語彙をまず知らなければならない。」
(途方もないことだ!)
「語彙はしかしながら、言語のもっとも不安定な、変化のもっとも急激な部分である。ギリシア語のホメーロスの叙事詩中にある6840の単語は、アテーナイの古典時代にはすでにその半数が古語となって使用せられず、わずかにまたその残りの三分の一が今日まで生命を保っているにすぎない。紀元前五世紀のギリシア人は特別に学習しないかぎりはホメーロス等の叙事詩を完全に理解することができなかった。新約聖書中の4900語の中、半分は現代ギリシア語においてはもはや生きていない。」(p.190-191)

印欧語の類いではなく、日本語にも、その姿を掴みたいと思う時、しかしながら一方でその掴みがたさを思う時、高津先生のおことばは、すっぽり当てはまるだろう。
僕らは、たかだか千年前の日本語で書かれた「源氏物語」を、特別な学習をしなければ読めるようにならない。たかだか330年前の「おくのほそ道」の単語も今とは意味が違っていて面食らう。そしてまた、たとえば金田一秀穂さんがテレビで仰っていたように、ことばの意味は、たとえ前とおなじ響きでも、昨日と今日ではというほど極端ではなくても、日に日に意味は変わっていく。

それは神様が変えていくのではないだろう。
人が、暮らしていく中で、暮らしにぴったりくるように、ぴったりな言い方を求めて変えていくのだろう。
そんなふうにして、ことばはきっと、種類と数を増やして来たのに違いない。

なんでも神様のせいにしたら、いかんのだ。

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