「機械的」ということ
職場での悩み事から入る。
とある、世に言う「大会社」の、そのまた「事業会社」の「子会社」が出来ると、そこに事務仕事の担い手で行く、という会社員生活をしてきた。といっても、通算36年のなかで、そういう境遇ではなかった8年を除き、いまいるところで4社めである。1会社に平均して7年いたことになる。経理の方法やら、それを日常のサイクルに定着させることやらがあるので、これでも短いかもしれない。かつ、会社にとってこんな空気のような仕事だから、評価もされることはない。人間的に卑屈だ、ということも相まってだろうし、部下を抱えられるような性格でもないので、万年ヒラ社員で、出世にも無縁である。が、そんなことは悩みにはならない。妻もいて子供も出来てバリバリな気持ちがちょっとだけ湧いた時期には、少しは出世欲もあった気がするが、それでも社員旅行の途中で妻から「(赤ん坊だった)子供が熱出しちゃった、帰って来て」と電話が来れば、とんぼ返りで帰って、周りの顰蹙も買った。まして、14年前にウツを発し、妻が13年前に死んで一人で子供の心配をする羽目に陥ってからは、ますます会社に忠誠型の人間からは程遠くなった。とりあえずウツは治ったことにして、洗濯やら食事やら買い物やら家計やら学費やらをどうまわすのか、日常のトラブルをどう乗り切ればいいのか、身内があてに出来ないので基本は自力、それが不可能なら独力で相談相手を見つけ、を原則に生きなければならなくなった。なんとかなったわけではないながら、見かけは無事に子供らも成人してそれなりの自活も七転八倒しながら始めた今になって、こんな生き方が出来たのは、しかし半分背中を向けていた会社環境に無言の助けを得られたからだ、ということが分かって、むしろ会社員生活がしてこれたことには大きな感謝の気持ちでいる今日この頃なのではある。気づいてみれば、いつのまにかウツも完治していた。
悩みは、事務という仕事を、引き継ぐ相手がなかなか出来ないということがひとつめで、これは人を親会社に回してもらうしかなく、事務に空気以上の価値を感じてくれる体質が会社でもう少し増してくれれば、と願うしかない。しかしながら、自分のようなダメ社員(営業時代はからきし売れず、世間知らずで恋愛にも不器用で入社後10年くらいまではつまらんトラブルを無自覚に起こした)が事務屋に回ったことも一つの典型であるように、人事の観点では「前線で使い物にならない、あるいは従業員の管理能力がない、人とトラブルを起こす」人間を事務屋にまわせば済む、なる価値観が、会社と言うところでは優勢なのではないか、と下種の勘繰りをし続けている。事務屋に回った輩のほうも、ああ、営業みたいな仕事から見れば、機械的にできる分ラクになった、とでも思うのか、想定されているはずの仕事の日常において、周りの人たちの仕事がわずかでも何か逸脱を起こしているのではないか、との兆候をつかむという、本来的な事務仕事の根源を身につけてみたい、との欲求は、あまり持たないようである。反面、事務仕事は「資格」のネタにも恵まれているので、「現場応援」より「資格取得」に目がいってしまいがちなところもあるかも知れない。「資格」云々は、しかし明確なことではないし、自分自身は資格何するものぞと反発し逆行して来たことなので、措く。次の悩みと併せて、「機械的にできる分ラク」と思われている気がする、というところにウェイトを置いて、この先を考えてみたい。
で、二つ目の悩みである。
たとえば収入となるお金が会社口座に入ってくる。預金を「管理」している人は、それを「機械的に」収益の勘定で計上の伝票を切ってしまう。その金額には円単位の端数がある。
入金のなかでいちばん大きな対象となる商品の性格上、実は、収益となるべき金額には、千円未満の端数はない。なので、入金額に円単位の端数がある場合には、収益からの相殺額があるか、または別の種類に分けられなければならないぶんの入金が上積みされているはずである。であるのになぜ「機械的に」入金額全額を収益の勘定だと思ってしまうのか。それは自己の商品について理解をしていないから、と言うことに尽きるだろう。
もうひとつ、収益の勘定にしていいのか、という問題(大げさだが)もあって、本当は、この商品については、お金が入る前に収益として把握してしまっている前提で、あらためて未収入金としておく経理処理サイクルを組んでおいたので、商品についての入金は「機械的に」未収入金の勘定でしてもらう仕掛けにしておいたのでもあった。であるので、勘定は未収入金にして欲しかったのだ。しかしそこは別の商品は入金タイミングの関係上で入金時に「機械的に」収益計上する仕組みになっているので、預金を「管理」する人は、どうしても混同しやすい面もあるかと思う。
こんなミスが年1回で済めばいいのだが、数ヶ月に1回は起こる。こちらがミスを把握するのは、一ヶ月の帳簿が締まって初めてなのでもあり、「機械的に」処理されることを防ぐにはどうしたらいいか、小さいことのようではあるが頭を抱えている。
またたとえば、業務管理のための「システム」を、昨年暮れにパッケージ物に入れ替えた。
自社の業態に合わせてのカスタマイズはかなりしてあるのだが、基本は新パッケージの仕組みに合わせて各自が担当業務を構築し直すことを期待している。
ところが、お客様口座から引き落としで代金を頂く商品につき、担当が
「新しいシステムでは機械から引落し対象のお客様のリストが出せない」
と言って来た。言って来た、というわけではなく、こちらがお客様口座から引き落としで代金を頂く商品につき、代金をいただいたあとの確認のためにリストを依頼したら、そういう返事なのだった。
カスタマイズがそこに追いついていないのなら、手書きででも、あるいはいまどきだからExcelで作った表ででも呈示してもらえばいいのである。しかし、それはイヤだと言う。
切り替え前のシステムは、長年使い込んだものでもあったから、たしかに簡単にリストが出るようにはなっていた。ただそれでも引落しにあたって、引き落としてはならないお客様につき、リストの事前確認は必要だったはずだ。
切り替え後事故がなかったのが幸いだったのではあるが、では、その前は上のように必ずすべきであった、事故防止の為の確認はしていなかったのか、との、モラル問題が浮き出てくる。せっかく「機械的に」出せるリストがあっても、ただぼんやり眺めて、終わり良ければすべて良し、で済ませていたのだろうか。そう考えると恐ろしい。良かったのは、この件は担当ベースではなく、管理者さんベースでもウォッチされていたため、結果として心配がいらなかったことだ。それで安堵はした。
別に愚痴を綴るつもりだったわけではなく、広く「文化とは何か」を自分なりに問うてみようと思ったとき、それは「見かけからだけでは読み取れないものを自力で読み取る、人間らしい営み」なのではなかろうか、と感じ始めて、身近なことからあぶり出してみて、あらためてそういえば、と考えた結果、出て来た悩みなのではある。こうして整理しておくことが、明日から自分のすべきことを見つけるのにまた役立つのではないか、との思いが、いちばんなのではある。
併せて、脱線のように見えてしまうが、子供の教育は「これから社会で目にするだろう契約書の読みかたを教えるのがいちばんいい」との類いの発想がいかに危険であるか、も、もっといろいろな局面から洗い出せて行ければいいのだが、とも思っている。
「こういう契約だから、こういう条文があったときには、こういう対処をすればよい。または、こういう条文があったら安全だ」
程度のことを読み取るだけの力を付けるのが教育の目的になり得るのだろうか。
たとえば会社員は皆、雇用契約から始まって、日常業務もある種の契約で組み立てられていることを消化しながらやる人種である。
しかるに、上に悩みで述べたようなことのほうが、普段当たり前に見られる。
「通り一遍の実務が出来る」
は、どんなに軽率な・・・あえて軽卒と言う・・・教育方法からでも身に付くし、会社の一員として最低限身に付いたことをやっていれば、個人の死活問題になるような大それたことは稀にしか起こらない。
でも、それでいいのか。
商品の価格は契約である。
代金の頂き方は契約である。
それがプログラムに組まれたものの上で処理される以上、「機械的」にやることは、普通の場合は、契約違反を防ぐいちばん確実な方法に見える。
ところがそうではないのだ、ということは、上の悩みごと事例からだけでもハッキリ分かるのではないか。要するに、結果として、契約書が読める程度は出来ても、人間はその先は読むつもりには、なかなかならないのである。
加えて、問題回避の方法に上の悩みの類いのツッコミをすることは、「契約書の読みかた」なんぞ覚えたところでひとつも身に付かない。
どうも、なんでもかんでも、「機械的」に済まそう、それで楽をしよう、との発想が、むしろ年配で社会生活も長い人にしみついてしまっている風潮があって、それが子供たちに対する我々の態度、決めごとの仕方暗い影を落としていやしまいか、と、ちょっと心配している昨今なのではある。
うまくまとまっていないが、こんなところで。
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