2017年6月24日 (土)

子供たちの進学

 七転八倒してきた十年間のことに限って、案外、思い出せない。

 無我夢中だったことはたしかだ。そのときどきで、いろんなこだわり、負い目、苦しみ、悲しみがあった。そんな気持ちだったことは、忘れない。
 でも、中身が、くっきりよみがえらない。
 父子家庭になった中で、子供たちが、意外に健闘してくれていたからなのかもしれない。
 それはそれで、子供たちが自分の口から言うことも、ほとんどない。

 家内が死の直前まで娘と音楽大学や音楽高校を見学して歩いていたので、娘はおのずと音楽志望になった。でも、進学に必要な専門の勉強をやったことがない。周りの人に尋ねまくって、教えてもらえる先生探しをした。
 先生が決まると、あとは特段、娘の勉強について心配する必要は生まれなかった。
 公立高校の音楽科に無事合格したときは、発表の掲示の前で、飛びあがって喜んだ。本当に、大声で叫びながら飛び上がったのらしい。その後しばらくのあいだ、娘は僕に近寄らなかった。

 息子には、姉の目途がたつまで、何もしてやれなかった。それで、やっと小六の秋に、なにか夢中になれることが出来れば、と、藁にもすがる思いで、柔道教室に入れてみた。これがしかし、小学生までが対象の教室なんだという。残念ながら、半年かよわせたところで、教室卒業とあいなった。中学に進んで入った部活動は、柔道ではなかった。
 その部活も、いじめにあって、一年しかもたなかった。
 酷なもので、学校から、
 「新学年でも部活を続けるかどうか」
 を書くように、と通知が来た。
 なんとか続けてみたら、と、説得しながら記入用の書面を息子の前に広げたのだったが、息子は手がぷるぷる痙攣して、とうてい「続ける」だなんて書けそうにない。
 諦めて、サインをさせずに、書類を学校に返した。
 安いデジカメを渡して、これを持って好きなところを写してくればいい、ということにした。
 自転車で十分くらいのところに、野良猫のたくさんいる公園がある。
 息子が選んだ写真撮影場所は、そこだった。
 晴れても降っても、息子は自転車をこいで公園へ出かけて、野良猫たちの写真を撮ってきた。
 同じころ、絵を描くことにも興味がわいたので、二人で画材屋さんに出かけて、アクリル絵具なるものを買いこんだら、それでこつこつと絵も描いた。
 じゃあ、この子には写真や絵の学校がいいのかな、と思って、そういう高校を、中三になった息子と一緒に見学に行ったのだが、帰りに食事をしているとき、ぼそっと言われた。
 「ここは、僕の入るところではない気がする」
 担任の先生の骨折りで、ちょっと変わり種の子でも入れる、という私立をひとつ受けた。
 別に、やはり先生から
 「ここが向いてるんじゃない」
 と勧められた実業系の公立高校の説明会に出かけた。
 公立高校で、説明を聞きながら、息子は目をキラキラさせた。こんなキラキラは初めて見た、というくらいのキラキラだった。
 私立も公立も幸いに合格した。
 私立は大学受験も見据えていたので、じゃあ、私立かな、と準備しようとしたら、
 「いや、公立に合格していたら公立に行かなければならないんです」
 とのことで、結果、公立高校に進学させることになった。
 こんなはざまに、熱血漢の楽しい先生に出会って、息子はギターも習い始めることが出来た。
 息子の方を本当に向いてくれるか、向いてくれたのか、ということだけが気がかりの種だったが、そこはちょっとズレていた。
 高校卒業までお世話になった。

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2017年6月15日 (木)

人格

子供たちが生まれたとき、女房には
「わが子っていったって、お前とは別人格なんだからな」
と言った。
よくも偉そうに言ったものだ。
そのまま自分に跳ね返ってくるとは思わなかった。

家内が急に死んで、数日呆然となった。
それから突然、あ、娘と息子には母親がいなくなったんだ、と気が付いた。
子供らにとって、これからは、親は自分ひとりなのだった。

どうしたらいいのか。

娘は中二で息子は小五。まもなく進学。
人格だなんて、まだまだ海のものとも山のものともつかない。
その親を、果てしなく人格未完成な自分が、この先ひとりでつとめる。
出来るのか問い直さねば、などとは、考えようがなかった。
そもそも、人格ってなんなんだか、実はさっぱり分からない。

まあ、そんな難しいことは、いい。
何から始めたらいいのか。

そうだ、朝夕の飯作りだ、と思い付いた。

洗濯もあるけれど、洗濯機に洗濯をしてもらうことと、洗濯物を干すことは、できた。ウツを患ったのもあって、そのおり妻に教わっていた。

料理調理は、家内の過保護下にあったので、ほとんどしたことがない。
いちど焼きそばをやったら、べしょべしょのぐしょぐしょになって、それでも「おいしい」と妻や子供たちが食ってくれた。
炊飯器に米と水をどんな割合で入れたらまともにご飯が炊けるのか。
味噌汁はどうやって作るのか。
それがさっぱり分からなかった。

炊飯器は電気だから、米をカップで何合とか量って、それとおんなじ数字のところまで水を入れればいい、あとはスイッチを入れるだけなのは、なんとか分かった。
コメは研ぐものだ、というのだけは、かろうじて知っていた。

味噌汁が、困った。
やったことがない。作りかたも想像がつかない。
味噌汁の作りかたが載った本と、味噌汁を作るのだから味噌を買いに行った。
帰って、テーブルにふたつ並べて、にらめっこした。
にらめっこしていても、味噌汁はできない。
仕方ないので、ご近所さんに電話で教えてもらった。
「だしをいれなくちゃ、ダメですよ。」
そうなんですか。
だし、って、婆さんは鰹節でとってたっけな。でも、どうやるんだ。
「粉末のだし、普通に売ってますよ。」
あら、そうなんだ。
またスーパに行ったら、たしかに粉末だしなるものが置いてあった。その粉末だしと、具にするワカメを買ってきた。
ワカメを水で戻したら、十倍ぐらいにふくらんで、腰が抜けた。
おそるおそる鍋に湯を沸かし、お玉で味噌をおっかなびっくりしながら溶き、粉末だしをちょっとふったら、ワカメの味噌汁らしいものが出来た。
心で泣いた。
多すぎたワカメは、多すぎるサラダに見立てて、子供らに食わせた。

毎朝毎晩、こんな具合。

それでも一年くらいは、子供らは黙って食った気がする。
いや、気のせいで、そんなに長くはなかったかもしれない。

おかずは、ワカメサラダばっかりだったわけではない。
煮物もやった。

しばらくたったある朝だったか、晩だったか、子供らに言われた。
「お父さんの作るおかず、ワンパターンなんだよね」
「そうそう、いつもめんつゆの味だしね」
だって、亡妻愛用だっためんつゆを入れるのが、子供らになじむんじゃないかと思ってたから。
「おいしくないよ」
いや、煮物だけ作ってたわけではない。
カレーもやった。カレーにはめんつゆは入れなかった。カレーだけは文句を言われなかったが、めんつゆを入れなかったからだったのかも知れない。
他に何か作ったのかどうか、まったく覚えていない。
「だめだよ、これからは、私が作る」
と、娘。
「僕も、そのうち」
と、息子。

父ちゃんは目の前が真っ暗になった。

翌日からは娘が、作った。
しかし数日で作らなくなってしまった。

それからは、ご飯と言えばスーパーやコンビニで買ってきたものか、ひたすら外食、とあいなった。
今も、そんなものである。

こんな話のどこが、人格の話なんだろう。

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2017年6月 7日 (水)

妻の死顔

妻の死顔だけは、忘れられない。
それまでの、決して長くはなかった家族の日々や、埋葬までのこと、以後のこと、どれもこれも、断片的にしか記憶がよみがえらないのだけれど。

死顔が永遠に動かなくなった表情だったからか、というと、少し違う。
死んだその時からでも、顔の表情は変わったのだった。

夜中に倒れているのを見つけたときには、
「私に何が起こったんだ」
と驚いたような、呆気にとられたような、顔をしていた。そのとき、もう息はなかった。

救急隊の人たちが来て、妻の胸元をあけて心臓マッサージをしているあいだ、驚きの表情は消えた。
無表情とはこういうことか、と、初めて知った。
前にも後にも、あんなに何もない顔というのは見たことがない。能面のなかの、無表情とされるものでも、あのときの妻に比べれば、とても豊かな顔をしている。だから、無表情というものを、いまだにうまく言い表せない。ただいえるのは、血の気の引いた顔は、青ざめたのを通り越して、とても透きとおっていた、ということくらいか。
この顔になんとか表情が戻って、また息をし始めてくれたなら、と思った。

病院に搬送され、処置用の床に寝かされた妻の体が、次に僕と子供たちの目の前に現れたとき、顔には表情が戻っていた。目元が笑んでいた。
さっきは透きとおってしまっていた頬にも唇にも、ほんのり赤みが戻っていた。
それでも、お医者の口から出たのは、ご臨終です、との言葉だった。

ひとつながりで思い出せるのは、ここまで。

霊柩車が自宅前に着いたとたん、朝がすっかり真っ暗になってしまうほど激しい雨がひとしきり降って、やんだあとは、ずっと毎日すがすがしい晴れ空が続いた。
義父や実父や妻の叔父がこれからをあれこれ段どっているのもよくわからないまま、妻のなきがらを横抱きにして寝そべって、灰のようになって数日過ごした。

ときどき自分にも意識らしいものが戻って、ふと妻の顔を見ると、もう目元だけでなく、口元まで笑んでいるのだった。

いったいどういうことだったのだろう。
十年たっても、時々考える。

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2016年9月19日 (月)

神様の贈り物

家内は、とても寂しがりな僕にとっては、神様の贈り物でした。

東京の外れに勤務になると同時に、アマチュアでオーケストラなる楽隊に入って、ヴァイオリンを弾き始めたのですが、家内は僕より先にそこの団員になっていて、ヴィオラを弾いていました。

僕は何せどうしようもない寂しがりなので、団内に気になる独身女性がいるとすぐ惚れてしまうような調子だったのですが、そのうち女房になるだろう彼女のことは、これっぽっちも気にかけたことがありませんでした。
東に小柄で瞳の綺麗な女性がいれば、きいて
「もう好きな人がいる」
と知って諦めました。
西から「研修で来てる」という若い時の栗原小巻似の美人さんがいれば、その帰郷を追いかけていくも(合意の上でしたので、念のため)周りに
「この土地に骨を埋めるんでなければ嫁にはさせん」
と責め立てられて逃げ、するようなありさまでした。
けれど、彼女はまったく目に入っていないも同然だったのでした。

楽隊では春と秋に合宿をやります。
彼女は車で合宿に来ていました。
近いというほど近いわけではなかったのですが、春の合宿の帰りに、
「よかったら、お住まいの近くまで送ってあげますよ」
と声をかけて乗せてくれたのが、彼女が目に入ったきっかけといえばきっかけでした。
ですけれど、他のおじさんも同乗していたし、僕は別の女の人に入れあげていたし、これで彼女が気になった、というのではありませんでした。

秋の合宿で、初めて二人で帰りました。
ありがたいとは思っていたものの、僕は異様にトイレが近いので、そんなのを知られたらみっともないなあ、と、複雑な気持ちでもありました。
案の定、乗って30分もしないうちに、我慢が出来なくなりました。困っていると
「あ」
と、彼女はすぐ先のパチンコ屋さんの駐車場に入って、
「ここで、大丈夫ですよ」
と言ってくれたのでした。
助かりました。
お礼に、と思って、途中で飯をおごることにしました。
蕎麦屋さんでした。
太っている僕は、遠慮して、ふつうのお蕎麦を頼みました。
彼女は丼物に蕎麦付きを選んで、ぺろりと平らげました。
「よく食う女だ」
と、呆れました。

冬の、クリスマスイヴにコンサートがありました。
打ち上げのパーティーで、僕はなぜか彼女の真後ろにいました。
最後にみんなで「きよしこの夜」を歌うことになりました。
前から、ひときわ透き通る女声が聞こえてきました。
彼女の声なのでした。

それから二次会へ、これもなぜか二人並んでいきました。
入った二階の狭い居酒屋さんで、先に来ていた現地の人に、
「あら、お二人、ご夫婦ですか?」
ときかれました。
「ちがうわよぉ。そうなっちゃえばいいのにねぇ」
と、身内の団員のおばさんが言いました。

僕は店を真っ先に出たのでしたが、階段を踏み外して数段分落ちて、潰れた蛙のように踊り場でぺったんこになりました。
なぜだか彼女一人が真後ろにいました。
ぺったんこな僕のところへ駆け寄ってきて、助け起こしてくれるのかと思ったら、そうではありませんでした。
僕の襟首をちょこんとつまんで、げらげら笑い出したのです。
さすがに腹が立って、おい、と手をつかんで、そのままぐんぐん歩きました。
とは言っても行き先は駅のホームで、翌日いっしょに出掛ける約束をさせたのでした。

翌日のデート先で、いきなり
「僕の子どもを産んでくれない?」
と言いました。
バカだとは思ったけれど、他の言葉が浮びませんでした。
返事は二週間保留されました。
中華屋さんで、二人で飯を食いました。彼女はあいかわらず大食いでした。

二週間後、承知の返事をもらって、そのまま二人で外に泊まりました。
それから、住まいの決まる三ヶ月後まで、夜はいつもいっしょにいました。
仕事が終わると待ち合わせるのですが、携帯電話なんて普及していない頃です、忙しかったのだろうけれどかなり遅れてくることもありました。そうすると、べそをかいて僕に謝ってくれるのでした。

ひとつ気がかりだったのは、僕の勤め先がおんぼろなプレハブだったことです。
「こんなところで働いてるんだけど」
と、連れて行っておそるおそる見せました。
「ふうん」
と言ったきりで、彼女はニコニコ笑っていました。

親たちへの挨拶も、適当なものでした。
まず僕の実家へ連れて行ったら、なにを思ったのか、おふくろが剣玉を持ち出してきました。彼女は目をキラキラさせてそれを受け取って、剣玉三昧に陥りました。
彼女の実家では、僕が
「みんなで楽しくやりましょう!」
とか、わけの分からないひとことを言ったきりで、彼女のご両親もあっけにとられていました。
結納はありませんでした。

家内にとっては高齢出産の危険もあったので、できた子どもは結局二人でした。

結婚式をやるつもりはなかったのですが、家内のお母さんも、それでは、とたいへん心配なさったし、たしかにやらないのはよろしくないかも、と、渋谷のレストランを借り切って、席もおおざっぱに決めただけで、楽隊の仲間にいろいろ弾いてもらって、どんちゃん騒ぎでやりました。
家内の親族一行は、家内のお父さんのチャーターしたバスで、お披露目の後みんなでどこか温泉旅行に行ったようです。
娘が娘なら、父も父です。
まったくもって、良い家族に恵まれました。

お披露目のとき、娘が家内のおなかの中で6ヶ月でした。

いま、その娘は二十代になって、歌の勉強をしています。
母親の歌声を聞いていたからかどうかは、よく分かりません。

独り立ちの近づいた子供らも、なかなか独り立ちとはいきませんが、だんだん相手にならなくなってきたし。

僕にとって神様の贈り物だった家内は、先に神様のところへ帰ってしまったし。

なんとか誰かと過ごす時間をとりながら、と紛らわす機会は探すものの、亡妻にはいつも寄り添ってもらっていたことが思い出されて、今は、ぽつん、と一人置いていかれている気がしてなりません。

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2016年9月16日 (金)

ジローのこと

暗くなって仕事から帰ると、僕の乗っかるエレベーターに、いっしょに乗っかる猫がいました。
エレベーター待ちをしている僕を見つけると、近づいてくるのです。
片目のない猫でした。それが、僕の下に座り込んで、見える方の目で、鳴声もたてずに、じっと僕を見上げるのです。
「なんだ、今日もか。しかたないなあ。」
ってんで、いっしょにエレベーターに乗せます。
僕たち一家は、集合住宅の、エレベーターで昇った方がいい程度の高さのところに住んでいます。
そんなウチの前まで二人、ではなく、ひとりと一匹で歩きます。
着いてドアホンを鳴らすと、ただいま、ではなくて
「おーい」
と小学四年生の息子を呼びます。
出てきた息子を見るなり、猫は、鳴こうとして口を開きます。でも、声が出ませんでした。
息子が駆け寄って、猫の頭をなでます。猫は猫で、嬉しそうに息子にすりすりしています。
それを見届けたら、僕は中へ入ってドアを閉めるのでした。可哀想だけれど中には入れてやれませんでした。

息子は変わった子で通っていて、学校で人間の友達が出来ませんでした。
それでも、困った様子はまったくありませんでした。
学童保育に通っているころも、普通に歩けば、教室から学童保育室までは、3分もかからないはずでしたが、息子はいつも30分以上かかって到着するのでした。
そのあいだ、なにをしているのかというと、通路にあるパーゴラを見上げて、届きっこない高さの葉っぱに手を伸ばして取ろうと飛び上がったり、着地に失敗した自分の足取りがさも可笑しいというふうに、その場で一人でけらけら笑いながら踊り出したりしていたのでした。
担任の先生がいつもそれを面白く眺めていたらしくて、親として面談に伺ったときに
「やつは可愛いんですよ」
と先生に目を細められて、どう受け止めていいのか、困ってしまったものでした。

人間の友達が出来ないので、近所の野良猫と仲良しになったのでしょうか。

ウチの前で猫をなで始めた息子は、そのまましばらく中に入ってきません。
「ジロー、今日も長居だね」
と、中で姉娘と家内が笑っています。
僕が晩ご飯を食べ終わっても、まだ戻りません。
表を覗いて
「さ、そろそろだな」
と声を掛けると、ようやく
「ジロー、またね」
と、息子がお別れのあいさつをします。
すると、ジローはくるっと向こうを向いて、すたすた帰っていくのでした。
ジロー、というのが、息子のつけた猫の名前でした。どう見てもメス猫だったのですが、ジローとつけてしまったのだから、しかたありません。

ジローは僕たち家族の顔はみんな覚えていたようでした。
働いていた家内も何度か、帰ってきたとき、エレベーターの前でジローの待ち伏せにあいました。
「あれまあ」
ってんで、家内もジローをいっしょにエレベーターに乗せたのでした。

そうやってジローがウチへ息子を訪ねてきたのが、どれだけの間のことだったか、残念ながら覚えていません。
とても長かったようにも思うし、ほんのわずかなあいだだったような気もします。

冬が来て、ウチでは家内が急死しました。
仕事先で倒れて救急車で運ばれて、いったん帰宅したものの、翌朝早くに息絶えていたのでした。
心臓の脇の血管が破裂してしまったので、あっという間でした。

親族や手伝いの人がたくさんウチに集まってくれていたので、もう起きることなく眠っている家内の、生前寝ていた布団をクリーニングに出すことにして、僕と子どもたちは布団をかついで出掛けたのです。
帰ってみたら、
「いないあいだに猫が来て入ろうとするから、追い払ったのよ」
と言われました。
最初、何のことだか分かりませんでした。が、
「あっ、ジローだ!」
と思い当たって、慌ててまた子供らと三人、表へ飛び出てジローを探しました。
でも、見当たりませんでした。

その日以降それっきり、僕はジローを見つけることが出来ませんでした。
ジローを見た僕の記憶が、この出来事でふっつり切れてしまっているのです。

もしかしたら、少なくとも息子はジローに会えていたのかも知れません。
でも、息子の記憶も、僕と同じところで途絶えています。

ジローはどこに行ってしまったのかなあ、と、いまでもときどき思います。

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2016年9月10日 (土)

しばらく放置していました

しばらく放置していました。

もともと鬱からのリハビリのつもりでブログを始め、すぐ家内の突然の死にあったことにも拍車をかけられ、マニアックな内容ばかりになってしまっていたのでした。

幸い鬱からも脱出して数年を経ました。
まだ義務教育過程だった子供らも、おかげさまで成人しました。

ブログも本来お役目終了ではあります。

まあ、せっかく場所があるので、これからは不定期に、気の置けない思い出話なんかを、のんきにでたらめに綴ろうかなと思います。

ときどき覗いてやって下さい。

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2015年2月28日 (土)

【やじうま古文02】『無名抄』散歩2

Chomeiden

長明さんは19歳か20歳の頃お父さんを亡くしています。庶民の感覚だと、昔の人ならそんな遅くはなかったのでは、と思うのですけれど、長明さんは下鴨神 社の高級神官さん(禰宜)の家の生まれ育ちで有力な親族もいましたから、まだ生活力もついていないうちに大切な庇護者のお父さんが死んでしまったのは、 やっぱり早すぎたのですね。
けれども長明さんはお父さんがまだ生きている間に、お父さんが主催した歌会を目の当たりにしたり、琵琶の腕を磨いたりして、和歌と音楽でそこそこやっていけるようには育ててもらえていたらしく、鎌倉時代史の第一人者である五味文彦さんは
「(長明の父の)長継は兄の早世により禰宜の職が転がり込んだことから、次の禰宜は我が子(=長明)ではなく、(早世した)兄の子季平を考えていたのかもしれない。そのため長明には和歌や管絃を学ぶ環境を整えたのだろう。」
と仰り、そうだったからこそお父さんの長継さんは
「若い長明の才を買い、色々と勉学の手配をしたのであろう。」
と推測なさっています(『鴨長明伝』p.49 山川出版社 2013年)。

きわめて若いうちにお父さんを亡くしたことで長明さんは世間から「みなしご」と言われたようで、のちに後鳥羽院の和歌所で同僚となった源家長にも 「この長明みなし子になりて」と書き残されています(『源家長日記』三七ウ)。それでも『無名抄』の文面にはこうした境遇からくる鬱屈はほとんど感じられ ません。素直な人だったのでしょう、長明さんはおそらくお父さんの親友だった歌人の勝命や、若いときからの琵琶の先生の中原有安から受けたアドヴァイスを 『無名抄』でまっすぐに書き留めています。

中でも琵琶の有安先生は歌人生活の実態にも詳しく、その助言は長明さんの生き方に大きな影響を与えたようです。

あなかしこ、あなかしこ、歌詠みな立て給ひそ。歌はよく心すべき道なり。我がごとく、あるべきほど 定まりぬる者は、いかなる振舞をすれども、それによりて、身のはふるることはなし。そこなどは、重代の家に生まれて、早くみなし子になれり。人こそ用ゐず とも、心ばかりは思ふ所ありて、身を立てんと骨張るべきなり。(中略)そこたちのやうなる人は、いと人にも知られずして、さし出づる所には『誰(たれ)そ』など問はるるやうにて、心にくく思はれたるがよきなり。(以下略)」(13)
決 して決して、歌人だと表立てにしないように。歌はよく注意しなくてはならない道だ。私たちのように、身の振り方が決まってしまった者は、どんなふるまいを しても、それで身の落ちぶれることはない。でもあなたなどは重代の家に生まれて、早く孤児になってしまった。他人こそ用いてくれなくても、心だけは思いを しっかり持って、身を立てようと頑張るべきです。(中略)あなたたちのような人は、よく人にも知られないで、出席したところでは「あなただあれ?」などと 訊かれるようでいて、もっと知りたいと思われるのが良いのだ。(角川文庫の久保田淳訳をもとにしました。)

こんな訓戒を大事にしていたからでしょう、三十代のとき勅撰の『千載和歌集』に歌一首が採用され、長明さんはほんとうにまっすぐに喜んで、有安先生にその心の態度を誉められます。
(一 首くらい採られてみて、長明くんは)別になんてことないさ、みたいに言うのかと思っていたら、本心から喜んでいるんだねえ、歌の道で必ず報いられる(神様 が守って下さる)人だよ、と、先生はすっかり感心した様子で、このときさらに長明さんに大切なことを言ってきかせます。

道を貴ぶには、まづ心をうるはしく使ふにあるなり。今の世の人は、皆しかあらず。身のほども知らず。心高く驕り、かまびすしき憤りを結びて、事に触れて誤り多かり。今、思ひ合はせられよ」(12)
道を貴ぶには、まず精神を清らかにはたらかせるのが大切だ。今の世の人は、みんなそうしていない。身の程も知らず、プライドが高く驕慢で、ぴいちくぱあちく憤懣ばっかり口にして、なににつけても誤りが多い。いまこれを考えあわせておきなさい。

先生のこの言葉をまた大切に感じ、後人のために書き留めておかなければならない、と、長明さんはきっと強く思ったのでしょうね。書き留めた末尾に
「古き人の言へること、必ずゆゑあり。」(12)
と付け加えています。

「(数字)」は、角川文庫版(久保田淳 訳注)での章段のナンバー。底本の章段分けに沿っている由

角川文庫『無名抄』
http://www.amazon.co.jp/dp/4044001111

『無名抄』の電子テキスト(やた管ブログ)
~角川文庫版の底本と同じ「梅沢本」をテキストファイルに落としてあります。
http://blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/53157957.html

e国宝
http://www.emuseum.jp/detail/100410?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=2&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=177&num=4&mode=detail&century=

ここのブログに12段の話がとりあげられています。
http://invitrocafe.blog.fc2.com/blog-entry-187.html

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