2009年11月 2日 (月)

ヘーゲルの言葉から

ヘーゲルの「歴史哲学講義」は聴講者によるノートであり、ヘーゲル純正の著作ではありませんが、歴史を題材にしているという点で、ロマン派への転換期を迎えたドイツの、どちらかというと保守側の精神的状況を、彼のどんな主著よりも明らかにしており、後の世代にはなりますがヘーゲルとは対照を成すマルクス、ヘーゲルよりも内面的な指向の強いショーペンハウエルの、いずれも簡便な諸著作と併せて、比較的分かり易く貴重な文献です。

ヘーゲルやマルクス、ショーペンハウエル、あるいはバルザック、さらに先へ進むならばカフカやロマン・ロランの記述から読みとれる19世紀の感性とロマン派音楽との関係は、音楽史の話題で観察するとして・・・実質上ヘーゲルに始まる東洋への「偏見」には東洋人として寂しさも覚えるのですが、日本人の場合は明治以後はヘーゲルの歴史観にそのまま染まってこんにちに至っていますので、いまだに純粋に東洋人としてヘーゲルの歴史観に異を唱える感性は熟していないかと思われます、それでもなお・・・彼が古代ギリシャ精神を「解釈」した発言(実はそれを聴講した無名人の解釈なのかも知れません)には耳を傾けるべきものがありますので、音楽に直結させても良かろうと感じられるいくつかをご紹介を致します。テキストは岩波文庫(長谷川宏訳)の上下巻のうちの下巻によります。

「哲学はおどろきから出発する、といったのはアリストテレスですが、ギリシャの自然観もおどろきから出発します。・・・ギリシャ精神は、あたえられた自然をぼんやりとうけいれるのではなく、最初は違和感をいだきつつも、しかし信頼できるという予感のもとで、自分と親しく、自分が積極的にかかわることができるようなものとして自然に信頼をよせるのです。・・・自然物は、むきだしの自然物としてではなく、精神の息のかかったものとしてとらえられる。」(25-26頁)

「予感に満ちて耳かたむけ、内面の意味をさぐろうとする自然との関係をイメージ化したものが、牧神パーンの全体像です。・・・空おそろしさをよびさますパーンは、笛吹きとしてもあらわされる。・・・このイメージには、一方で、怪物の音楽が聞こえてくるという意味とともに、他方で、聞こえてくるのは聞き手自身の主観的な想像音だという意味がこめられています。」(26-27頁)

「解釈は詩ですが、自分勝手な空想ではなく、自然のなかに精神的なものを読みとる知性ゆたかな空想です。」(29頁)

「ギリシャ精神はいわば石を芸術作品につくりあげる造形芸術家です。・・・石は自然な石でありながら、精神を表現するものとなり、そのように加工されたのです。逆に、芸術家は石の精神的な可能性を理解するために、色その他の感覚的な表現形式を必要とする。そうした材料がなかったら、芸術家は自分の理念をみずから意識することもできないし、他人に対象としてしめすこともできません。芸術家の理念は思考の対象となることが出来ないものですから。」(32-33頁)

このところ綴った記事

・曲解音楽史61):近世日本2
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/61-4454.html

・「悲しい」と正直に言えば喜劇になる
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/15end-1107.html

・CD本、読みますか?
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/14-2852.html

・たとえば「モーツァルトを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/13-6e6d.html

・たとえば「ガーシュウィンを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/12-6254.html

・たとえば「グールドを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ac04.html

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2009年10月 2日 (金)

季節ってなんなんでしょうね

季節の変わり目ですね。
ついこないだまでは、いつまでもしつこく地平線の上に粘っていたお日様が、ここんとこは急に、ぽとん、と沈みます。

ウチの前の桜の木々は、いちはやく葉っぱをだいぶ落としてしまいました。まだそんなに冷え込んだりしないのに。

生き物、とくにちっこいやつらは、こんなふうにうつろっていく光や空気や水の中を、けなげに生きていますね。
いいえ、ちっこいやつらだけじゃなくって、動かないから分かりにくいけれど、大きな木たちも同じように生きていますね。

実がなる前に倒れる命があります。
実をなんとかみのらせたものの、そこまでで力つきる命があります。
実がならずに枯れていく命があります。
永遠の命、なんてものは、みあたりそうにありません。
春、夏、秋、冬を何度も繰り返して味わえる命、というのは、それほど多くはありません。
太陽が天空の星星の間を一巡することが、これまでに何度繰り返されて来たか、これから何度繰り返すのかを思いやると、それぞれの命の、なんと短いことでしょう。

だからこそ、そのなかで精一杯生きている、ということは、尊いのでしょうね。

私の家内は、自分の人生の季節の、せいぜい秋の入口までをしか生きませんでした。
それまで私自身はこんなことにあまり敏感ではありませんでしたが、身近でそういう命のあり方を目の当たりにした後、
「ああ、この命も家内と同じようだ」
「この命はあまりにも・・・まだ春の入口にも立たなかったのに」
などと、ちょっと過敏になっていたかもしれません。

そういうときは、いくつもある花の蕾の中で無事に開けるものが、果たしてどれくらいあるかを見つめることを忘れていたかもしれません。
あるいは、開いたものの、やがてしっかり実を結ぶところまで至ったかどうか、ということを、見ようとしていなかったかもしれません。

たった1秒の命でも、千年の命ほどに重い。
だから、どちらがより「はかない」だなんてことは、本当は断言出来っこないのではなかろうか、と、近ごろ思い始めたところです。
・・・ただし、それを納得している、というところまで行っているわけではありません。

ふとしたきっかけで、あるひとつの交響曲ばかりに1ヶ月近く熱中していました。
この作品、前から知らなかったわけではないのに、その意味が分からずにいたのだ、と気づいたら、それを知りたくて仕方なくなってしまったのでした。

正直言って、未だに分かりません。

ただ感じたのは、この作品を書いた人は、この作品を書いた時には、もう人生の「冬」の前で、体を自在に動かすこともままならなかったのかも知れないなあ、ということです。

窓から外を眺めると、自分が活き活き出来る場所が見つかりそうだ・・・自分は老いてしまったけれど、まだ何か、素晴らしい実を付けることが出来るに違いない、そう信じて、倒れてはまた胸を希望でいっぱいにし、希望が溢れれば溢れるほど、動かない体に精一杯の力をみなぎらせてみる。諦めることを知らないから、やめて欲しくなるほどに苦しげだけれど、その不器用さが、だんだんにむしろ、虹のように光ってさえ見えてくる。

このひとはいったんは、秋祭りかなんかに出掛けていって・・・もともとかっこうのいい人ではないので・・・、短い足を精一杯動かして、このひとなりの「いっぱいいっぱい」で、きれいに踊ってみようと試してみるのですが、疲れ切ってしまいまして、たぶん昏倒したのでしょう。

気づいた時にはベッドで横になっていたのでした。すると、なんだか神々しい光が見えてくるのです。それが「天国」なのかどうかは分からない。
「いや、まだ自分はこの世にいる。だからあれはこの世の栄光なのだ」
起き上がって、このひとはそれをつかみ取ってみようとするのですが、心ははっきり目覚めても、体はもう起き上がれない。
窓には霜がこびりついていて、表の景色はもうはっきりとは見えません。目もかすんでいます。「栄光」とみえたものは、衰えた瞳にうつった暖炉の火に過ぎなかったりするのです。

とうとう、このひとは実を得ることは出来なかった。うつつに、という意味では、なにものも手中に出来なかったのです。
だけれど、自然は確実に次の春を用意している。この人が枯れてしまっても。
そう信じることができた時、たぶん、このひと、本当ならありえるはずもない「永遠の命」っていうやつを、しっかりと見たのかも知れない。

彼は最後まで、自分の見た「永遠の命」を何とか書きとめておこうと、心の中では葛藤し続けました。
でも、とうとう、それはなりませんでした。
ですから、この交響曲は、最後まで完成されることがありませんでした。

・・・長ーい音楽作品も所詮は刹那なのですね。それだから、美しいのかもしれません。


今週綴った記事

・「グールドを聴く」ということ・・・映像リンクのみ
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ac04.html
 ※ これにくっつける本文を考え中ですが、難題です。
   やめときゃよかった!!!

・音楽の愛し方10:「音楽」を聴くのか、「演奏」を聴くのか
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/10-a2c8.html
 ※ へりくつ。


・「ピーターと狼」:音楽を聴こう1
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-1bba.html
 ※ ディズニーの昔のアニメです。

・オーケストラ映像のどこを見るか:音楽の愛し方 番外2
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-29f0.html
 ※ 私なりに感じる勘所です。「指揮者」を見るのではなく。


・ブルックナー「第九」チェリビダッケとヴァント:音楽の愛し方番外1
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-bddf.html
 ※ 私のつまらん長話のネタは、この交響曲です。


・「千住家にストラディヴァリウスが来た日」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-3189.html
 ※ 文庫になりました。思いの外、いい本でした。

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2009年9月26日 (土)

涙を流せるから生きている

今日、職場を訪ねて来てくれた前の上司とお茶飲み話をしました。
会社が異動の時期ですので、その悲喜劇の話から始まって、それぞれの家庭の事情やら、周囲の人におこったことやら何やらで、20分のつもりが1時間ほど話し込んでしまいました。
まあ、細々したあれこれは措きます。

元上司曰く、
「とにかく、どこもかしこも、いろいろあらあなぁ」

本当に、なにも抱えていない人はおらず、なにも抱えていない家族はいない。
決してくらいムードで話しているのではないのですが、中身をつらつらかえりみるに、
「オレも辛い、おまえも辛い、あいつも辛い、きっと誰もが辛いんだろう」
話はそんなほうに向かうのです。

人間、どこに幸せがあるんだろうか、と思うくらい、いまここで話し合っている二人以外も誰も彼も、なにかしら試練を抱えながら日々を過ごしているのだ、と、なぜだか今日は二人して、話の終わりのほうでは世の中みんなが切ないんだなあ、と、しみじみ、そんな思いにひたっていました。

で、またまた元上司曰く、
「でもさあ、辛いってことが、生きている証なんだよな。涙がながせる、ってことがな」
酒癖の悪かったおっさんのくせに、妙に立派なことを言うもんだ、と、今日ばかりは感心しました。

洗礼を受けたわけでもないから聖書を引き合いに出すのはもってのほかなのかもしれませんが、これまたどういうことか、元上司の言葉から私が連想したのは「エデンの園」でした。

蛇からリンゴを受け取って齧った瞬間、
「パラダイスを追い出された」
人間たち。

・・・このはなし、本当に『失楽園』を語ったはなしなのだろうか?
・・・もしかしたら、違うんじゃないか?

リンゴを味わうまで、人間には、もしかしたら感情の起伏というものもなかったのではないか?
エデンの園が「喜び」の世界だなどというのは、嘘八百なのではないのか?
何故なら、辛さを知らずにラクは分からず、悲しみを知らずに喜びが分かるはずがないからです。
心に涌くある感情というものは、比較でき対照出来る感情というものがあってはじめて、自分の心にどういう作用をもたらすか分かるのだ、と思うほうが自然です。
とすると、「エデンの園」から出て行くことで初めて、人間は「辛さ・悲しみ」を知り、涙が流れるということを知り、だからこそ、「エデンの園」という<ふるさと>が自分にあって、そこにいることが安楽でも喜びでもあることを「相対的に」知ったのではないか?

「知る」ことが原罪だ、ということを、もし私が中世のキリスト教圏の住人として否定していたのであれば、たちまち「異端」として追放されたことでしょう。ルネサンス期だったらもっとえらいことで、「異端」即「火刑」だったでしょう。

でも、旧約聖書では「エデンの園」から出たのが「追放された」と表現されてはいるものの、そうではなくて、この話の本質は、自らの心を知ることによって<ふるさと>に安住していては得られない「心の豊かさ」を求めて、アダムとイヴが、実は自分たちのこころのきめたことにしたがって「ここを出よう」とした、というところにあるのではなかろうか、と、私にはどうしてもかように思えて仕方なかった次第です。
それを「神から追放された」と表現するのは、出発に当たってはまだ「自分の意思」とは何か、を悟るところまでは人間が達していなかったことを物語っているに過ぎない・・・

これは、罰当たりな発想でしょうか?

今週はとりたてて綴った記事がありません。

毎度の駄弁失礼致しました。

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2009年9月18日 (金)

アルバム:息子の絵1

最近、息子が自己流で絵を描き始めました。
水彩絵の具、アクリル絵の具を使っています。
描いた順番に並べておきたいと思いました。
「作品」としてではなくて、息子の心の履歴書として、です。
なにせ、自己流ですから、技術も何もありません。
ただ、描くということは、やっぱり心を正直に表わすものだなあ、と感じております。

8月下旬から昨日現在までに描いたものです。

また随時、掲載して参ります。

・ひとりたび
Ai

・宇宙旅行
Spacechicken

・けなげ
Kenage

・決意
Eye

・地球とUFOとロケットと
Chikyu

・未来予想図
Fortune

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2009年8月29日 (土)

倒れる人

このところ、会社で親しい人・世話になった人が相次いで倒れました。

最初は前の職場で社長を務めたあと退職したかた。カカアやウチに来てくれていたクリーニング屋のオジサンやオヤジと同じ、大動脈解離。カカアだけが心臓直下で剥がれたので即死状態だったのですが、オジサンとオヤジとこのかたは血管の破裂なので一命は取り留めました。オヤジにせよ元社長にせよ、もう年輩だから何かあってもという気はしたけれど、やっぱり可哀想なものは可哀想。3人ともなんとか助かったのでホッとしていました。

その矢先に、先日は58歳のかたがクモ膜下出血で急死。何年か前からスポーツクラブ常連でした。詳しいことは知らないのですが、亡くなる前日まで元気いっぱいだったそうです。最初にお目にかかった1回で僕を覚えて下さって、その後も顔を合わせると何かと声をかけて下さっていたかたでした。昨日がそのかたの葬儀でしたが、直接のご縁がなかったということで出席は遠慮しました。

一昨日は自分自身が会社の健康管理関係で「うつ」経過観察の面談だったのですが、そのフロアに、娘と同じ歳の息子さんがいる人がいるので訪ねていったら、朝に
「風邪をひいたみたいだ」
ということで休んだとのことで、不在でした。
昨日になって、その人が、僕の訪ねていった時刻の1時間あとに意識不明になって救急車で運ばれたって連絡が入った、と聞かされました。52歳か53歳か、です。
やっぱりクモ膜下出血だとのことで、今日になっても意識が戻らず、戻ったとしても
「社会復帰は無理」
というのが医師の見解だそうで。
とにかく一命を取り留めて欲しいと、いまは祈るばかりです。

大動脈解離の元社長は1ヶ月ほど意識がもうろうとしていて、しばらく訳の分からぬことを口走っているという状態でしたたが、奥様は気丈で明るく振る舞いながらも、保険の手続きや何やかやでは助け舟もなく、大変だったようです。

クモ膜下出血で亡くなった方はスポーツマンでした。
昨日倒れた人(Kさん)は、もともとそう丈夫ではないところもあったのですが、最近は親しい人には
「最近健康に自信があるんだ」
といったニュアンスのことをしきりに言っていたし、顔色も良かったのです。

「意識がなくなる前に、自覚症状がなかったのかねー」
「いやー、ウチのカカアのときは、職場に着くなり『寒気がする』って言ってたみたいだけど、それだけだったんですよ。病院に運ばれた時は血圧も心電図も正常で、お医者にも何にも分からなくて、入院も拒否されて」
「Kは、頭が痛い、って、自分で病院行ったらしいよ。で、帰って来て、ろれつが回らない、って言ってたんで、お嬢さん(大学生)が救急車を呼んだんだけど、クルマんなかで意識がなくなったんだって」

亡くなった方もKさんもウチのカカアも、共通するのは、倒れる数年前から妙に
「健康に自信があった」
ということ。これはよく記憶しておかなければならないでしょう。

「奥さんやお子さんが思ってくれるところは未だいいけどなー」
と、前日ギターのCDをいっぱい貸して下さった先輩が教えてくれた体験談。
「オレのまえいたとこでやっぱり急に倒れたヤツがいてさ、奥さんに連絡したら、『あんな家庭を顧みない男の面倒なんか見たくない』って。でさー、毎晩、オレらが交替で行ってやったんだよ。仕事一本槍だったのになー、可哀想になー」
・・・そういうケースもあります。

周りもこうして倒れだしたり、あたふたしたり、というのを間近に見ていると、単純に
「頑張って生きる」
という気構えだけではダメで、やっぱり「いざ」に備えて、子供たちが困らないで先へ進める為に必要なことを盛り込んだ遺言状でも書かないといかんなあ、と思いました。
ですが、民法で遵守を保証された僅かな項目(後見人と埋葬と財産に関わることだけ)以外は、拘束力はないんだよなぁ。
財産のない僕がどうあがいても、子供たちを守ってやれるような遺言状は作れない、ってことなんだよなぁ。

カカアの生前、半ば真面目に
「あたしたちの世代は50代まで生きられれば御の字、ってかんじだよねー。」
と二人して話していたのですけれど。
土曜の半ドンが無くなったころに働き始め、週休二日は名目だけで縁はなく、結婚生活を始めてから半分は、二人とも実質週休が1日でした。それも、子供がいるから休めたようなものでした。休む前日は9時頃まで仕事。それでも周りより帰りが早い方で、これも子供が防波堤になってくれたからではありました。独身時代は、少なくとも二十代の間は、どちらも「休日は月2日」・「帰宅は深夜しかもシラフ」でした。僕は営業職を離れて、カカアは担任を外れたり増員のおかげで、三十代になったころようやく、そういう状況から脱出したのです。僕は「うつ」のおかげを蒙って、今はだいぶ楽なペースでの仕事にしてもらえたが、カカアは死んだ年には職場の減員で、あれもこれも引き受けて来てしまうので、ハラハラさせられたもんでした。

暗然。

日本の失業率は過去最高。有効求人倍率は過去最低。


今週綴った記事

・釜山十二華さん、今年も24時間テレビに出演
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-01f4.html

・埼玉県大宮光陵高校管弦楽団第23回定期演奏会
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/23-8e27.html

・増井 一友さんリサイタル(クラシックギター)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html

・素朴な疑問2:「音楽史」本はなぜ20世紀で・・・
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/20-8e78.html

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2009年8月22日 (土)

会津無謀旅、してきました

道中日記を付けていたし、デジカメでヘタな写真も撮っていました。
ですが、綴った日記の抜粋だけをブログに乗せました。
写真がなくて済みません。

息子と、会津に二人旅をして来たんです。
娘が部活動の合宿で・・・息子を一人放っておくのもどうか、と、あらかじめ、盆休みは諦めて、そのあとに3日間の休みをとらせて頂く予定にしていました。
で、娘が
「そのまんまウチん中にいても仕方ないじゃん」
との提言もあって、それに飛びついて、出掛ける1週間前に、急遽、ホテルを予約しました。
旅程はなんにも決めていませんで、行ってから考えよう、式でしたが、それでも結果的に会津若松の鶴ヶ城・飯盛山、猪苗代湖・天鏡閣・野口記念館・裏磐梯の五色沼から檜原湖、と、メインな観光地はゆったり見物でき、若松市内自体は周回バスを使ったおかげで観光目玉である若松市役所だとか東山温泉も雰囲気は味わえ、会津鉄道でのノンビリ旅でしたので、車窓から芦ノ牧温泉や尾瀬への入口なんかも眺められ、二泊三日ながら充実した旅が出来ました。

この一週間のメインは、併せて、吉田美里さんのヴァイオリンリサイタルを聴かせて頂いたことにつきます。
記事にしませんでしたが、実は、アンコールの「子供の夢」に、ちと涙が出てしまいました。

「子供の夢」・・・今日で五十歳になりましたが、子供らしい夢だけは、命が続いている限り消えないものだな・・・と実感しています。欲とか望みとか、じゃなく。

ひとえに、皆様のおかげです。
心より感謝申し上げます。


今週綴った記事

少しおバカさんが治って来たのか、綴るペースは落ちました。
本当にオリコウさんに向かって進んでいるんだったらいいのだけれど。
テストの点が1点上がったくらいのレベルにはいけてるのかなー。
そうでもなさそうです。。。

・吉田美里さんヴァイオリン・コンサート
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7384.html

・素朴な疑問1:ベートーヴェン最後のピアノソナタをめぐって
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4edc.html

・会津無謀旅
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-255d.html

・「芸人」から(永 六輔)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-b9f1.html

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2009年8月15日 (土)

お盆はお盆らしくなく

旧盆時期で、お里帰りのかたも多くいらっしゃるかと存じます。
我が家は、娘が連日部活動だったり文化祭の準備だったりで、今年の盆は久しぶりに帰省はしないで過ごすことになりました。
私自身は、娘が来週前半合宿で不在になりますので、それに併せて会社を休むことにしました。
都内の勤務先のあたりは、旧盆の初日から、いつもの喧噪がウソのように、人の姿が消えました。
昼休みに喫茶店に行っても、連日閑古鳥、です。

マンション住まいなので、玄関前で盆の迎え火も焚けないのですが、そこは地方出ですので・・・加えて、ある友人から
「自分の家はやるんだ」
という話をきかされたのも心にかかって、やっぱり迎え火送り火くらいは炊きたいな、と思って、適当な空き地を探して、割り箸に火をつけてみました。
家内にとっても、大好きだったオーボエ名人Hさんにとっても、指折り数えてみたら、数えるほどでもなく、3回目のお盆なのですよね。
迎え火を焚いて上がった火の先っちょを、子供たちがずうっと空まで見上げたら、そこにちょうど
「明るい星ひとつ みつけました」
でありました。
この時期、織姫星(織女星、こと座のベガ)が、日本では20時頃、ほぼ天頂(頭の真上・・・地平線から90度)の位置に来ます。

ですが、お盆らしいことをしたのは、迎え火くらいなものです。
ウチの小さなお厨子では盆棚も作るほどではありませんし、盆提灯を出そうにも、最近は息子のものが何故かだいぶ増えて、それが仏さんのそばに山のようになってしまっているので、置く隙き間がありません。

盆明けも、代わりになるようなことをするわけではありませんで、娘不在のあいだに、息子と二人、ぶらり旅でもして来ようと思っています。

家族での旅、というと、僅かな機会を除いて、子供たちは、ずっと、お盆と暮れに親の実感帰省する程度の旅経験しかありませんでした。
大型連休も、親の楽隊の合宿にくっついてきていたんですものね。

ですので、・・・娘は残念ながら別行動ですが・・・ちょっと違う夏を経験させたいな、と考えています。

ばちあたりですかねー。


今週綴った記事
・ヴィヴァルディ「調和の霊感」から:好きな曲027
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/027-63a5.html
 ※ 人生で唯一、「楽器ってどう弾くの?」を真剣に考えた頃・・・

・曲解音楽史60):ヨーロッパ「古典派」とは何だったのか
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/60-a1d0.html
 ※ いままでいちばん独断と偏見に満ちた音楽史記事かもです。

・のだめ22巻
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-3ff5.html
 ※ これまた偏見レヴュー。(^^;

・My Life, My Music/ Wand(ギュンター・ヴァント、DVD)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/my-life-my-musi.html
 ※ 値段を記入し忘れたのですが、格安でした。

・サントリー音楽財団創設40周年記念サマーフェスティバル2009
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/402009-03bb.html
 ※ 韓国の素晴らしい女性作曲家チン・ウンスクさん作品が演奏されます

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